日刊鹿島アントラーズニュース

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2019年7月13日土曜日

◆安部裕葵をバルサへ導いた成長欲。 「挑戦する回数が人生では大事」(Number)



安部裕葵 Hiroki.Abe


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 2019年夏。FCバルセロナに所属する初めての日本人選手が誕生した。

 安部裕葵20歳。7月12日、クラブ間合意が発表された。

「瀬戸内から鹿島に来られたのだって、夢のような話でした。そして、今回このようなチャンスがもらえた。鹿島に入っていなければ、僕は普通の大学生だったと思うので。正直、失うものはなにもない。

 大学生になるはずだった僕を海外でサッカーができるまでに(育ててくれて)、そしてバルセロナというチームへの切符を手にできた。それは鹿島というチームに育ててもらったから。僕ひとりで果たせたものじゃない。そういうなかでこういうチャンスをもらったのに、行かないという選択肢はない」

 クラブハウスで安部が口にしたのは、高校を卒業し、鹿島アントラーズからオファーが届き、加入を決めたときの話だった。

 中学時代はS.T.FOOTBALL CLUB(エスティーフットボールクラブ)というクラブチームでプレー。プロ入りを目指して選んだのが、広島県にある瀬戸内高校。しかし、そこで先発の座を確保できたのは、3年になってからだった。

 それでも、夏のインターハイでの活躍が鹿島の椎本邦一スカウトの目に留まった。それは同ポジションで獲得を目指していた別の選手に断られたことがきっかけでもあった。

 正直にそれを告げたうえで、交渉が始まった。「話をしてみたら、(柴崎)岳のような雰囲気があり、しっかりとした考えの持ち主だった」と椎本氏は当時を回想している。


サッカーの本質を学びたい。


 アンダー年代の代表に選ばれたこともない無名の選手。そんな状態でプロ生活が始まった。

 途中出場が多かったルーキーイヤーを経て、2シーズン目となった2018年は先発出場が増えた。U-19代表にも選ばれると、自然に海外を意識するようになっていく。それはクラブやリーグへの憧れというよりも、「成長したい」という向上心だった。

 鹿島でも、自分が気になる選手がいれば自分から話を聞いた。そして自身の変化を客観的に捉える力が、安部にはあった。出場機会が増えた昨シーズンには、サッカーに対する考え方も変わった。

「僕自身、去年の途中あたりからサッカーがすごく好きになった。今まではただボールを追いかけて、ガムシャラにしかやってこなかった。だから、戦術的なものをほとんど経験してこなかったんです。

 でも今はもっとサッカーの本質、そういうものを学びたいと強く思っています。ポジショニングだったり、見るところだったり。いつも何か吸収できることがあるんじゃないかと、常に気を張りながら練習や試合に臨んでいます」


内田篤人が話していた安部評。


 サッカーはひとりでできるスポーツではないし、ボールを持った時のプレーだけがサッカーではない。自分のポジショニングが味方を動かし、チームを変えていく……それを意識するようになった。

 試合に出続けるために、自身に足りないものを探す。きっと鹿島の中で、そんな思考が必要だと気づいたのだろう。

 優勝したACLでは守備でも奮闘し、クラブW杯ではゴールも決めた。レアル・マドリーに敗れた後、周囲の目を気にすることなく、号泣していたことも懐かしい(実は本人は当時から現在まで、この話をしたがらない)。

「裕葵の練習に対する強度には、『海外でやる』という意志が見え隠れしてる。そういう追い込み方でやっている。べつにハッパをかけなくても頑張れるタイプだから」

 内田篤人は安部について、そんなふうに話していたのが印象深い。


「サッカーは助け合いだから」


 背番号10を担った今季の安部は、先発出場が減った。また得点やそれに繋がるアシストなど、目に見える仕事というのは少なくなったかもしれない。それでも、本人は「伸び悩みだとかそういうことは感じていない」と話している。

 その中で心境が垣間見えたのは、4月のACLグループステージ、アウェーでの慶南戦でのことだった。チームは2点ビハインドから逆転勝利したが、安部に笑顔はなかった。チーム全体がうまくいかなかっただけでなく、安部自身が活きる場面も少なかったからだ。

「仕掛ける場面、ドリブルする場面がなかった。そういう位置で受けないといけないのも確かだけれど、ボールを受けられないので、もうひとつ手前の位置でプレーするしかなかった。そうなると窮屈だし、やはり自分の得意な位置、形でボールをもらいたい。でもそんな自分の思い通りにはいかないので。

 サッカーはチームスポーツだし、助け合いだから。僕も味方に助けてもらっているし。でもちょっとでも早く自分のスタイルを確立できれば、チームの助けにもなると思う。それができるようになりたい」

 自分のやりたいプレーを表現できないというストレスはどんな選手でも持つものだ。しかしそれを飲み込んで「助け合いだから」と言い、そして「個も大事。それをもっと磨きたい」と前を向いた。

 3分程度の会話だったが、彼の気持ちや切り替えの速さ、そして思慮深さを思い知った。


成長できる環境なら高望みするべき。


 バルセロナからオファーが来たら、選手ならば喜んで当然だ。悩んだり、躊躇する必要はないだろう。だとすれば「なぜ、バルサへ?」と聞くのも、また愚問なのかもしれない。

「新しい環境で自分の力を出しにいくだけでなく、成長するために行く、というのを常に考えています。誰かとの勝ち負けや競争ではなくて。もちろん、試合に出られればそれはそれ。ただ、それ以外の時間は自分自身の成長を求めたい。結局、それができない人は競争には勝てないですから。

 まして、僕は20歳です。試合に出られる身の丈にあったクラブへ行ったほうがいいなんて思わない。そういう気持ちだったら、鹿島にも来なかったはず。もちろん、海外へ行けば必ず成長できるという保証もないですよ。

 でも学校の勉強と一緒じゃないですか? 年齢が上がるごとに知らないことをどんどん学んで、テストしての繰り返し。サッカーも同じです。知らないものを学べるか、自分の経験していないものを素直に採り入れられるか、どこまで行けるかだと思います。

 僕は鹿島に入って成長して、海外挑戦できることになった。成長することで自分だけでなく、親や周りの人も喜ばせられる。結果を出すには、運やタイミングなどいろんなことが影響してくる。でも、成長に関しては自分自身なので。成長できる環境なら高望みするべきだと思います。勇気というか、たぶん向上心、好奇心が僕には生まれつきあるので、自然とこういう選択ができた」


ただただ成長するために行くので。


 安部は将来から逆算するというよりも、足元を見ながら歩いているタイプだ。だからこそ、「日々、毎日を過ごす環境」が一層大事になるはずだ。

 学びがあふれる場所を彼は選んできたし、そういうクラブに選ばれた。バルセロナ入りの切符を手にした今も、キラキラと輝く未来を描いているわけではない。

「いや、何も考えてないですよ。ただただ成長するために行くので。それはサッカーを含めて……人として。もしサッカーを辞めた方が成長できるんじゃないかと思えばそういう選択をしますけど、しばらくそういう考えにはならないと思います。

 もし、Jリーグに戻った方が成長できるんじゃないか、と思えばJリーグに戻りますし、海外でずっと長くいた方がいいんじゃないかと思えば、もちろんそうします。そして今は海外で長くプレーした方が成長につながると考えています」


挑戦する回数が人生において大事。


 アーセナルに加入した稲本潤一など、若くしてJリーグからトップクラブへと移籍した日本人選手の系譜がある。そこに名を連ねた安部だが、未来に約束されたものは何もない。

「満足せず、挑戦する機会があれば、僕はいつまでも挑戦するつもりです。成功や失敗の数ではなく、挑戦する回数というのが人生において大事だと僕は考えている。失敗も成功もいい思い出になると思う。

 もちろん成功するつもりでがんばります。僕が活躍すれば、鹿島のためにもなる。そういう姿勢で感謝の気持ちを伝えていきたい」

 欧州で活躍する日本人選手の多くが、エリートと言われるキャリアを歩んできた。そこでは、日本代表や五輪代表などでの活躍が移籍に繋がっている場合が多い。そう考えると、安部の場合は異例とも言える。

 代表キャップはわずか3。Jリーグでも「これから」という選手だ。でもだからこそ、この挑戦の価値は大きい。

「憧れの選手なんていなかった。ある意味、冷めた子どもでした。小学生時代もサッカーはやっていましたけど、プロ入りについても考えたことはありませんでした。ただサッカーが好きで、負けず嫌いだったから。トレセンに選ばれたこともなかったし、Jリーグの下部組織に所属する機会もなかったですし」

 以前、自身の幼少時代を安部はそんなふうに話していた。プロになり、鹿島サポーターのキラキラした瞳に感動し、プロである喜びを明かしてくれたこともある。

 安部裕葵の未来は、今日の一歩、今日の練習から始まる。今までと同じように実直に歩んでほしい。







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