日刊鹿島アントラーズニュース

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2020年8月21日金曜日

◆内田篤人らしい潔さ、ケガに泣き32歳で引退決断(ニッカン)






内田篤人 大迫勇也 ふぅ〜っと深呼吸ストレッチ[本/雑誌] / 内田 篤人 大迫 勇也


鹿島は20日、元日本代表DF内田篤人(32)の現役引退を発表した。23日のG大阪戦(カシマ)が現役ラストマッチで、試合後に引退のあいさつをし、24日にオンラインで引退会見する。日本代表としてW杯に2度、シャルケ(ドイツ)在籍時に欧州チャンピオンズリーグ(CL)4強入りなど、人気、実力両面で日本サッカー界をけん引したレジェンド。まだ32歳だが、けがにも悩まされ、シーズン途中に電撃的に引退を決断した。

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日本ではウッチー、ドイツでは“ウッシー”と呼ばれ甘いマスクでも人気を集め、愛され続けたDFが、シーズン半ばで引退する。14年半のプロ生活は、光と影が入り交じったものだった。06年に清水東から鹿島に加入し、開幕戦に先発。ルーキーながら右サイドバックのレギュラーに定着した。07年には重い背番号2を継承し、07~09年の3連覇の偉業に貢献。08年からは日本代表としても活躍。10年W杯南アフリカ大会では、直前にポジションを失い、決勝トーナメント1回戦まで出番のないまま大会を終えた。

悔しさを胸に、同年夏にドイツの強豪シャルケに移籍した。7年半の欧州生活では、当時インテル・ミラノのDF長友佑都とのCL初の日本人対決、また日本人として初のCLベスト4なども成し遂げた。クラブからも、ドイツのサポーターからも愛された。

一方でケガにも悩まされ続けた。14年W杯ブラジル大会前に右膝を負傷。保存療法でW杯に挑み全3試合に出場したが、1勝もできず1次リーグ敗退。翌15年に右膝の手術を受け、復帰に1年9カ月を要した。「シャルケの医師に『復帰できると思っていなかった』と言われた」と振り返るほどの大けが。「(手術の)決断が間違っていたんじゃないかと迷った時期があり、その時が一番きつかった。本当によく泣いた」。文字通りけがに泣かされた。

18年の鹿島復帰後も、コンディションが戻りきらず、出場機会は少なかった。それでも優勝した同年の水原(韓国)とのアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)準決勝第1戦では、終了間際に劇的な逆転弾を決めるなど、要所で輝きを放った。19年には主将として、優勝争いするチームをベンチから鼓舞し、審判に注意されたこともあった。今季もケガを避けながらの調整で、出場はここまで2試合。先発した12日のルヴァン杯清水戦(アイスタ)でイメージ通りのプレーができず、現役生活にピリオドを打つ決断を下したようだ。今後は未定だが、将来的には育ててもらった鹿島に恩返しする可能性もある。

ケガがなければ、と思わずにはいられない。それでもシーズン途中での引退には、内田らしい潔さがある。ラストマッチは23日。本拠地カシマスタジアムで別れを告げる。【杉山理紗】

◆内田篤人(うちだ・あつと)1988年(昭63)3月27日、静岡県生まれ。清水東高から06年に鹿島入り。07~09年のJ1の3連覇などに貢献。10年夏にドイツのシャルケへ移籍。10-11年シーズンに、欧州CL4強入りも果たした。ウニオン・ベルリンを経て、18年に鹿島復帰。日本代表では国際Aマッチ74試合出場2得点。W杯は10年南アフリカ大会と、14年ブラジル大会の日本代表で、14年は1次リーグ全3試合に出場した。ポジションはDFで右サイドバックで活躍。15年5月に結婚を発表し、16年に第1子となる長女が誕生した。愛称ウッチー。176センチ、67キロ。




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