日刊鹿島アントラーズニュース

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2017年7月16日日曜日

◆MF有馬幸太郎の後半AT弾で鹿島ユースが引き分けに持ち込む(高校サッカードットコム)


熊谷浩二

【高円宮杯U-18サッカーリーグ2017 プレミアリーグEAST】

 高校年代最高峰のリーグ、高円宮杯U-18サッカーリーグ2017プレミアリーグのEAST第9節1日目1試合が7月15日に行われた。

 4位の鹿島アントラーズユース(茨城)と7位の浦和レッドダイヤモンズユース(埼玉)の一戦は6分にシマブク・カズヨシのゴールで浦和レッドダイヤモンズユースが先制し、前半を1-0で折り返す。1点のビハインドで迎えた鹿島アントラーズユースは、迎えた後半アディショナルタイムにMF有馬幸太郎の値千金の同点ゴールにより1-1で引き分けた。

 なお、プレミアリーグEASTは第9節2日目は16日に行われる。

http://koko-soccer.com/news/5-koukousoccer/8657-premier

◆仕上がり順調! 内田がチーム唯一のフル出場でTM完封勝利(ゲキサカ)




 DF内田篤人の所属するシャルケは15日、パーダーボルン(3部)とトレーニングマッチを行い、1-0で勝利した。先発した内田はチームで唯一最後までプレーし、白星に貢献している。

 8日のトレーニングマッチでは内田の2ゴールもあり、9-1で大勝したシャルケ。前回は後半開始からの出場だった内田がスタメン起用されると、前半20分にFWエフゲニ・コノプリャンカが決めて先制に成功する。その後、追加点こそ奪えなかったが、チームでただ1人フル出場した内田を中心に1-0で逃げ切った。

 前回の初陣から2連勝を果たしたドメニコ・テデスコ新監督は、クラブ公式ツイッター(@s04_jp)を通じて「まだ数多くのすべきことがあると確認した非常に有用な試合だった。ユース所属の選手達は皆良い試合をした。全員を見るためにこれから時間を取るつもりだ」とコメントしている。

http://web.gekisaka.jp/news/detail/?221132-221132-fl

◆柴崎の残留を諦めないテネリフェ、“思いやりオプション”で引き止めか(ゲキサカ)




 テネリフェはMF柴崎岳のチーム残留を諦めてはいない。新たなオプションを付け、日本人ゲームメイカーの引き止めにかかるようだ。

 柴崎は今年1月の移籍市場でテネリフェに加入し、シーズン終盤の昇格争いでチームをけん引。あと一歩で1部昇格を逃したことで、今夏の契約満了とともにテネリフェを去ると見られているが、1部でのプレーを希望する柴崎の去就に依然として進展はない。

 テネリフェはそんな柴崎に対し、新たな条件を提示して引き止めを試みるつもりのようだ。スペイン『エル・ドルサル』によると、仮に来年1月の移籍市場で柴崎に1部クラブからオファーが届いた場合、移籍を容認する条件を契約に盛り込むという。

 柴崎が加入直後に体調不良などで出遅れた際も全面的にサポートし、環境に適応するまで見守り続けたテネリフェ。その“柴崎愛”は再び本人に届くのだろうか。

http://web.gekisaka.jp/news/detail/?221091-221091-fl

◆【黄金世代】第3回・小笠原満男「ジーコジャパンの真相と、セリエA挑戦の深層」(♯5)(サッカーダイジェスト)


あの4人がいると、まあ出れなかったね。悔しさはあったよ。


 日本代表における小笠原満男のハイライトは、はたしてどの時期だろうか。
 
 国際Aマッチの出場記録は、55試合・7得点。この数字を本人に伝えると、少し驚いたような表情を見せ、「そんなに出てたの? びっくりだね」と目を丸くした。
 
「代表に選ばれるって本当に光栄なこと。みんなが行きたくても行けない場所だし、限られたひとしか行けない。なかなか出れなかったから、悔しい想いをしたなぁってのはあるけど、思い出はたくさんある。55試合も出たって実感はないけどね」

1999年のワールドユースで眩いばかりの輝きを放った小笠原だが、その後のシドニー五輪代表では一度もメインキャストとはなれず、フィリップ・トルシエ監督との間にあった微妙な距離は、一向に縮まらなかった。

 ところが、2002年日韓ワールドカップ目前の3月に、急転直下の展開を見せる。親善試合のウクライナ戦に初招集され、A代表デビューを飾ったのだ。そしてなんと本大会の登録23人枠にも食い込んだのである。

 本人も周りも、あっと驚くサプライズ選出だった。

「正直、2002年は行けると思ってなかった。冷静に見たら難しいと。だから驚いたよね。なんで呼ばれたのかは……いちいち(トルシエに)訊いてないから分からない(笑)。なんでだったんだろ。とくになにも言われなかった。

 試合はチュニジア戦(グループリーグ第3戦)にほんのちょっと出ただけだけど、日本の国中が応援してくれたから、嬉しかったよね。サッカーの力ってすごいなって実感した。ホテルから会場に行くまでの道路沿いで、ずらっと並んで日の丸を振ってくれてさ。いい経験をさせてもらった」

 そして、恩師ジーコが代表監督に就任する。すると小笠原は中盤に欠かせない存在となり、ドイツ・ワールドカップまでの4年間、すべての試合や遠征に招集された。

 だがそれは、自問自答を続ける葛藤の日々でもあった。

「トルシエさんの頃に比べたら割と使ってもらえるようにはなった。でも、海外でやってる選手が帰ってくると出れない、いなければ出れるっていう構図。なんとか覆して自分のポジションを確立したいと思ってたけど、ヒデ(中田英寿)さん、(中村)俊輔さん、シンジ(小野伸二)、イナ(稲本潤一)の4人がいると、まあ出れなかったね。悔しさはあったよ」




あの時のシンジの姿勢がいまでも忘れられない。



 そんな中でも、ひとたびピッチに立てば、小笠原は印象深い働きを披露した。その最たるゲームが、2005年6月3日のドイツ・ワールドカップ最終予選、敵地でのバーレーン戦だ。圧巻のパフォーマンスを示し、鮮やかなミドルシュートを蹴り込んで1-0の快勝に貢献。3大会連続出場をグッと引き寄せる、貴重な3ポイント奪取だった。

 このバーレーン戦の前日、小笠原は生涯忘れることのない出来事に遭遇する。

「あの試合は、シンジが直前の練習で骨折して、俺に出番が回ってきただけ。急きょ出ることになったわけだけど、あの時のシンジの姿勢がいまでも忘れられない」

 日本でのキリンカップで散々なパフォーマンスに終始し、ジーコジャパンへの風当たりは日増しに強くなっていた。チーム内にも不穏な空気が立ち込め、中東入りしてからもムードが高まってこない。そこで危機を察した主将の宮本恒靖が呼びかけ、選手たちだけで話し合いの場を設ける。上も下も関係なく大いに意見をぶつけ合った。

 大事な2連戦(バーレーン戦と北朝鮮戦)を前に、チームはなんとか一枚岩となれた。いわゆる「アブダビの夜」だ。

 その翌日だった。バーレーンに移動した直後の練習で、小野が右足の甲を骨折してしまう。2日後のバーレーン戦はおろか、長期離脱を懸念されるほどの大怪我だった。

 ミツオはよく覚えているという。

「シンジ自身、出れなくなってそうとう悔しかったと思う。それだけ大事な試合だったからね。でもさ、怪我した後なのに心配させまいと、食事の時とかでも、みんなの前でニコニコしてて……。その直後、俺が代わりに出るような雰囲気になって、声をかけてくれた。『頑張れよミツ、応援してるからな』って。このひと、本当にすげぇなと思った。

 ずっとシンジが出てて俺が出れなくて、多少なりとも悔しいとか思ってた自分が恥ずかしくなった。バーレーン戦は、シンジに頑張ってくれって言われたから、頑張っただけだよ。シンジの代わりを果たしただけ。自分の感情を抑えて笑顔で振る舞って、代わりに出るヤツに頑張れって……。感じるものはすごくあったし、いまでも忘れられない」

 鬼気迫るプレーで中盤を牽引し、決勝点も挙げる奮迅の働き。ゴールを決めた後には、めずらしく雄叫びを上げた。

 友に捧げる、会心の一撃だった。


すべて一回ぶち壊して、勝負してみたいってのがあった。



 1年後、ジーコジャパンはドイツに降り立った。結果は、グループリーグを1分け2敗で終える惨敗。小笠原はクロアチア戦(第2戦)とブラジル戦(第3戦)で先発を飾った。

「いろいろ言われたけど、俺はすごくいいチームだったと思うし、もっと勝てるチームだった。海外でプレーする選手が多くて経験値もあんなに高かったのに、なんで勝てなかったんだろうって。なんかバラバラだったみたいな意見もあったらしいけど、単純に結果として負けただけで、実際はすごくまとまってたんだよね。

 よく言われた海外組と国内組、世代間がどうとか、まるでなかった。ツネ(宮本)さんとヒデさんを中心に、なにかあればよく話し合ったし。ものすごくいいチームだったと思う」

 ワールドカップが終わってほどなく、小笠原は自身初の欧州挑戦に乗り出した。セリエA、メッシーナでの10か月間だ。

 とかくこの挑戦を、失敗だったと見る向きが少なくない。それもそうだろう。リーグ戦には6試合(1得点)しか出場できず、コッパ・イタリアなどを合わせても、公式戦で10試合しかプレーしていない。ベンチ外だったゲームがほとんどだ。

 だが、それでも、ミツオにとってはかけがえのない充実した日々だった。

「まあ、よそから見たらほぼ活躍できずに終わった1シーズンかもしれないけど、俺の中では本当に濃かった。鹿島でずっと試合に出させてもらって、代表にも常に呼んでもらってたところで、なんとなくマンネリ化じゃないけど、そういうのをすべて一回ぶち壊して勝負してみたいってのがあった。

 行ってみたら、実際そうなのよ。おまえは誰だってところから始まって、ただの日本人じゃねえかって。なにもかもを一から証明しなきゃいけない。プレーもそうだし、言葉もそうだし、いろんなものを一から築き上げていく作業が全部面白かった。試合に出れなかったのはすごく悔しい。だからこそ出たい、絶対に使ってもらいたいと必死に取り組めたのが、本当に新鮮に感じられた。

 それこそ清雲(栄純)さんが監督の時のユース代表や、鹿島に入ったばかりの頃と同じ感覚。それを感じられたのが、なによりの財産になった」



冗談で『ヤナギサワラ』とか言われたけどね。


 磨き上げられたのは、イタリア仕込みの守備センス。やがてフットボーラー小笠原はマイナーチェンジを完成させ、さらなる進化を遂げるのだ。
 
「それまでは攻撃的な選手としてやってたけど、メッシーナで初めてボランチ気味にプレーした。強いチームじゃないから守備の時間がすごく長いわけですよ。いかに相手からボールを奪うかが一番大事なところで、とにかくそこの強さを求められた。
 
 守備で魅せるような選手じゃなかったじゃない? それまでの俺は。でもメッシーナではすごく学んで、鹿島に戻ってきてからもいちばん表現したいのがそこだった。相手からボールを奪うってところ。得るものが多かったし、本当に濃い時間だった」
 
 本音を言えばもっと欧州でプレーしたかったが、メッシーナがセリエBに降格し、そもそも鹿島とはレンタル契約だった。「ほとんど試合に出れてなかった俺に、(鹿島は)帰ってこいと言ってくれた。素直に嬉しかったよね」と、復帰を決意した。
 
「もしスペインとかでプレーしてたら、本来の攻撃なところに磨きを掛けられたのかもしれないけど、オファーがなかったからね。でも、イタリアだからこそ学べたものがある。俺に足りない守備力を高めてくれたし、人間としても成長させてくれた。いいチームに行ったのかなって思うね、いまとなれば」
 
 イタリア南部の島には、奥さんと娘たちも連れていき、ともに充実した日々を過ごした。
 
「ぜんぜん苦じゃない。むしろ楽しかった。町ゆくひとには、ヤナギ(柳沢敦)さんもちょっと前までいたから、冗談で『ヤナギサワラ』とか言われたけどね。食事はおいしいし、言葉を覚えて買い物に行ったり、いろんなとこ旅行に行ったり。子どもは地元の幼稚園に入ったんだけど、最初は泣きながら通ってたのが、いつしかイタリア語で『水ちょうだい』とか言えるようになったりね。家族みんなで頑張って成長しながら、言ってみれば、苦労を楽しめた」
 
 帰国して鹿島に戻ると、愛着のあった8番は野沢拓也が着けていた。そこで小笠原はなにを思ったか、背番号40を選ぶ。以後、現在に至るまでずっと、チームにおける“最大ナンバー”が代名詞だ。
 
「何番にしようかなーと。なんか一桁って誰かのイメージがあるじゃない。だから誰も付けたことがない番号がいいなって。海外だと99番とかもあったから『マックス選べるの?』って訊いたらダメで、40までだって言われた。だから、深い意味とかまるでない(笑)」
 
<♯6につづく>
 
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
 
※7月17日配信予定の次回は、フットボーラー小笠原満男の真髄と、その内面にぐいっと切り込みます。深すぎるサッカー観に迫りつつ、東北人魂の「これから」、引き際のビジョン、さらにはサッカーを始めた実息への想いまで──。最終回も、ぜひお楽しみに!

http://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=27637

◆【黄金世代】第3回・小笠原満男「栄光の16冠、究極のアントラーズ愛」(♯4)(サッカーダイジェスト)


いまでもずっと忘れられないワンプレーがある。



 1998年春、小笠原満男はJリーグ屈指の名門、鹿島アントラーズの門を叩いた。

 きっとすぐには通じない、そう覚悟していた。だが、居並ぶタレントもトレーニングの質も、想像をはるかに超えるレベルだった。

「試合に出れるようになるまで、3年がひと一区切りだとは思ってたけど、簡単じゃなかった。中盤にはビスマルクがいて、ほかにも同じポジションには増田(忠俊)さんがいて、もう誰も彼もが日本代表かオリンピック代表だもん。この面子の中で出れないのはしょうがない。でも、ここでポジションを獲れれば、それはイコール代表なんだとも思った。

 紅白戦なんて、いつも日本代表とやれてたわけで、楽しくないわけがない。本田(泰人)さんに何回も止められて、秋田(豊)さんに吹っ飛ばされてさ。なんで出れないんだって気持ちより、成長したいって充実感のほうが上回ってた。日本一の選手が集まってくるチームで、日々の練習から得られる確かなものがあった」

少しずつ出場機会を掴み、3年目の2000年シーズンにはついにレギュラーの座を射止めた。21歳にして、Jリーグ、ナビスコカップ、天皇杯の3冠を初めて達成するチームを力強く牽引したのだ。

「まだまだ上のひとたちに引っ張ってもらってる、伸び伸びやらせてもらってる時期だったけど、最終的に3つ獲れたからね。すごい充実感と達成感があった」

 今季で在籍20年目。積み重ねたタイトルの数は16にのぼる。当然ながら、(盟友・曽ケ端準とともに)Jリーグの個人最多タイトル保持者だ。「16個? そうなの? もう何個とか数えてなかったからなぁ」と微笑を浮かべる。

 例えば、思い入れの強いタイトルなどはあるのだろうか。

「劇的だったのは、メッシーナから夏に帰ってきたシーズン(2007年)じゃないかな。もう無理だろうってところから9連勝かなんかして、最終節でレッズを逆転したという。あれはなんかこう、劇的がゆえに印象がある。本音を言えば、突っ走って勝つのが理想なんだけど、いちばん嬉しかったのはあれかな。鹿島としても久しぶりの優勝だったしね(6年ぶり)」

 では、最強チームを選ぶとすれば、いつの時代か。

「そりゃもう、チームとして強かったのは、ジュビロと二強だった頃じゃないかな。まさに俺が入ってすぐの頃の。あれが最強でしょ。めっちゃ強かったもん。まだスタンドから観ることが多かったけど、1点取られようがなにしようが、絶対に負ける気がしなかった。ジョルジーニョ、ビスマルク、マジーニョがいてさ」

 ベストゴールやベストゲームといったありきたりな質問を切り出すと、小笠原は「どれがベストとかってなかなか決めれない。そういうのじゃないけど、いまでもずっと忘れられないワンプレーっていうのはある」と、記憶の扉を開いてくれた。



PKは運じゃない。俺は違うと思う。


 時は、1999年秋。ナビスコカップ決勝、鹿島アントラーズ対柏レイソルの一戦だ。ちょうど同じタイミングでシドニー五輪予選のゲームが国外で開催されていたため、本山雅志と中田浩二が不在。小笠原はベンチメンバーに食い込んでいた。
 
 試合は2-2のまま延長戦に入っても決着が付かず、PK戦に突入。後半頭から出場していた小笠原は6番目のキッカーを任された。
 
「そこでね、外してしまうわけですよ。俺が外して、次に決められて負けた。もう悔しいとかって次元じゃ片付けられなかった」
 
 たったひとつのキック。それが数え切れない人びとの人生と運命を変えうるのだと、身を持って学んだ。
 
「すごく大事なんだって思い知った。諸先輩方がいる中で、ジーコが『お前行け』って言ってくれた。嬉しくて、決めてやるぞって意気込んで、止められた。インサイドキックの重要性をあらためて痛感したし、疎かにしちゃいけないんだって。いまでも本当に忘れられない、印象深い試合。綺麗なゴールとかより、そっちのほうがよっぽど覚えてる。サッカー教室とかで子どもたちに話す時にも、よくこの話を使うくらい」
 
 せっかくなのでインタビュー中ながら、当時のプレー動画を一緒に観た。若かりし頃の自分の姿を恥ずかしそうに眺めながら、「明らかにコースが甘いよね」と呟く。
 
「この時、いったい何万人が悲しんだんだろう。ジーコがよく言ってたもんね。練習してる時は疲れてないから蹴れるけど、延長戦とかやった後で、足がボロボロの状態でも狙ったところに強く蹴れなきゃダメなんだって。いつもと同じ感覚じゃなダメなんだって。本当にその通りだと思った。メンタルも大事だし、ビビってちゃ決めれない。だからPKは運じゃない。俺は違うと思う」



中田は、やっぱりこのクラブの象徴なのかなって思う。



 鹿島のクラブハウスを訪れたのは、およそ8年ぶりだった。

 インタビュールームには過去の対戦相手のペナントやチーム歴代の集合写真が所狭しと張り巡らされ、クラブの重厚な足取りに圧倒される。建物すべてを覆う例えようのないパワー、自信と誇りがみなぎる選手たち、そして、小雨の中でもあしげく練習場に通い、声援を贈り続ける生粋のサポーター。なにもかもが変わっていなかった。

 そして、何度来ても思う。ここは、日本サッカーの宝なのだと。

 ジーコスピリット、そして鹿島イズムとは? 現チームにおいて、この男以外の誰に訊けばいいだろうか。

「俺らのロッカールームの入り口にさ、ジーコスピリッツと題して、3つの言葉が書いてあるの。献身、誠実、尊重。それがすべてを物語ってるんじゃないかな。チームのために戦う献身さ、素直に意見を言い合う誠実さ、お互いをリスペクトし合う尊重の心。チームはファミリーなんだってこと。いちいち言葉で語る必要はないし、試合で一生懸命やる姿勢を見せるだけ。若手とかに、『ジーコはこうだったんだよ』とか言うんじゃなくてね」

 長くキャプテンマークを巻いてきた。継承者としての気概は、並大抵ではない。

「ここはクラブ自体がそこを大事にしている。俺がキャプテンになった時、本田さんや秋田さん、ヤナギ(柳沢敦)さんがなにをやっていたか、どう振る舞っていたか、なにを話していたかをよく思い起こした。最高の見本があるわけだから、それを真似してきただけ。

 あの時こう言ってくれたな、こういう姿勢で臨んでたなって。決して練習では手を抜かないし、少々のことでは練習を休まないし、チームはひとつになって戦うんだって姿勢を見せてくれてた。結果を出してきた、勝ってきたって実績があるから、すべてが正しかったと思える。中田(浩二)もヤナギさんもそうだけど、最後の去り際が素晴らしかった。試合にあまり出れなくなっても文句ひとつ言わず練習を一生懸命やるし、ほかの選手にアドバイスを送ってね」

 同期入団でずっとともに切磋琢磨してきた中田に対しては、さらに熱が込もる。

「きっと悔しい想いはしてたと思うんだけど、最後までやり切ってこのチームを去って行った。中田は引退した年、一回も練習を休んでない。俺の記憶が正しければ。ほとんど試合に出てないのにああいう姿を見せられるって、やっぱりこのクラブの象徴なのかなって思う。恥ずかしいから、面と向かっては言わないけどね(笑)」



レアル? あと一歩で勝てたとか勘違いしちゃいけない。


 昨年末、鹿島はクラブワールドカップで快進撃を続けた。決勝ではレアル・マドリーをあわやというところまで追い詰めたが、一歩及ばず準優勝に終わる。

 あの試合後、小笠原がどこか満足げな表情を浮かべていたのが印象的だった。名だたる強豪クラブと渡り合い、広く世界に鹿島イズムを発信できたと──。
 
 で、訊きたかった。ぶっちゃけ、マドリーはどうだったの??
 
「本気じゃなかったと思うよ、あれでも。それでも勝てるくらい強かった。いつでも点を取れるんだって、あのレベルは。必要最小限で勝たれちゃったなぁって思うもん。いい勝負したねとか、もう少しで勝てたかもしれないとか言われたけど、差はあったよ。差はある。
 
 バルセロナとやってる時のレアル・マドリーじゃないんだから。そこを勘違いしちゃいけない。俺らだって天皇杯で格下とやる時みたいに、難しさがあったんだと思うよ、レアルにしても。あと一歩で勝てたとか勘違いしちゃいけない」
 
 酸いも甘いも噛み分けたレジェンドがそう言うのだ。
 
 こればかりは、謙遜ではない。
 
<♯5につづく>

取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
 
※7月10日配信予定の次回は、小笠原満男が日本代表で刻んだ「55キャップ」の舞台裏に迫ります。そして、わずか10か月間に終わったイタリアでの日々。そこでなにが起こっていたのか、真相が明らかになります。どうぞご期待ください!

http://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=27447

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