日刊鹿島アントラーズニュース

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2020年4月30日木曜日

◆Jリーグ 再開後はスタジアムでの飲食店営業自粛へ グッズ店含め周辺の営業も対象の見込み(スポニチ)






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 新型コロナウイルス感染拡大の影響で公式戦を中断しているJリーグが再開後もスタジアムでの飲食店、グッズ店などの営業は自粛の方向で調整していることが29日、分かった。関係者によれば、いずれも3密(密閉、密集、密接)のリスクを完全に回避することが難しいための措置という。
 Jリーグでは現在、無観客での再開案にかじを切っているが、今後の状況次第では収容率を制限、席割りも工夫しながら、段階的に観客も動員する考え。その際、3密のリスク回避は不可欠だ。店舗前には行列ができるケースも多く、関係者によればスタジアム周辺での営業も自粛の対象となる見込みだ。

 現時点の再開案は6、7、8月の3パターン。真夏の開催で動員が可能となれば熱中症のリスクも伴う。飲食店の営業を自粛した場合、飲料の確保はどうするか今後も対策が協議される。サポーターにとって店舗巡りも観戦の楽しみの一つ。営業面でも苦渋の選択となるが、まずは安全を最優先し、再開を目指す。




◆Jリーグ 再開後はスタジアムでの飲食店営業自粛へ グッズ店含め周辺の営業も対象の見込み(スポニチ)





2020年4月29日水曜日

◆元鹿島MF川島大地が現役引退発表…“苦悩”明かすも「幸せな11年でした」(ゲキサカ)






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 ギラヴァンツ北九州は28日、昨季限りで契約満了が決まっていたMF川島大地(33)が現役を引退し、普及事業課コーチに就任すると発表した。

 茨城県鹿嶋市出身の川島は2009年、東海大から鹿島アントラーズに加入。鹿島では公式戦出場歴はなく、主にモンテディオ山形とギラヴァンツ北九州で活躍した。リーグ戦通算成績は115試合6得点だった。

 川島はクラブを通じて以下のコメントを発表している。

「新型コロナウィルスの影響で皆様が大変な思いをされている中、私事で恐縮ですが、この度現役生活の幕を閉じる事になりました。

まず始めに、波野S.S.S.、鹿島中学校、鹿島高校、東海大学、鹿島アントラーズ、モンテディオ山形、ギラヴァンツ北九州で関わったチームスタッフ、チームメイト、ファン・サポーターの皆様、全ての人に心から感謝しています。

そして、どんなときも応援してくれた家族、いつも側で支えてくれた妻にも改めて感謝しています。

これまで携わってくれた全ての人が僕をJリーガーにしてくれて、歓声の沸くピッチに立たせてくれて、一度消えかけた火をもう一度燃やすチャンスをくれて、11年間Jリーガーでいさせてくれました。とても貴重な時間を与えてくれました。

正直、サッカー選手としては、とても胸の張れる11年ではありませんでした。ケガに悩み、プロサッカーの現実を見せつけられ、苦悩の日々の方が多かった気もします。

しかし、その中でも一枚の横断幕や一節のチャント、激闘の一試合や歓喜の一点、そして歓声の沸く一瞬を何度か経験できた事はその苦悩の日々を苦悩と思わせず、僕にとって輝かしい11年にしてくれました。本当に幸せな11年でした。

これからは、自分を支えてくれた人たちに少しでも恩返しができるよう、精進していきたいと思います。

そして、今までの経験を活かして新しい自分に挑戦し、突き進んでいきたいと思います。その一歩として、普及事業課コーチとしてまたこのクラブに携われる事になりました。大変嬉しく思います。北九州のために一生懸命頑張ります!

最後になりますが、現在、私達は世界中で見えない敵と戦っています。一刻も早く事態を収めるためには、現場で体を張って戦ってくれている医療従事者だけではなく、それ以外の人達の行動がとても重要になります。今こそ皆さんの想いを一つにして、この危機を乗り越えましょう」


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◆元鹿島MF川島大地が現役引退発表…“苦悩”明かすも「幸せな11年でした」(ゲキサカ)





◆インハイ中止…”12年前の得点王”大迫が高校生にメッセージ「僕も大きな目標だった」(ゲキサカ)



大迫勇也 Yuya.Osako




 日本体育連盟は26日、全国高校総体(インターハイ)の中止を決定し、報道機関を通じて発表した。これを受けて28日、日本代表FW大迫勇也(ブレーメン)が日本サッカー協会(JFA)の公式Youtubeを通じて高校生にメッセージを送っている。

 2008年の全国高校選手権で過去最多の一大会10得点を記録し、高校サッカーの象徴としても語り継がれるストライカーによる激励だ。大迫自身は同年夏、埼玉総体で得点王に輝いて大会優秀選手に選出。インハイから選手権を経て、プロへと羽ばたいた過去を持つ。

「世界中がコロナウイルスの影響でたいへんな状況になっています。そんな中でインターハイも中止になると聞きました。インターハイは僕も高校生の時、一つの大きな目標だったのですごく残念です。みんなもインターハイを一つの目標と、大学やプロサッカー選手を目指している人や、ここを区切りにして受験や自分のやりたいことに挑戦する人もいると思います。その目標を今回、こういうふうな形で失うことはすごくショックを受けているだろうと思います」。

 まずは自身の過去を振り返り、喪失感を覚える選手たちに思いを寄せた大迫。その一方で、未来への可能性を持つ若者に対し、前向きに励ましの言葉を送った。

「ただ、みんなが目標に向かって努力をしてきたこと、チームで頑張ってきたことはサッカーだけじゃなく、この先の人生で絶対にプラスになります。僕も高校生の時に努力したこと、その時の仲間は今でも力になっています。この先、いろんなことがあると思いますが、ここまで頑張ってきたみんなはなんでも乗り越えられると信じています」。

 現在、大迫が所属しているブンデスリーガでも、再開への取り組みが日々試行錯誤されているという段階。自宅でのトレーニングが続いている29歳は「僕がいるドイツでも、今は練習や試合ができない厳しい状況が続いています。この状況をみんなで前向きに乗り越えていきましょう」と語りかけた。


◆インハイ中止…”12年前の得点王”大迫が高校生にメッセージ「僕も大きな目標だった」(ゲキサカ)






◆J最多優勝の鹿島アントラーズらしさを表す、 MVP受賞者わずか3人の謎(Sportiva)






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MVPに見るJリーグの歴史(2)

 まずは、クイズから始めてみたい。

 過去Jリーグでは、延べ人数にして全27人の年間MVP受賞者のうち、18人はそのシーズンの優勝クラブから選ばれている。つまり、優勝クラブからMVPが選ばれなかったケースが9回あるのだが、「MVPなしの優勝」回数が最も多いのは、どのクラブか。

 答えは、鹿島アントラーズ。そもそも1996年の初優勝以来、鹿島は史上最多8回のJ1制覇を成し遂げているのだから、確率的に言えば当然の答えかもしれない。その優勝8回は、2位横浜F・マリノスの4回を大きく引き離す、断然のトップである。

 では、鹿島の「MVPなしの優勝」は何回あるのか。

 答えは、実に5回。これにはちょっと驚く人も多いのではないだろうか。つまり、鹿島が優勝した8シーズンのうち、鹿島からMVPが選ばれたことは、半分以下の3回しかないのだ。

1996年=○ジョルジーニョ
1998年=×中山雅史(ジュビロ磐田)
2000年=×中村俊輔(横浜F・マリノス)
2001年=×藤田俊哉(ジュビロ磐田)
2007年=×ロブソン・ポンテ(浦和レッズ)
2008年=○マルキーニョス
2009年=○小笠原満男
2016年=×中村憲剛(川崎フロンターレ)

 逆に、鹿島が優勝できなかったシーズンで、鹿島の選手がMVPに選ばれたケースはというと、一度もない。優れたタレントを数多く輩出してきた常勝軍団のイメージからすると、優勝実績に比して、MVP実績は驚くほど乏しい。

 過去、優勝回数よりも、MVPを獲得した回数のほうが多いクラブが5つもあるのとは対照的だ。

・名古屋グランパス=優勝1回(2010年)/MVP2回(ドラガン・ストイコビッチ=1995年、楢崎正剛=2010年)
・ジュビロ磐田=優勝3回(1997年、1999年、2002年)/MVP4回(ドゥンガ=1997年、中山雅史=1998年、藤田俊哉=2001年、高原直泰=2002年)
・清水エスパルス=優勝0回/MVP1回(アレックス=1999年)
・浦和レッズ=優勝1回(2006年)/MVP3回(エメルソン=2003年、田中マルクス闘莉王=2006年、ロブソン・ポンテ=2007年)
・川崎フロンターレ=優勝2回(2017年、2018年)/MVP3回(中村憲剛=2016年、小林悠=2017年、家長昭博=2018年)

 ここまで極端だと、鹿島だけが不当に低い評価を受けているのではないか、と疑いたくなるほどである。

 しかしながら、この事象は、ある意味で「鹿島らしい」とも言えるのではないだろうか。

 つまり、鹿島が常勝軍団となりえたのは、特定の選手に頼るのではなく、チームとしての総合力が高かったから。あるいは、特定の選手だけが目立たないほどに、戦力が粒ぞろいだったから。そして、コンスタントに力を発揮できないシーズンでも、ここぞの勝負どころで驚異的な勝負強さを見せてきたから。その結果が、史上最多の優勝回数に表れているということだ。

 ちなみに、特定の選手に頼らないということで言えば、過去に鹿島から生まれた得点王も、2008年のマルキーニョスのみ。延べ31人も歴代得点王がいながら、鹿島の選手はたったひとりしかいないのだ。

 過去に3人以上の得点王を生んだクラブが6つもあることを考えれば、ここでも鹿島の少なさが目立つ。

・横浜F・マリノス=ラモン・ディアス(1993年)、仲川輝人(2019年=優勝)、マルコス・ジュニオール(2019年=優勝)
・浦和レッズ=福田正博(1995年)、エメルソン(2004年)、ワシントン(2006年=優勝)
・ジュビロ磐田=中山雅史(1998年、2000年)、高原直泰(2002年=優勝)、前田遼一(2009年、2010年)
・ガンバ大阪=パトリック・エムボマ(1997年)、アラウージョ(2005年=優勝)、マグノ・アウベス(2006年)
・名古屋グランパス=ウェズレイ(2003年)、ジョシュア・ケネディ(2010年=優勝、2011年)、ジョー(2018年)
・川崎フロンターレ=ジュニーニョ(2007年)、大久保嘉人(2013年、2014年、2015年)、小林悠(2017年=優勝)

 だが、3人以上の得点王が生まれている6クラブも、得点王誕生のシーズンでの優勝となると、上記のとおり、各1回ずつしかない。裏を返せば、これだけの得点王を擁していてもなお、優勝にはなかなか手が届いていない、ということになる。

 その一方で、鹿島から得点王が生まれたのは1回だけ。そのシーズンでは確実に優勝も手にしている。これもまた、鹿島らしい強さを裏づけているのではないだろうか。




◆J最多優勝の鹿島アントラーズらしさを表す、 MVP受賞者わずか3人の謎(Sportiva)





◇「いかなる差別的な行為も絶対に許すことはない」…横浜FMがSNSの心無い投稿に声明(サッカーキング)







 横浜F・マリノスは28日、公式サイトを更新し、差別的な発言などに対し声明を発表した。

 明治安田生命Jリーグは現在、新型コロナウイルスの影響で中断となっている。また、横浜F・マリノスも当面の間活動を休止を発表している。

 この間、選手たちはSNSなどを通じ、ファン・サポーターとの交流を図っているが、心無い反応もあるようだ。横浜F・マリノスは公式サイト上で声明を発表し、注意勧告を行った。

「ここ最近、SNS (ソーシャル・ネットワーキング・サービス)にて、弊クラブ所属選手に対する差別的発言や誹謗中傷を伴う看過できない発言などが、日常的に見受けられるようになっていることが確認されております」

「横浜F・マリノスは、2014 年の弊クラブサポーターによる差別的行為の後、「『 FAIR PLAY, FAIR SUPPORT』差別・挑発・迷惑行為は、絶対に許しません」をスローガンに、人権啓発活動を行っております。そのような中、このようなことが起きたことは非常に残念でなりません。横浜F・マリノスは、いかなる差別的な行為も絶対に許すことはありません。これからも、横浜 F・マリノスは、差別撲滅に向けた取り組みを継続的に行って参ります」


【参考】

2020年4月27日月曜日

◆元鹿島のジョルジーニョはいま、 430人の貧しい子供を育てている(Sportiva)






ジュニアのためのスポーツ食事学 みんなで一緒に強くなろう [ 柴田麗 ]


あのブラジル人Jリーガーはいま
第1回ジョルジーニョ(後編)


 1994年アメリカW杯でブラジルの優勝に貢献。ドイツの名門バイエルンでキャプテンを務めていたジョルジーニョは、1995年、ジーコの兄エドゥの求めに応じて来日。すぐに鹿島アントラーズの中心選手となった。彼の加入にあまり積極的でなかったというジーコも、その移籍が成功だったことを認めざるを得なかった。

 キャプテンとして多くの若き日本人プレーヤーの指南役を務め、チームにタイトルをもたらした。すでに30歳を超えていたジョルジーニョを、ギャリアの終わった選手だとみなす者も多かったが、彼はこれに自分のやり方で反論した。1996年にJリーグの年間最優秀選手に選ばれたのだ。

 1999年、鹿島を退団してブラジルに戻ったジョルジーニョは、サンパウロ、ヴァスコ・ダ・ガマでプレーしたあと、2002年のフルミネンセを最後に引退し、指導者としての勉強を始めた。ドイツに渡り、そこで多くの優秀な監督から学び、かつて在籍したバイエルンで修業を積んだ。

 2005年には、選手のキャリアをスタートしたのと同じアメリカRJで監督を始める。温厚な性格のおかげで、どこにでも友人がいたため、彼にはさまざまな声がかかった。ブラジル代表のアシスタントコーチもそのひとつ。5年間にわたり、ドゥンガの右腕となって代表に尽くしたあとは、いろいろなチームで経験を積み、2012年には、鹿島アントラーズの監督として日本に舞い戻っている。

 1年半、鹿島を率いたあと、彼はまたブラジルへと戻ったが、それは日本での成績が悪かったからではない、ブラジルのビッグクラブ、フラメンゴが彼を招聘したからだ。ブラジル人監督ならば誰もが憧れるポストである。その後もポンチ・プレッタ、アラブ首長国連邦のアル・ワスル、ヴァスコ・ダ・ガマなどで監督を務め、昨シーズンにはコリチーバを率いていた。

 監督としてのジョルジーニョは、選手としての彼ほどは成功していないと言っていいだろう。2012年、鹿島アントラーズでナビスコカップに優勝し、2016年にヴァスコ・ダ・ガマでカンピオナート・カリオカ(リオ州選手権)優勝を勝ち取ったのが目立つ程度だ。

 一方、ジョルジーニョほど多くのスターとともにプレーした選手はそういない。ジーコとはフラメンゴでともにプレーし、フランツ・ベッケンバウアーはバイエルン時代の監督だ。

 もちろん、ブラジル代表ではロマーリオ、ベベット、ジーニョ、ドゥンガ、カレッカ、クラウディオ・タファレル、レオナルドをチームメイトに持ち、偉大な監督マリオ・ザガロとパレイラのもとでプレーしている。代表ではまずライトバック、その後はセンターバックを務め、11年間で71試合に出場、1990年と1994年のW杯に出場した。個人タイトルも多く取っているが、なかでも彼らしいのか1991年に受賞したFIFAフェアプレーアワードだ。

 ジョルジーニョは言う。

「私の人生における一番大きなプレミアムは、私の家族と、そして私の作ったスクールだ」

 スクールの名前は「インスティトゥート・ボラ・プラ・フレンテ」。「ボールを前へ」という意味だ。自分が生まれ育ったリオ近郊の貧しい地区の子供たちを助けるため、彼はこの学校を作った。2000年に設立して以来、ほぼ独力で、何万人という人々を助けてきた。現在は6歳から17歳まで430人の子供たちが学んでいる。みな家が貧しく、学校など行けない者たちだ。彼らはここで基礎的な教育を受け、食事をし、望めばスポーツや芸術などを学ぶこともできる。

 もうひとつの彼の宝である家族は、妻のクリスティーナと4人の子供、そして3匹の犬である。

 55歳になるジョルジーニョは現在、ほかのブラジル人と同じように家で過ごしている。英語を学びながらこの危機が去るのを待ち、その後は新たなチームを探すつもりだ。2019年の終わりにコリチーバを辞めてから、まだオファーはない。

「しかし、こんなことはブラジルでは当たり前だよ。監督は就任するのも、クビが飛ぶのも一瞬だ。自分としてはまだ数年は監督を続けたいと思っている。外国のチーム、もちろん日本のチームも大歓迎だよ。日本は私の中ではいつも特別な国なんだ」




◆元鹿島のジョルジーニョはいま、 430人の貧しい子供を育てている(Sportiva)





◆ジョルジーニョの告白。鹿島移籍時 「ジーコは私をほしくはなかった」(Sportiva)






サッカーラボ 1カ月でプレーがどんどん進化する! [ サッカーラボ編集部 ]


あのブラジル人Jリーガーはいま
第1回ジョルジーニョ(前編)


 1994年アメリカW杯。ブラジルは決勝でPK戦の末にイタリアを下し、24年ぶりに世界チャンピオンのタイトルを手に入れた。その立役者はロマーリオだった。彼は大会中チーム内最多の5ゴールを決め、大会最優秀選手にも選ばれた。しかし、その優勝を陰で支えたもうひとりの功労者がいた。それがジョルジーニョだ。

 本大会を前にブラジルは危機に陥っていた。南米予選の最終戦で、ブラジルはウルグアイに勝たなければならなかった。そうでなければ、史上初めてW杯出場を逃す可能性さえあった。しかしこの時、セレソン(ブラジル代表)の雰囲気は最低だった。ロマーリオがその少し前の親善試合出場を拒否したことで、カルロス・アルベルト・パレイラ監督との仲が決裂しかけていたのだ。

 そこで立ち上がったのがジョルジーニョだった。彼はロマーリオにチームに戻るように説得し、モチベーションを上げさせると同時に、パレイラ監督を落ち着かせた。その結果、ロマーリオはこの試合で2ゴールを決め、ブラジルは無事W杯出場を決めた。ジョルジーニョ自身も1ゴール目をアシストなど活躍。ロマーリオはゴールを決めると。真っ先に彼のもとにかけつけた。

 温厚で常に礼儀正しく、他人をリスペクトするジョルジーニョは、いわばロマーリオと正反対の性格であったが、それがよかったのかもしれない。セレソンの合宿でふたりはいつも同室で、ジョルジーニョは多くの伝説を持つ悪童に忠告ができる、数少ない人間でもあった。いまでも彼らは仲のいい友人である。

 彼がサポートしたのはロマーリオだけではない。ドゥンガも一筋縄ではいかない性格をしているが、彼の代表監督就任中、ジョルジーニョはそのアシスタントを務めている。チームメイトのみならず、対戦相手やサポーターなど、誰からも愛される存在であった。ブラジルサッカーの歴史の中でも、最も紳士的で謙虚な選手といっても過言ではないだろう。

 ジョルジーニョは1964年、リオデジャネイロの郊外の貧しい地区で生まれた。父親のことをジョルジーニョはこう語っている。

「彼はポルトガルからの移民だったが、とにかく酒が好きだった。家に帰るといつも暴力をふるった。今でいうDVだ。母はあまり何度も殴られたため耳が聞こえなくなってしまった。私も手加減なしに殴られた。本当にひどい子供時代だった」

 その父親も早くに亡くなり、一家は貧しかった。ジョルジーニョ少年にとって、サッカーはそんな現実から逃れる唯一の手段だった。

「サッカー人生で最も栄光に輝いていた時でさえ、かつての家での風景がフラッシュバックのように脳裏に蘇る。母が泣き、自分は殴られないようにどこかに隠れ震えている。そんなシーンがまるで映画のように見えてくるんだ」

 彼の持つ優しさは、そうした生い立ちからくるのかもしれない。選手時代、彼は毎日一番に練習場に現れ、翌日のために誰よりも早く就寝した。そんなジョルジーニョをフラメンゴでともにプレーしたジーコはこう評している。

「ジョルジーニョはサッカー選手のお手本のような生活態度だった。彼が頑張っているから、自分も頑張る。そう思う選手も少なくなかったろう。彼はチームのエネルギーの源であり、無くてはならない存在だった」

 ブラジルからヨーロッパに渡っても仕事に対する真摯な態度は変わらなかった。レバークーゼンで多くの勝利を得て、名門バイエルンでは外国人選手ながらキャプテンを務めるまでになったのは、彼の人柄と仕事熱心な態度からだろう。

 1995年、シーズン途中に突如ドイツを離れ、日本へと渡った。当時のいきさつをジョルジーニョ自身が教えてくれた。

「実は日本に行くなんていう考えは自分の頭にはまるでなく、イタリアかスペインに行きたいと思っていたんだ。しかし、バイエルンがヨーロッパのライバルチームに私を渡すのを嫌がっていて、そんな時に日本からのオファーが来た。

 私を鹿島アントラーズに呼んだのはジーコということになっているが、それは真実ではない。私を呼んだのはジーコの兄のエドゥだった。あまり知られていないことだが、ジーコは私をほしがってはいなかった。彼らには、アルシンドの代わりになるような前線の選手が必要だったからだ。でもエドゥの口調は断固としていた。『ジーコと喧嘩をしても僕は君がほしい。このチームには真のリーダーが必要だ。経験があってチーム全体を動かせるようなね』と。その言葉が私を決心させたんだ」

(つづく)




◆ジョルジーニョの告白。鹿島移籍時 「ジーコは私をほしくはなかった」(Sportiva)





◆シュートまでの一連のアクションが 驚くほど滑らかなFW染野唯月(高校サッカードットコム)






月刊サッカーマガジン 2020年 06月号 [雑誌]


 ちょっと何を考えているのか、わからない。

 鹿島アントラーズの高卒ルーキーのひとりである染野唯月のプレーを見て、そんな感想を漏らす人が少なくないが、FWにとってこれほどの褒め言葉はないだろう。

 ボールの周辺状況をめぐり、プレーの優先順位が決まっていくサッカーでは技術もさることながら、相手との駆け引きがものをいう。

 次のプレーを予測させない。もしくは予測されていたとしてもその裏をかく。ギリギリで、プレーの選択を変えられるか、否か。そんな“惑わす力”が攻撃的な選手には問われるといっても過言ではないだろう。

発想の転換と、それを涼しい顔で、やってのける技術の高さ。染野のプレーには思わず腰を浮かしてしまうような驚きがある。

 尚志(福島)2年時の第97回全国高校サッカー選手権で5得点を挙げ、大会得点王を分け合った(ほかに2人)。なかでも衝撃的だったのは、準決勝の青森山田(青森)戦でのハットトリックだろう。ゴールへのアプローチからフィニッシュに至るまで、どれをとっても点取り屋としての資質にあふれていた。

 現時点でのFW染野のプロモーション映像をまとめるとしたら、外せないゴールばかりだ。

 第98回大会の出場権をかけた県決勝では(2019年11月17日)、チームを全国に導く貴重な1点をマークしている。そのシュートもまた“らしさ”満載だった。得も言われぬ軌道を描きながらゴールの枠内へ吸い込まれていく。相手選手にとって抗う術がなかった。

 ゴールシーンを少しプレイバックしてみよう。

 右サイドからのロビングに対し、相手GKとDF、味方の3人が重なるような形になり、そのこぼれた球を左足で止めて、素早く左足でふわりと浮かせた。ボールを受けた位置はゴール正面やや左側で、ペナルティーエリアのライン上辺り。味方につないで、攻撃をやり直してもいいような状況だった。

ところが、染野はシュートを選択する。その瞬時の判断にまず驚かされるし、そこにシュートコースを見出した着眼点にもうなるばかりである。

 当然のように“全国”での活躍が期待されたが、その後、腰椎分離症によって戦線離脱を余儀なくされてしまう。本大会の選手登録を外れたため、ピッチに立つことはなかった。チームは初戦の徳島市立(徳島)に0-0からPK戦の末、無念の敗退。染野の高校サッカーはここで幕を閉じた。

「ずっと試合に出るのが当たり前だったけれど、チームメイトをサポートする側に回っていろいろ気づくこともあった。自分にとっては大事な時間になった」と、前向きに受け止めている。

 プロのスタートをきった鹿島でのトレーニングは当初ケガのためにリハビリ中心だったが、3月中旬にチームの全体練習に合流。元気な姿を見せていた。

 そして3月21日、札幌とのトレーニングマッチで、いきなりゴールを決めてみせた。味方からのパスを受けて、ドリブルで持ち上がり、GKとの1対1を丁寧にゲットした形だが、シュートまでの一連のアクションがこれほど滑らかなFWはそういないのではないか。

「大器の片りんを見せつけたね」と、チーム首脳陣も思わず笑顔になる。

中学時代、鹿島つくばジュニアユースに在籍していた当時、ボランチだったが、尚志に進み、FWとしての才能を開花させていく。

 力みがなく、しなやか。

 そんな染野がしのぎを削り合うプロの世界で、どのくらいのゴールを積み上げていくのか。俄然、夢が広がるが、今はまだ序章に過ぎない。

(文=小室功)


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◆シュートまでの一連のアクションが 驚くほど滑らかなFW染野唯月(高校サッカードットコム)





2020年4月25日土曜日

◆「サッカー選手は大袈裟に倒れてすぐ起き上がる」に対する岩政氏の本音「悪しからず」(ゲキサカ)



岩政大樹 Daiki.Iwamasa




 元日本代表DFの岩政大樹氏が24日に自身のツイッター(@_PITCHLEVEL)を更新し、「サッカー選手は大袈裟に倒れてすぐ起き上がる」と言われることに対して持論を述べた。

 現役時代に鹿島などで活躍した岩政氏はツイッターで「サッカー選手をやめて1年半。離れてみると試合中のアドレナリンって凄かったなと思う」と回顧。痛みを抱えながら無理を押し通してプレーを続けた試合を振り返り、「今の時代はもうこういう姿勢はよしとされないだろう。しっかり治してからプレーすべき。僕もそう思う。ただ、僕は試合に出たかった。監督の信頼に、サポーターの声に応えたかった」と語っている。

 続けて岩政氏は「ちなみに『サッカー選手は大袈裟に倒れてすぐ起き上がる』と言われますが、あれアドレナリンのせいです。アドレナリン8割、大袈裟2割(個人的見解)」と言及。「接触の瞬間は痛みがあり、アドレナリンで試合中はすぐ引きます。ただ、瞬間では状態が分からないこともあり、ひとまず痛がります。悪しからず」と付け加えている。

 ユーザーから「プロはかなり大袈裟だと思う」「ラグビー選手はサッカー選手ほど痛がらない」といった意見が寄せられると、「カテゴリが違えば、スピードが違いますよね。強度もまるで違うかと。またサッカーとラグビーはそれこそまるで違うと思うのですが。足で扱っていませんし、相手が来る方向なども」と元プロサッカー選手の立場から説明した。


◆「サッカー選手は大袈裟に倒れてすぐ起き上がる」に対する岩政氏の本音「悪しからず」(ゲキサカ)





◆【鹿島】減収スポーツ界のモデルに?デジタル駆使してコロナに対抗する「5つの構想」(報知)






 J1鹿島の取締役社長で、フリーマーケットアプリ「メルカリ」取締役プレジデントの小泉文明氏(39)が24日、ウェブ取材に応じ、新型コロナ禍で予想される減収に、デジタルの力で対抗していく姿勢を示した。無観客試合でも収益を生み出す仕組みを作り、不調が避けられない物販などの事業分野にも手を加える「5つの構想」を明言。デジタルを駆使し、新たな収益構造づくりを目指す。

*  *  *

 小泉社長はコロナ禍で無観客試合の開催が現実的となっている今季の見通しについて「損失の規模感は見えづらいが、10億や20億円単位で(収入が)落ち込む可能性もある」と明かした。


 この日発表された昨季のクラブ営業収入は約68億円。J全体でもトップクラスだが、これが十億単位の減少となれば「最後の最後の手段」(同社長)の人件費削減に手をつけなければならず、チームの弱体化が避けられない。

 だが「(減っていくのを)ただただ見送るわけではない」とキッパリ。デジタル分野のアイデアで「無観客でも収入がゼロにならない仕組みを準備していきたい」と5つの構想を明かした。

〈1〉「クラウドファンディング」 試合のチケットを買うような形でインターネットで寄付を集う。また応用例として「試合後にゴールを決めた選手のユニホームやスパイク、試合球などを、プレミアムを付けた形で募集したい」。

〈2〉「投げ銭」 好プレーに対する「クリック」で寄付ができる“おひねり”のような仕組み。「感動するポイントとお金を払うポイントがうまく合うように設計したい」。

〈3〉「動画・音声コンテンツの有効利用」 選手の動画や音声などをコンテンツ化して有効活用。場合によっては課金も導入。

〈4〉「eコマース強化」 グッズ販売が試合前後のスタジアムに依存している現状を踏まえ、メルカリのノウハウを生かし「eコマース(ネットショッピング)」を強化。

〈5〉「オンラインレッスン」 フィットネス事業で「オンラインレッスン」

を実施。一人ひとりのニーズに合わせる形を提供。サッカースクールの一時オンライン化も視野

 鹿島が率先して行った地域飲食店のテイクアウト・通販事業を紹介する取り組み「『食』プロジェクト」は、今やJクラブの定番に。その他にも練習試合の生中継や地元紙への一面広告掲載など、この中断期間に革新的な取り組みを行ってきた。同社長は「クラブやメルカリのエンジニアを活用していろいろなチャレンジをし、事例を(他クラブに)還元したい。Jリーグの参考になる施策をどんどん出していきたい」と意気込んだ。気鋭のITクラブと社長が練り出すアイデアはJリーグだけでなく、減収に苦しむスポーツ界全体のモデルとなるかもしれない。(岡島 智哉)

 ◆小泉 文明(こいずみ・ふみあき)1980年9月26日、山梨県生まれ。39歳。早大卒業後、2003年に大和証券SMBC(現大和証券)入社。07年からミクシィで取締役執行役員CFOとしてコーポレート全体を統括。13年12月にメルカリに入社し、14年に同社取締役、17年に取締役社長兼COO。19年7月に同社が鹿島の経営権を取得。8月に鹿島の取締役社長に就任。





◆【鹿島】減収スポーツ界のモデルに?デジタル駆使してコロナに対抗する「5つの構想」(報知)





◆J1鹿島 無観客試合 ITで盛り上げ 好プレーに“おひねり”を(中スポ)






 鹿島の小泉文明社長(39)は24日、定時株主総会後のウェブ会見で、リーグ戦の無観客試合を想定した対策として、親会社メルカリが得意とするIT技術を駆使した複数のデジタル施策を導入していく方針を明らかにした。選手の好プレーに対する「投げ銭」をはじめ、選手が試合で使ったユニホームやスパイクの「クラウドファンディング」などを例に挙げて「無観客になっても、収入がゼロにならない仕組みを準備したい」と語った。

 新型コロナウイルスの感染拡大を受け、Jリーグの全公式戦は2月下旬から中断。最短で6月に再開した場合でも、当面は無観客で開催する見通しとなっており、入場料収入、物販収入は見込めない。小泉社長は「(営業収入が)10億、20億円単位で落ち込む可能性がある」と指摘した。それでも、非常事態にあって、ただ手をこまねいているわけにはいかない。小泉社長は「スタジアムに来られなくても、同じような感動が得られるよう準備する必要がある」として、デジタル施策の重要性を強調。その1つが、選手のプレーに対しておひねりを投げ入れる「投げ銭」だ。

 例えば、MF三竿が相手選手から巧みにボールを奪取した際、サイト上のボタンをクリックして、称賛のおひねりを「投げ銭」する。ルーキーの18歳MF荒木がゴールを決めれば、応援の気持ちを込めて「投げ銭」する。浸透すれば、新たなスポーツ文化、収入の柱になる可能性もある。このほか、クラウドファンディングや選手の動画や音声を届けるファンコミュニティーの活用、eコマースの強化にも着手していく考えだ。

 小泉社長は「デジタル施策を矢継ぎ早にやらないと、ファンの心からJリーグがなくなってしまう恐れがある」と危機感を訴え、「感動するポイントとお金を払うポイントがうまく合うような形で設計したい。Jリーグ(全体)の参考になる施策を出していきたい」と強調した。 (松岡祐司)


◆J1鹿島 無観客試合 ITで盛り上げ 好プレーに“おひねり”を(中スポ)


◆鹿島「10億以上の単位で落ち込む」デジタルに活路(ニッカン)






鹿島アントラーズは24日、定時株主総会で19年度の決算報告を行った。営業収入は、クラブ史上最高だった昨年比約マイナス5億の約68億円。純利益は約300万円の黒字となった。

新型コロナウイルスの影響でJリーグが中断しており、入場料収入を得られない状況。株主総会後にメディア向けウェブ会見を行った小泉文明社長(39)は「実態が見えず、見通しが難しい。このままいくと夏、秋にかけて資金繰りが厳しくなるチームが出てくると思うし、アントラーズも気を抜くと危ない状況」と説明した。

発表された19年度の決算報告では、入場料収入は約10億円だった。小泉社長はリーグ戦再開が決まらない現状に「入場料収入はかなり小さくなると思う。その他物販など含めて、おそらく10億円以上の単位で場合によっては(営業収入が)落ち込む可能性もあると思っている」と危機感を表した。「減るのをただ見ているわけにはいかない。物販ではeコマース(電子商取引)の強化を準備中。クラウドファンディングや投げ銭などのデジタル施策で収益化を図る、またお客様の感動値をいかにスタジアムと同じようにキープできるかなど、無観客試合であっても入場料収入が0にならないような仕組みを準備したい」と、親会社メルカリが得意とするデジタルに活路を見いだす構えだ。

そのメルカリからは「10億円規模の融資枠を得ている」(小泉社長)とも明かした。「政府が準備している支援策もある。場合によっては、親会社からのさらなる融資も検討の必要がある」と続け、厳しい現状を受け止めた。


◆鹿島「10億以上の単位で落ち込む」デジタルに活路(ニッカン)

2020年4月24日金曜日

◆新潟U15内田監督が退任、後任にU18佐枝コーチ(ニッカン)



内田潤 Jun.Uchida


倉本聰の言葉 ドラマの中の名言 (新潮新書) [ 碓井 広義 ]


J2アルビレックス新潟は下部組織の新潟U-15の内田潤監督(42)が22日付で退任したことを明らかにした。後任には新潟U-18佐枝篤コーチ(32)が同日付で就任した。

内田氏は06年途中に鹿島から移籍。主に右サイドバックでプレーし、07年6位、09年8位とJ1で1ケタ順位を収めた時期に活躍した。また選手会長として新潟愛を前面に出した姿勢はサポーターからも支持された。

13年に引退後は14年に下部組織のスクールのコーチに就任。J1残留争いを演じていた16年9~12月、17年5~6月にはトップチームのコーチも務め、18年にU-15の監督に就任していた。

クラブは新潟U-18吉永一明監督(52)がアカデミーダイレクターとの兼任、森亮太アカデミーダイレクター(39)のU-18コーチ就任も22日付で発表した。

【参考】




◆「家族も感染していて…」元鹿島・ジョルジーニョからの力強いメッセージにファン感激(サッカーダイジェスト)






鹿島の“レジェンド”がブラジルの現状を語った





 過去に在籍した名手たちのゴール集などをYoutube公式チャンネルで公開している鹿島アントラーズは4月23日、かつて選手としてプレーし、監督も務めた元ブラジル代表ジョルジーニョの動画を公開した。

 現在ブラジルにいるジョルジーニョは冒頭、「親愛なるアントラーズサポーターのみなさん。ブラジルの現状をお伝えできたらと思います」と呼びかけた。

 そして「ブラジルは(新型コロナウイルスの)パンデミックの初期段階ではないかと思う。家族もかかっていて、妻と子どもふたりは症状が現われ、熱、倦怠感、頭痛、咳、味覚・嗅覚の欠如があります」と、家族が感染していることを明かした。

 ジョルジーニョ自身と末っ子には症状が出ていないという。だが、「75歳になる義理の父親は陽性となり、呼吸器をつけて入院中です。回復を願っているところです」とその身近で感染者が出ていることを伝えている。

 ブラジルでは日々感染が拡大しており、22日時点で感染者は4万5000人、死者は2000人を超えた。貧困層で蔓延が大きな問題となり、深刻な状況が続いている。

 そんななか、元セレソン戦士は最後に日本のファンへ力強いメッセージを送った。

「神のご加護でブラジル、日本そして世界を護ってくれることを願っています。リスクの高い60歳以上の方、持病をお持ちの方などを重点的にケアして、このパンデミックに勝利しましょう。みなさんが恋しいです。心からのキスを」 

 この言葉に、鹿島サポーターは「ご家族が罹患されているのに。本当にありがとう」、「心はいつもそばにいます。あなたが恋しいよ」、「ジョルジの家族が回復されますように」、「ご自身の辛い状況の中で暖かいのメッセージを頂き、本当にありがとうございます」といったコメントを寄せている。

構成●サッカーダイジェストWeb編集部




◆「家族も感染していて…」元鹿島・ジョルジーニョからの力強いメッセージにファン感激(サッカーダイジェスト)





2020年4月22日水曜日

◆『SEVENDAYS FOOTBALLDAY』:いつかの僕を探して(名良橋晃)(ゲキサカ)



名良橋晃 Akira.Narahashi


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 きっとこれからも探し続けていく。いつかの僕のように、グラウンドの片隅で前だけを向いて走っている、名前も知らない誰かを。きっとこれからも探し続けていく。いつかの僕のように、この一歩の先へ世界が待っていると信じてボールを追い掛けている、名前も知らない誰かを。「『どこで誰が見ているかわからない』ことに気付いてほしいなと。僕は全国の舞台に立てない選手でしたけど、『練習や試合を見て、僕みたいな選手を情報として発信すればいろいろな人が注目してくれるかな』という想いは強いですね」。名良橋晃。48歳。世界を知る男は秘めたる野望と共に、またサッカーのある所へと足を運んでいく。

 のちにワールドカップのピッチに初めて立った日本代表の選手となる少年は、ある漫画をきっかけにサッカーの道へと足を踏み入れる。「“キャプテン翼”の翼くんが好きだったんです。ただ、『僕はあんなふうになれないな』というのが自分の中でちょっと見え始めてきて。歩道橋の階段をリフティングなんて無理ですし(笑) だから、サッカー選手のポスターを貼りまくって翼くんの部屋だけマネしたんですけど、結局『勉強に集中できないんじゃない?』って母親に怒られて。でも、そこだけはブレずにやり通しましたけどね」。

 とにかく足が速く、運動神経抜群。最初は野球と“兼任”していたが、小学校4年生からサッカーに絞ると、すぐに千葉市の選抜にピックアップされる。キャプテン翼を見て憧れていた、よみうりランドでの全国大会には出場できなかったものの、着実に力を伸ばしていった名良橋少年は中学でも当然のようにサッカー部へ。今度はとうとう千葉県の選抜に招集される。だが、ここで1つの問題が発生した。行きたくなかったのだ。

「人見知りするタイプだったので、そこの“入口”に入ることが苦手だったんです。だから、申し訳ないですけど、選抜とかは『極力行きたくないです』と。その時もイヤイヤ行った感じでした」。遠征に行ったら行ったで、枕投げをして楽しむくらいの社交性は持っていたが、とにかく“入口”が苦手だったという。これは名良橋にとって小さくない障壁として、その後もつきまとうこととなる。

 時代はJリーグ前夜。高校選手権が今以上に隆盛を誇っていた。中学3年になった名良橋が志望していたのは、当時からその名を知られていた本田裕一郎監督(現・国士舘高総監督)率いる習志野高。参加した練習会での手応えもあり、何より眩しく見えたのは“制服”だった。「習志野は学ランなんですよ。しかもボタンが金じゃなくて黒で、それにもちょっと憧れがあったんです」。ところが、まさにちょっとしたボタンの掛け違いが、15歳の運命を変えていく。

「中学校のサッカー部の先生が、千葉英和高校のサッカー部の監督の先輩だったんです。それもあって、僕の中学校から毎年1人は千葉英和へ行くような流れになっていたんですけど、その流れに乗ってしまって、“ドラフト1位”みたいな形で行くことになりました」。過去には日本一を勝ち獲っている名門から、全国出場の経験もない新鋭校へ。この針路転換こそがのちの日本代表選手を形作っていくのだから、人生はわからない。

 高校に入学し、サッカー部の門を叩くと、すぐに気付いたことがあった。部員数が想像より少なかったのだ。「『もしかしたらこれは1年生から出られるかも』という期待が自分の中では高くなって、逆にモチベーションが上がったんです」。案の定、夏からはレギュラーに抜擢されて選手権予選にも出場する。加えて同級生にも実力者が揃っていた。

「小学校の千葉県選抜に入っていたヤツから連絡があって、『オマエが英和に行くなら、オレも行くよ』と。そういう友達も入ってきましたし、僕たちの年代は上手いヤツらが揃っていましたね。だから、『これは楽しくできるのかな』『勝てそうなチームになるのかな』と」。3年生が引退すると、名良橋の学年がチームの中心になっていく。そして、全国もおぼろげながら視界に捉え始めていた2年生の総体予選。千葉の“青い巨人”が彼らの前に厚く立ちふさがる。市立船橋高だ。

「いきなり野口(幸司・元日本代表)さんにキックオフシュートを打たれて、それがクロスバーに当たったんですよ。もう『翼くんかよ!』と思って(笑) そこで完全にメンタル的にへこんでしまって、何もできずに試合が終わった記憶があります。0-4で負けたんですけど、木端微塵にやられましたね。もうなすすべがなかったので。チームとしても、個人としても」。結果的に市立船橋はそのまま夏の全国連覇を達成。選手権でも準優勝に輝くなど、スーパーチームであったことは間違いないが、まざまざと見せつけられた実力差に、改めて千葉を勝ち抜く壁の高さを突き付けられた。

 リターンマッチの機会は、いよいよ最上級生になった冬の新人戦。千葉英和は快進撃を続け、あれよあれよという間に決勝へ進出してしまう。相手は市立船橋。数週間前に国立競技場で日本一を懸けて戦っていたチームと、再び対峙する。その一戦。名良橋に張り付いていたマーカーこそが、現在『Foot!THURSDAY』で彼と共演している1学年下の“ワッキー”こと脇田寧人だった。

 試合は0-3の完敗。またしても悔しさを募らせたものの、“マーカー”の印象はそれほど残っていない。「僕はワッキーがマークに付いていたのをあまり覚えてなくて。ゼロで抑えられたので、そこそこ抑えられたんだろうなと(笑) あの時はヒデ(中川秀樹・ペナルティ)もそうですけど、選手権に出ているメンバーがいたので、そっちに負けたくない気持ちが僕の中で強かったんですよね」。残念ながら名良橋の記憶はおぼろげのようだが、2人が既に10代の頃に“共演”していた事実も非常に興味深い。

 3年生の総体予選。千葉英和は順当に勝ち上がり、今では福島の尚志高で監督を務める仲村浩二が絶対的な中心選手だった習志野と、準々決勝で激突する。名良橋にとっては因縁の相手。気合がみなぎっていたのは言うまでもない。試合は激闘。追いつ追われつの展開の中、2-2でPK戦へともつれ込む。「僕が外して負けました。それからPKはトラウマで…」。エースが失敗した千葉英和は惜しくも敗退。千葉県に2つ用意されていた全国出場の権利は露と消える。

 3年生の選手権予選。千葉英和は真夏にスタートした1次トーナメントを潜り抜け、11月の決勝トーナメントへ駒を進める。苦楽を共にした仲間と臨む高校最後の大会。「インターハイ予選でも習志野といいゲームをしたので、全国に行ける手応えは少なからずあったと思います」。名良橋もチームメイトも頂点だけを目指した挑戦は、しかし呆気なくベスト8で終焉を迎えた。

「市原緑に負けました。それに勝てば準決勝からは“全校応援”だったんですよ。やっぱり選手権といえば“全校応援”じゃないですか。みんな来るということで、そっちに少し頭が行ってしまって、目の前の相手に少し気持ちが行かなかったのか、先に4点取られて、3点返したけど、結局追い付けずに負けてしまって…」。その次の準決勝では習志野が、決勝では市立船橋が待っているはずだった。みんな涙が止まらない。名良橋も秋津のグラウンドで、いつまでもいつまでも悔しさと寂しさを噛み締めていた。

 それから数週間後。サッカーキャリアの転機は意外な所でやってきた。実は選手権敗退の少し前。名良橋にはユース代表合宿参加の通知が届いていた。「サッカー部の監督に職員室へ呼ばれて、『オレ何かしたかな…』と思ったら、ニコニコしながらそれを知らされて。千葉英和のそれまでにはなかったことだと思うので、学校中がザワついてましたね(笑)」。とはいえ、ここでまたあの“問題”が発生する。

「やっぱりイヤイヤですけど、『行くしかないか』という感じで(笑)グラウンドが家からバスで行ける距離だったので、最寄りのバス停で下りてからもちょっと『どうしようかな』とジタバタしていたら、練習を見に来ていた女の人に声を掛けられて、『ユース代表の方ですか?宿舎はあっちですよ』って言われて(笑) 僕はわかっていたんですけど『あ、わかりました』って。その人に言われてしまったので、『もうこれは行くしかないな』って開き直って、ようやく行った感じですね」。

 藤田俊哉。田坂和昭。名波浩。大岩剛。錚々たるメンバーが居並ぶ中、同学年に知り合いは1人もいなかった。「最初に『千葉英和から来た名良橋です』って自己紹介するのが、もう恥ずかしかったですね。みんな『どこの高校?』って感じで。でも、その時に木山隆之(現ベガルタ仙台監督)も来ていて、彼が通っていた伊丹西高もそんなに全国区じゃなかったので、最初に友達になったのは木山でした(笑)」。3泊4日の代表合宿。1日目は本来のフォワードでプレーしたものの、2日目に与えられたのは意外なポジションだった。

「いきなり左サイドのウイングバックにコンバートされて。未知のポジションですし、守備もやらなきゃいけなくて、本当に自分のプレーで精一杯でしたね。でも、そこそこ左足も蹴れましたし、今でいうカットインしながら右足のクロスも入れていたので、攻撃は結構楽しかったことを覚えています。守備での1対1も負けなかったですし、もちろん葛藤はあったんですけど、自分の中で『オレはウイングバックで成功しなきゃいけないんだな』と完全に割り切ってやりましたね。そこで『このチームで生き残りたい』という気持ちが出てきたんです」。サイドプレイヤー、名良橋晃の誕生である。

“コンバート”がサッカーキャリアの大きな分岐点となった彼だからこそ、高校年代の選手たちに伝えたいことがある。「僕はスピードがあったので、後ろから走ればそのまま相手を振り切れる面白さも感じましたし、『新しい自分を見つけ出せたな』という感覚がありました。他の人から言われて違う自分の良さに気付くことも絶対あるので、自分次第で“コンバート”もプラスに捉えられるんじゃないかなとは思います」。ワールドカップまで届いた男だからこそ、その言葉は説得力を帯びる。

 千葉英和での3年間は、今でも名良橋の心の中の大事な位置を占めているようだ。「『出会いは大事なんだな』と実感できたのは、自分の中で本当に財産です。よくあのメンバーが集まったなと思いますね。キャラも濃かったですし、高校3年間を共にしたサッカー部員との絆が、僕の中では凄く財産になっていて、もうみんな子供が大きくなってきていて、集まるペースは減っていますけど、お酒も入ると試合のこととか遠征とか、結局いつも同じ話になっちゃいますよね(笑)」。最高の仲間と過ごした日々を想えば想うほど、あの時の“針路”は間違っていなかったと、今なら胸を張って言うことができる。

 1998年。フランス。日本代表が初めて世界と対峙したワールドカップから、22年の月日が流れた。初戦のアルゼンチン戦。名良橋が「試合前の握手の時。1人だけ力を入れてギュッと握ってきたんですよ。『コイツ、イテーな』と思って」と振り返るディエゴ・シメオネ(現アトレティコ・マドリー監督)とマッチアップしていたことを、今の若者たちはほとんど知らない。インタビューする高校生との「名良橋っていうんですけど、僕のこと知ってますか?」「いや、知りません…」というやりとりは、『Foot!THURSDAY』の“定番”になりつつある。

 グループステージ3試合のすべてにスタメン出場した名良橋は、最終戦のジャマイカ戦でワールドカップにおける日本代表の“初ポスト”を記録している。0-2とリードを許していた後半11分。名波のパスを受け、右足のインサイドで叩いたシュートは、左のポストに当たって枠を外れた。「ぶっちゃけですけど、アレは正直入ってほしかったです(笑) 自分の中ではジャストだと思ったので。でも、あのシュートが入らないのが僕なのかなって」。

 この“初ポスト”は、2つの記録が達成できなかったことを意味している。1つはワールドカップにおける日本代表の初ゴール。もう1つは、日本代表戦における名良橋自身の初ゴールである。国際Aマッチは38試合に出場して、0得点。2003年のラストマッチまで、日の丸を背負った試合でゴールネットを揺らすことは叶わなかった。

 もう1つ。「持っていなかった」エピソードとして、“ジョホールバルの真実”も挙げる。1997年11月16日。ワールドカップ初出場の懸かったアジア地区第3代表決定戦。岡野雅行の劇的なVゴールで、世界の扉をこじ開けた伝説的な試合にも、名良橋はフル出場を果たしている。だが、殊勲の岡野を中心にできた歓喜の輪を切り取った写真の中に、名良橋の姿はまったくと言っていいほど見当たらない。

「ベンチサイドにオカちゃんが走って行ったから、みんなそっちに行くじゃないですか。でも、右サイドは逆側だったんですよ(笑) ゴールの瞬間は本当にヘロヘロというか、精魂尽き果ててしまって、そこまで行く気力もなかったので、そこの輪の写真の中に僕は1枚もいないんです。今振り返れば『行けばよかったな』と思うんですけど、本当に死力を尽くしたゲームだったので。延長の前半にオカちゃんが決めてくれていれば、輪の中心にいたのは相馬直樹じゃなくて名良橋晃だったのに(笑)」

 続けた言葉がさらなる笑いを誘う。「本当にもう僕はいろいろな意味で“持っていない”んですよね。『そういう星の下に生まれてきたのかな』って自分の中で思っていますから」。日本サッカー史に残るあれだけの偉業に立ち会ってきた名選手にもかかわらず、こうやって自分を面白おかしく語れる所も、名良橋の大きな魅力だと個人的にはひそかに思っている。

『Foot!THURSDAY』は育成年代のサッカーを扱っている番組であり、名良橋はそこでMCを任されている。また、昨年はクラブユース選手権と全国総体で共に決勝の解説を務めるなど、とりわけ高校年代に関わる解説者としても、活躍の場を広げている。「僕はサッカーを見るのが現役時代から好きだったので、引退してから『解説とかやってみたいな』とは思っていたんです」という彼は、常に真摯に目の前のサッカーへ向き合っている印象を受ける。

 一昨年の年末。名良橋は波崎(茨城県)で行われる横山杯の決勝を解説することになっていた。その決勝前日。大会を取材していたメディアの友人からLINEが届く。「名良橋さん、一人で試合を見に来られてましたよ」。12月の波崎は極寒だ。日陰に入れば、立っているだけで足元から凍り付いていくような感覚すら覚える。決勝リーグ最終節は決勝と同じ日に行われるため、当日だけ取材すれば解説に必要な情報は事足りたはずだ。それでも名良橋は、2日続けて波崎まで車を走らせた。

 ある時は「見に行くと約束したから」という理由で、平日の夜に清水エスパルスユースの練習へ顔を出し、当時の平岡宏章監督を驚かせたこともあった。ある時は「記事を見て面白そうだと思ったから」という理由で、埼玉県の新人戦支部予選へ足を運んだこともあった。またある時は、「どっちも見たかったから」という理由で、駒沢とよみうりランドを“ハシゴ”したこともあった。フットワークの軽さはもちろん、その取材対象にも大会の大小、選手の有名無名に左右されない“軸”があるように見える。そこにはかつての自身と、彼らを重ね合わせる心情があった。

「『どこで誰が見ているかわからない』ことに気付いてほしいなと。僕は全国の舞台に立てない選手でしたけど、『練習や試合を見て、僕みたいな選手を情報として発信すればいろいろな人が注目してくれるかな』という想いは強いですね。やっぱりもっとこの年代を見てもらいたいのが正直な想いで、単純に僕がサッカーを好きだということと、いろいろな試合を見に行けば、あの頃の僕みたいな選手もいるかもしれないという所で、僕なりに行かせていただいてはいますけど」。

 溢れる言葉は止まらない。「だから、『この高校、どこ?』というようなチームに目が行きますね。そういう所でも良い選手は絶対いますし、そういう選手をどう伸ばしていくか、どう全国に広めていくか、どう輩出していくか、というのは日本サッカー全体でやっていかないといけないのかなと、凄くそこは思います。僕みたいに“強いチームに行けなかったけど良い選手”は絶対にいるので、たとえば横山杯とかイギョラ杯とか、そういう大会にもどんどん皆さんに足を運んでほしいなっていう想いはありますね」。

 高校生の今を伝えてきたからこそ、かねてから抱いてきた夢への想いがより強くなったという。今まで以上に口調へ熱が籠もる。「最終的な所は育成の現場に立ちたいなと。じゃあどこの育成なのという最終的なゴールがまだ見えていないですし、まだぼやけている所ですけど、メディアとして育成年代を追い掛けていく中で、どれだけ指導する側が情熱を持って、真摯に向き合えるかが本当に大事だなとよくわかってきたので、コーチでも監督でも1回はやってみたいという想いは、自分の中でより一層強くなってきていますね」。

 あの日に届かなかった全国大会を、あの日に届かなかった世界のゴールを、託せる誰かは現れるだろうか。キャプテン翼に憧れ、ワールドカップのピッチにまで立った男は、それが仮に取材者としてでも、それが仮に指導者としてでも、サッカーというスポーツの持つ可能性を信じ、その誰かと出会える日を楽しみに待ち侘びている。

 きっとこれからも探し続けていく。いつかの僕のように、グラウンドの片隅で前だけを向いて走っている、名前も知らない誰かを。きっとこれからも探し続けていく。いつかの僕のように、この一歩の先へ世界が待っていると信じてボールを追い掛けている、名前も知らない誰かを。名良橋晃。48歳。世界を知る男は秘めたる野望と共に、またサッカーのある所へと足を運んでいく。

■執筆者紹介:
土屋雅史
「(株)ジェイ・スポーツに勤務。群馬県立高崎高3年時にはインターハイで全国ベスト8に入り、大会優秀選手に選出。著書に「メッシはマラドーナを超えられるか」(亘崇詞氏との共著・中公新書ラクレ)。」




◆『SEVENDAYS FOOTBALLDAY』:いつかの僕を探して(名良橋晃)(ゲキサカ)





◆ホームグロウン選手の人数が判明…最多C大阪16人、次点広島は半数超え15人(ゲキサカ)






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 Jリーグは21日、J1クラブのホームグロウン選手の人数を発表した。初回登録ウインドー最終日にあたる3月27日時点で2人以上保有することが義務付けられているが、今季は初めて全クラブが基準を満たした。

 ホームグロウン選手制は2019年に始まった生え抜き、アカデミー出身選手の優遇制度。12歳の誕生日から21歳の誕生日を迎える年度までの期間において、トップチームやアカデミーに990日間以上登録されていた選手が各クラブの「ホームグロウン選手」とされ、一定数の保有が義務付けられている。

 2019〜20年はJ1クラブが各2人で、J2・J3クラブは対象外。21年はJ1クラブが3人となり、22年からはJ2・J3クラブでもスタートする。22年はJ1クラブが4人、J2・J3クラブが1人。基準を守らなかった場合、翌シーズンのプロA契約選手枠が人数分だけ減らされるペナルティもある。昨季は松本山雅FCが不遵守だった。

 なお、最もホームグロウン選手が多いのはセレッソ大阪。U-23チームを保有するため通常より多い登録人数46人のうち16人が該当する。次点は15人のサンフレッチェ広島。登録人数は29人のため半数以上となった。最も少ないのは4人の大分トリニータ。全クラブの合計は昨季が合計159人だったが、今季は1人増えて160人となった。

J1クラブのホームグロウン選手の人数は以下のとおり

札幌 9人
仙台 6人
鹿島 11人
浦和 5人
柏 12人
FC東京 14人
川崎F 7人
横浜FM 6人
横浜FC 6人
湘南 5人
清水 12人
名古屋 5人
G大阪 12人
C大阪 16人
神戸 8人
広島 15人
鳥栖 7人
大分 4人


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