日刊鹿島アントラーズニュース

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2016年1月17日日曜日

◇リオ五輪本大会は1クラブ「3人」まで 招集に人数制限設ける(スポニチ)


http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2016/01/17/kiji/K20160117011874320.html

 U―23日本代表がリオ五輪に出場した場合、Jクラブに関してはOA枠を含めて1クラブ3人までの人数制限を設けることが、16日までに分かった。

 日本協会関係者によれば、昨年11月末に日本協会の強化部会でJクラブ幹部も集まり、方針が固められたという。五輪前の直前合宿を含めると約5試合、クラブの公式戦と日程が重複するため「2人まで」とする案もあったが、日本サッカー界における五輪本大会の重要性を考慮し3枠で落ち着いたもようだ。

 今予選に出場している23人のクラブごとの内訳を見ても鹿島、川崎Fの3人が最多。本大会出場メンバーは18人と、今予選から5人減ることもあり、23歳以下の選手については、ほぼ支障なく選出できる見込みとなる。

 ただ、OA枠について関係者は「個別交渉になる」と話しており、代表側に“拘束力”を持たせない方針。OA枠で選出される選手は、クラブでもトップクラスの主力で、欠かせない戦力である可能性が高い。クラブ側の意向もその時の成績などに左右される可能性があり、日本協会側は難しい交渉を強いられることになりそうだ。

◆U23日本代表、4発大勝で決勝トーナメント一番乗り…鈴木、久保らがゴール(サッカーキング)


http://www.soccer-king.jp/news/japan/national/20160117/391995.html



 AFC U-23選手権カタール2016(オリンピック・アジア最終予選)グループB第2戦が16日に行われ、U-23タイ代表とU-23日本代表が対戦した。

 日本は13日に行われたU-23朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)代表戦で1-0の勝利を収め、リオデジャネイロ・オリンピックを懸けた重要な大会を白星でスタートさせた。一方、タイはサウジアラビアと1-1のドローで終え、グループステージ突破に十分可能性を残している。日本は北朝鮮戦から6名を入れ替え、MF南野拓実やFW久保裕也を温存。MF矢島慎也、MF原川力、FW浅野拓磨らが先発メンバーに名を連ねた。

 試合序盤からペースを握ったのはタイ。3分、右サイドでパスを受けたナルバディン・ウィラワットノドムがワンタッチでエリア内右に進入すると、GKと一対一になりかけたが、ここはGK櫛引政敏がなんとか身体を張って防いだが、いきなりピンチを作られる格好になった。

 しかし、ここから日本が徐々に盛り返す。6分、左サイドでスローインを受けた豊川雄太が左足でクロスを入れると、ファーサイドに飛び込んだ矢島慎也が右足でボレーシュート。しかし、ここはGKソンポーン・ヨスが横っ飛びでセーブ。最初のチャンスを生かすことができなかった。

 続く8分、エリア手前でボールを持った矢島がエリア内左に浮き球のパスを供給。これを受けた浅野拓磨がワントラップから左足シュート。しかし、ここは左ポストに当ってしまい、先制点とはならない。直後の9分、今度は右サイドの室屋成がエリア右横からグラウンダーの折り返しを入れると、鈴木武蔵がニアに走りこんだ。シュートまで持ち込めなかったが、こぼれ球がゴール前に浮き上がると、これを豊川が頭で押し込もうと試みたが、今度はクロスバーを直撃。決定機を逃してしまった。

 スコアが動いたのは27分、中盤で遠藤航がボールを持つと、前線に浮き球のパスを送る。最終ラインの裏に抜けだした鈴木が相手DFを強引に振り切り、右足で豪快なボレーシュート。これがゴール右下に決まり、日本が先制に成功した。

 その後も日本が主導権を握ったが、なかなか追加点が奪えない。前半終了が近づくと、再びタイが日本ゴールに迫る。41分、右サイドのナルバディンがエリア内のチャナティプへクロスを入れる。これを受けたチャナティプが遠藤をかわしてシュートを試みたが、原川がなんとかカバーに入って防いだ。このまま1-0で日本がリードを保ち、前半終了を迎えた。

 両チームともにハーフタイムに交代を行う。日本は先制点を決めた鈴木に代えてオナイウ阿道を投入。タイはパコーン・パンルムパックに代えてチェンロップ・サンファオディを投入した。

 するとオナイウのプレーから日本にチャンスが生まれる。49分、エリア手前右でオナイウがボールを受けると、相手DFを抑えながらマイナスの折り返しを送る。ここはゴール前に飛び込んだ浅野らに合わなかったが、流れたボールを原川が拾い、エリア内左に進入。左足で挙げたクロスを中央の矢島がヘディングで押し込み、日本が貴重な追加点を奪った。

 しかし、日本は55分に大ピンチを迎える。左サイドからゴール前に浮き球が入ると、ティティパン・プアンチャンと亀川諒史がこれを競り合う。しかし、ここは亀川がエリア内でティティパンを押したとして、タイにPKが与えられた。キッカーのティティパンが右足で狙ったが、軸足を滑らせながら蹴ったボールはクロスバーを直撃。日本はなんとか失点を免れた。

 60分、再び日本にピンチが訪れる。日本の最終ラインの裏にロングボールが入ると、チェンロップがGKと一対一になりかける。しかし、ここはGK櫛引がエリアを飛び出してクリア。こぼれ球が再びチェンロップにわたりかけたが、今度は奈良がスライディングで防いだ。

 日本は71分に浅野を下げて久保を投入した。すると75分、相手のパスをカットした岩波拓也がそのまま持ち上がり、相手最終ラインの裏へラストパス。オフサイドラインぎりぎりで抜けだした久保がエリア内右でGKと一対一となる。久保が右足でシュートを狙うと、GKソンポーンが触ったボールは高く上がりながらゴール左に決まり、日本が決定的な3点目を挙げた。

 78分、日本は矢島を下げて南野をピッチに送り込み、試合を締めにかかる。すると84分、相手DFの裏に抜けだした久保がエリア内左でファウルを受けてPKを獲得。自らこのPKをゴール左下に沈め、大量4点差をつけた。

 このまま日本が4-0でタイを下し、グループステージ2連勝。日本が全体の一番乗りで決勝トーナメント進出を決めた。

 日本は19日にグループステージ最終節でU-23サウジアラビア代表と対戦する。

【スコア】
U-23タイ代表 0-4 U-23日本代表

【得点者】
0-1 27分 鈴木武蔵(U-23日本代表)
0-2 49分 矢島慎也(U-23日本代表)
0-3 75分 久保裕也(U-23日本代表)
0-4 84分 久保裕也(PK)(U-23日本代表)

◆鹿島ユース時代に小笠原満男から影響を受けたMF西室隆規、大学を経て富山へ「チームのために走れる選手に」(サッカーキング)


http://www.soccer-king.jp/sk_column/article/391800.html

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インタビュー・写真=平柳麻衣

 憧れていた高校サッカー部ではなく、鹿島アントラーズユースを選んだMF西室隆規は、トップチームで輝きを放つレジェンドから刺激を受け、「同じ舞台に立ちたい」と夢を抱いた。結局、トップ昇格は叶わなかったが、法政大学での4年間を経てプレーも人間性も成長を遂げ、カターレ富山でプロ生活のスタートを切る。

鹿島に行ったからここまでやってこれた


――本格的にサッカーを始めたのはいつ頃ですか?

西室 5歳上の兄がスポーツ少年団に入っていたので、ずっとついていってサッカーボールを蹴っていて、小学3年生から僕も本格的に入りました。

――鹿島アントラーズユース出身ですが、加入に至った経緯は?

西室 中学校までは山梨県のフォルトゥナサッカークラブという街クラブでサッカーをやっていたのですが、中学の時に鹿島ジュニアユースが遠征で山梨に来て、練習試合をやった時にたまたま自分の調子が良くて目に留まったらしく、誘ってもらいました。

――今までやったことがあるポジションは?

西室 基本的にずっとボランチですが、左利きなので小学生の頃は左サイドハーフをやったり、FWも少しだけやっていました。

――鹿島ユースに入って、印象的だったことはありますか?

西室 やっぱりアントラーズの練習着を着られることがうれしかったです。あと、同学年にレベルが高くてうまい選手が多かったので、「こいつらに負けたくないな」という想いはずっと持っていました。

――当時、憧れていた選手は?

西室 高3の始めにトップチームの春キャンプに参加して、その後もサテライトの試合に出場することが多かったので、トップの選手と話す機会があったのですが、中でも小笠原満男選手に憧れていました。ある時、満男さんがユースの選手たちに「サッカーが好きな人?」と聞いて、みんな手を挙げたんですけど、続けて「誰にも負けないぐらい努力してると胸を張って言える人?」と聞いた時、自分はすんなりと手を挙げることができなかったんです。そして、「プロの選手だって、プロになってからも一生懸命努力しているから、ユースの君たちはもっと努力しないとダメだよ」と言われて、もっとがんばろうと思いました。

――実際、プロの選手やトップチームの練習の雰囲気についてはどう感じていたのですか?

西室 技術的な部分も人間性もすごい選手がたくさんいたので、刺激を受けることばかりでした。特に満男さんや野沢拓也(現ベガルタ仙台)さん、モトさん(本山雅志/現ギラヴァンツ北九州)、中田浩二さん(元日本代表)などは、名前を聞いただけでうまいとわかるんですけど、一緒にやってみて本当にすごいなと感じました。

――小笠原選手からアドバイスをもらうことはあったのですか?

西室 キャンプの時は練習が終わった後にユースの選手のところに来て、話しかけてくれました。例えば、フィジカル一つにしても、「俺は高校時代、『誰よりも速く走ってやる』っていう気持ちでずっとやっていた。だから自分で限界を決めないで、誰にも負けないぐらいやらないとダメだ」といった話をしてもらいました。

――ユースで過ごした3年間で一番の思い出は何ですか?

西室 やっぱりトップチームのキャンプに参加したことが今でもすごく印象に残っています。キャンプでは選手の素の部分も見られるので、「いい選手は人間性もいいんだな」と感じました。あと、プリンスリーグ(高円宮杯U-18サッカーリーグ2011 プリンスリーグ関東)で優勝した瞬間はうれしかったです。

――高校3年の時はキャプテンを務めていました。

西室 元々そんなに責任感が強い方ではないと思うんですけど、キャプテンという肩書きがついただけで「やらなきゃ」という気持ちになりました。また、いろいろな場面で「例えば、満男さんだったらどうするんだろう」とか、「キャプテンとは、どうあるべきか」と客観的に考えるようになりました。それを自分の行動に反映してみたり、「ここでこの選手に声をかけたらいいんじゃないか」といった気遣いができるようになったと思います。

――ユース時代のプレースタイルは?

西室 中学の時は、ボールを持ったら「俺がやってやる」と思ったり、華麗なプレーをすることに美学を感じていたんですけど、鹿島に入ってからは、「陰で効いてる」と思われるような選手、例えば「この選手が走ってくれたから他の選手が活きた」と思われる選手になりたいと思うようになりました。自分が点を取らなくても自分が起点になって点が入ればいいですし、サッカーを知っている人からうまいと言われる選手になりたいです。僕も客観的に見て派手さはないと思うんですけど、チームのために走ったり、体を張れる選手を目指しています。

――鹿島と言えば、戦術や哲学がチームに浸透しているイメージがありますが、ユースの選手たちにも指導されているのですか?

西室 はい。特に3年生になって、ブラジル人のキッカ監督が来て、熊谷(浩二)さんがコーチになってからは私生活もかなり厳しくなって、オンもオフも「サッカーのために」という生活を送っていました。

――ユースは練習時間がそれほど長くないですよね?

西室 2時間くらいです。でも、練習以外の時間も寮で誰かの部屋に集まって前週の試合のビデオを見て、「これ、ナイスプレー」とか「俺、この場面で本当はこうしたかった」と話し合ったりしていました。

――高体連ではなく、クラブユースに入って良かったと思いますか?

西室 中学の時は高校サッカー選手権に憧れていたので、仲がいい先輩が進学した市立船橋(高校)や静岡学園(高校)に行きたいと思っていたんですけど、今振り返ってみると、やっぱり鹿島に行って良かったし、鹿島に行ったからここまでやってこれたと思います。

――鹿島ユースは今年度、高円宮杯U-18サッカーリーグ2015プレミアリーグEASTを制しました。直接、関わりがある後輩ではないですが、どう思いますか?

西室 自分たちの代の時にプレミアリーグに上がったのですが、今も残ってくれていて、優勝してくれるのは誇らしいですし、素直にうれしいです。


チームが勝たなければ自分は評価されない

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――高校を卒業するタイミングでトップ昇格の話はあったのですか?
西室 クラブの人からは、ギリギリまで迷ったと聞きました。でも結局、「このタイミングでは難しい」という話をされて、その時に法政大からオファーをもらったので行くことにしました。

――法政大以外の進路は考えましたか?

西室 他にも声をかけてくれた大学はあったんですけど、鹿島から法政大に入った人がほとんどいなくて、熊谷さんに「今後、鹿島と法政大をつなげる役割をしてほしい」と言われたんです。僕はあまり他の人と同じことをするのが好きじゃないので、「じゃあ、法政で」と。当時の法政大は2部で、声をかけてくれた中には1部の大学もありましたけど、自分が行って上げればいいと思いましたし、それよりも「鹿島から法政」というルートを自分が作りたい気持ちの方が強かったです。実際、1学年下の後輩も一人、鹿島から法政大に入りました。

――大学サッカーとクラブユースの違いはどんなところに感じましたか?

西室 ユースはグラウンドもユニフォームもスパイクも完全に整えられた環境でできるので、それが当たり前とは思っていないつもりでしたけど、やっぱり最初は違和感がありました。上下関係も大学に入ってから学びましたし。「ユースの頃の方が良かったな」と思うこともありましたけど、そういう環境から離れたからこそ、クラブユースのすごさを感じることができたと思います。

――サッカー面で感じたことは?

西室 強さや速さは高校の時より全然レベルが高いなと感じましたけど、僕は速さや強さで勝負するプレースタイルではないので、判断のスピードをもっと上げないといけないと感じました。

――レギュラーになったのはいつ頃ですか?

西室 入学した年の開幕戦からレギュラーとしてずっと試合に絡ませてもらいました。1年生だからといって遠慮することはなかったですし、プロになるために「試合に出なきゃ」という感覚が強かったです。

――大学4年間でターニングポイントになった出来事はありますか?

西室 3年の時に長山(一也)監督が就任したことです。その年の夏に総理大臣杯で準優勝できたことは、僕の大学サッカーでのターニングポイントになったと思います。

――長山監督が来て、チームはどう変わったのですか?

西室 1、2年生の頃もチームにうまい選手はいたんですけど、私生活やサッカーに対する姿勢に甘さがあったと思います。だから苦しい時に勝てなかったり、連敗してしまったり。でも、長山監督が来て「私生活がサッカーにつながる」と言われて、例えば寮の清掃などの細かいところから意識を変えていったら、サッカーも少しずつ変わっていきました。

――私生活が変わると、サッカーも変わるものなのですか?

西室 僕も最初は信じられなかったんですけど、細かいことができる人ってピッチに立った時も気が遣えますし、うまく自分のところにボールがこぼれてくるんですよね。「神様がいる」というわけじゃないですけど、自分のところに運を運んでくるというか。そういう意識を持つことがすごく大事だなと思いました。

――3年生で2部リーグ優勝を経験し、最後の1年は1部に挑戦しました。レベルの差は感じましたか?

西室 2部の時も総理大臣杯で1部のチームに勝っていたので、正直、そこまで変わらないだろう思って、優勝を目標に掲げて臨んだんですけど、開幕戦で負けて(慶應義塾大学に0-3で敗戦)、そんなに甘くないなと感じました。その後、慣れてきたら勝てるようになって、前期リーグは3位で終わったんですけど、「もっとやれる」という気持ちが残りました。

――後期リーグは苦戦し、最終順位は7位でした。

西室 後期リーグ開幕戦に勝ってからは引き分けや負けが続きました。みんな今までどおり練習も私生活もしっかりやっていたのに、なぜか勝てないという状況で。監督がIリーグのメンバーを入れたり、フォーメーションを替えたりしたことで、リーグ終盤は良くなったんですけど、最初にこけてしまったのが痛かったですね。

――最終節は早稲田大学に敗れ、目の前で優勝を見届けました。

西室 今の自分やチームの現状を痛感し、悔しかったです。早稲田大の選手たちには技術の面で負けているとは思いません。でも、チームのためにといった謙虚さや献身性が自分たちよりあり、そこに差があると感じました。来年、あの舞台で勝ちきることができるチームに法政大はなれると思うので、がんばってほしいです。

――新シーズンからカターレ富山に加入しますが、経緯を教えてください。

西室 長山監督が元富山の選手ということもありますが、富山のスカウトが熱心に毎試合観に来てくれて、その度に話しかけてくれたことが加入を決めた理由の一つです。

――富山以外からもオファーはあったのですか?

西室 正式なオファーは富山だけでしたが、興味を持ってくれたクラブはあったので、富山に返事をするのが遅くなりました。でも、富山に行くと決まった今は、このスタートラインからがんばろうという気持ちが強いです。

――最後に、今後の目標を聞かせてください。

西室 大学3年生の総理大臣杯で準優勝した時に、自分を気にかけてくれる人やクラブが増えて、チームの成績が個人の評価も上げてくれることを学びました。今後もチームが勝たなければ自分は評価されないと思うので、まず自分が試合に出て、富山がJ2、そしてJ1に上がっていけばいいなと思います。

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