日刊鹿島アントラーズニュース

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2020年4月27日月曜日

◆元鹿島のジョルジーニョはいま、 430人の貧しい子供を育てている(Sportiva)






ジュニアのためのスポーツ食事学 みんなで一緒に強くなろう [ 柴田麗 ]


あのブラジル人Jリーガーはいま
第1回ジョルジーニョ(後編)


 1994年アメリカW杯でブラジルの優勝に貢献。ドイツの名門バイエルンでキャプテンを務めていたジョルジーニョは、1995年、ジーコの兄エドゥの求めに応じて来日。すぐに鹿島アントラーズの中心選手となった。彼の加入にあまり積極的でなかったというジーコも、その移籍が成功だったことを認めざるを得なかった。

 キャプテンとして多くの若き日本人プレーヤーの指南役を務め、チームにタイトルをもたらした。すでに30歳を超えていたジョルジーニョを、ギャリアの終わった選手だとみなす者も多かったが、彼はこれに自分のやり方で反論した。1996年にJリーグの年間最優秀選手に選ばれたのだ。

 1999年、鹿島を退団してブラジルに戻ったジョルジーニョは、サンパウロ、ヴァスコ・ダ・ガマでプレーしたあと、2002年のフルミネンセを最後に引退し、指導者としての勉強を始めた。ドイツに渡り、そこで多くの優秀な監督から学び、かつて在籍したバイエルンで修業を積んだ。

 2005年には、選手のキャリアをスタートしたのと同じアメリカRJで監督を始める。温厚な性格のおかげで、どこにでも友人がいたため、彼にはさまざまな声がかかった。ブラジル代表のアシスタントコーチもそのひとつ。5年間にわたり、ドゥンガの右腕となって代表に尽くしたあとは、いろいろなチームで経験を積み、2012年には、鹿島アントラーズの監督として日本に舞い戻っている。

 1年半、鹿島を率いたあと、彼はまたブラジルへと戻ったが、それは日本での成績が悪かったからではない、ブラジルのビッグクラブ、フラメンゴが彼を招聘したからだ。ブラジル人監督ならば誰もが憧れるポストである。その後もポンチ・プレッタ、アラブ首長国連邦のアル・ワスル、ヴァスコ・ダ・ガマなどで監督を務め、昨シーズンにはコリチーバを率いていた。

 監督としてのジョルジーニョは、選手としての彼ほどは成功していないと言っていいだろう。2012年、鹿島アントラーズでナビスコカップに優勝し、2016年にヴァスコ・ダ・ガマでカンピオナート・カリオカ(リオ州選手権)優勝を勝ち取ったのが目立つ程度だ。

 一方、ジョルジーニョほど多くのスターとともにプレーした選手はそういない。ジーコとはフラメンゴでともにプレーし、フランツ・ベッケンバウアーはバイエルン時代の監督だ。

 もちろん、ブラジル代表ではロマーリオ、ベベット、ジーニョ、ドゥンガ、カレッカ、クラウディオ・タファレル、レオナルドをチームメイトに持ち、偉大な監督マリオ・ザガロとパレイラのもとでプレーしている。代表ではまずライトバック、その後はセンターバックを務め、11年間で71試合に出場、1990年と1994年のW杯に出場した。個人タイトルも多く取っているが、なかでも彼らしいのか1991年に受賞したFIFAフェアプレーアワードだ。

 ジョルジーニョは言う。

「私の人生における一番大きなプレミアムは、私の家族と、そして私の作ったスクールだ」

 スクールの名前は「インスティトゥート・ボラ・プラ・フレンテ」。「ボールを前へ」という意味だ。自分が生まれ育ったリオ近郊の貧しい地区の子供たちを助けるため、彼はこの学校を作った。2000年に設立して以来、ほぼ独力で、何万人という人々を助けてきた。現在は6歳から17歳まで430人の子供たちが学んでいる。みな家が貧しく、学校など行けない者たちだ。彼らはここで基礎的な教育を受け、食事をし、望めばスポーツや芸術などを学ぶこともできる。

 もうひとつの彼の宝である家族は、妻のクリスティーナと4人の子供、そして3匹の犬である。

 55歳になるジョルジーニョは現在、ほかのブラジル人と同じように家で過ごしている。英語を学びながらこの危機が去るのを待ち、その後は新たなチームを探すつもりだ。2019年の終わりにコリチーバを辞めてから、まだオファーはない。

「しかし、こんなことはブラジルでは当たり前だよ。監督は就任するのも、クビが飛ぶのも一瞬だ。自分としてはまだ数年は監督を続けたいと思っている。外国のチーム、もちろん日本のチームも大歓迎だよ。日本は私の中ではいつも特別な国なんだ」




◆元鹿島のジョルジーニョはいま、 430人の貧しい子供を育てている(Sportiva)





◆ジョルジーニョの告白。鹿島移籍時 「ジーコは私をほしくはなかった」(Sportiva)






サッカーラボ 1カ月でプレーがどんどん進化する! [ サッカーラボ編集部 ]


あのブラジル人Jリーガーはいま
第1回ジョルジーニョ(前編)


 1994年アメリカW杯。ブラジルは決勝でPK戦の末にイタリアを下し、24年ぶりに世界チャンピオンのタイトルを手に入れた。その立役者はロマーリオだった。彼は大会中チーム内最多の5ゴールを決め、大会最優秀選手にも選ばれた。しかし、その優勝を陰で支えたもうひとりの功労者がいた。それがジョルジーニョだ。

 本大会を前にブラジルは危機に陥っていた。南米予選の最終戦で、ブラジルはウルグアイに勝たなければならなかった。そうでなければ、史上初めてW杯出場を逃す可能性さえあった。しかしこの時、セレソン(ブラジル代表)の雰囲気は最低だった。ロマーリオがその少し前の親善試合出場を拒否したことで、カルロス・アルベルト・パレイラ監督との仲が決裂しかけていたのだ。

 そこで立ち上がったのがジョルジーニョだった。彼はロマーリオにチームに戻るように説得し、モチベーションを上げさせると同時に、パレイラ監督を落ち着かせた。その結果、ロマーリオはこの試合で2ゴールを決め、ブラジルは無事W杯出場を決めた。ジョルジーニョ自身も1ゴール目をアシストなど活躍。ロマーリオはゴールを決めると。真っ先に彼のもとにかけつけた。

 温厚で常に礼儀正しく、他人をリスペクトするジョルジーニョは、いわばロマーリオと正反対の性格であったが、それがよかったのかもしれない。セレソンの合宿でふたりはいつも同室で、ジョルジーニョは多くの伝説を持つ悪童に忠告ができる、数少ない人間でもあった。いまでも彼らは仲のいい友人である。

 彼がサポートしたのはロマーリオだけではない。ドゥンガも一筋縄ではいかない性格をしているが、彼の代表監督就任中、ジョルジーニョはそのアシスタントを務めている。チームメイトのみならず、対戦相手やサポーターなど、誰からも愛される存在であった。ブラジルサッカーの歴史の中でも、最も紳士的で謙虚な選手といっても過言ではないだろう。

 ジョルジーニョは1964年、リオデジャネイロの郊外の貧しい地区で生まれた。父親のことをジョルジーニョはこう語っている。

「彼はポルトガルからの移民だったが、とにかく酒が好きだった。家に帰るといつも暴力をふるった。今でいうDVだ。母はあまり何度も殴られたため耳が聞こえなくなってしまった。私も手加減なしに殴られた。本当にひどい子供時代だった」

 その父親も早くに亡くなり、一家は貧しかった。ジョルジーニョ少年にとって、サッカーはそんな現実から逃れる唯一の手段だった。

「サッカー人生で最も栄光に輝いていた時でさえ、かつての家での風景がフラッシュバックのように脳裏に蘇る。母が泣き、自分は殴られないようにどこかに隠れ震えている。そんなシーンがまるで映画のように見えてくるんだ」

 彼の持つ優しさは、そうした生い立ちからくるのかもしれない。選手時代、彼は毎日一番に練習場に現れ、翌日のために誰よりも早く就寝した。そんなジョルジーニョをフラメンゴでともにプレーしたジーコはこう評している。

「ジョルジーニョはサッカー選手のお手本のような生活態度だった。彼が頑張っているから、自分も頑張る。そう思う選手も少なくなかったろう。彼はチームのエネルギーの源であり、無くてはならない存在だった」

 ブラジルからヨーロッパに渡っても仕事に対する真摯な態度は変わらなかった。レバークーゼンで多くの勝利を得て、名門バイエルンでは外国人選手ながらキャプテンを務めるまでになったのは、彼の人柄と仕事熱心な態度からだろう。

 1995年、シーズン途中に突如ドイツを離れ、日本へと渡った。当時のいきさつをジョルジーニョ自身が教えてくれた。

「実は日本に行くなんていう考えは自分の頭にはまるでなく、イタリアかスペインに行きたいと思っていたんだ。しかし、バイエルンがヨーロッパのライバルチームに私を渡すのを嫌がっていて、そんな時に日本からのオファーが来た。

 私を鹿島アントラーズに呼んだのはジーコということになっているが、それは真実ではない。私を呼んだのはジーコの兄のエドゥだった。あまり知られていないことだが、ジーコは私をほしがってはいなかった。彼らには、アルシンドの代わりになるような前線の選手が必要だったからだ。でもエドゥの口調は断固としていた。『ジーコと喧嘩をしても僕は君がほしい。このチームには真のリーダーが必要だ。経験があってチーム全体を動かせるようなね』と。その言葉が私を決心させたんだ」

(つづく)




◆ジョルジーニョの告白。鹿島移籍時 「ジーコは私をほしくはなかった」(Sportiva)





◆シュートまでの一連のアクションが 驚くほど滑らかなFW染野唯月(高校サッカードットコム)






月刊サッカーマガジン 2020年 06月号 [雑誌]


 ちょっと何を考えているのか、わからない。

 鹿島アントラーズの高卒ルーキーのひとりである染野唯月のプレーを見て、そんな感想を漏らす人が少なくないが、FWにとってこれほどの褒め言葉はないだろう。

 ボールの周辺状況をめぐり、プレーの優先順位が決まっていくサッカーでは技術もさることながら、相手との駆け引きがものをいう。

 次のプレーを予測させない。もしくは予測されていたとしてもその裏をかく。ギリギリで、プレーの選択を変えられるか、否か。そんな“惑わす力”が攻撃的な選手には問われるといっても過言ではないだろう。

発想の転換と、それを涼しい顔で、やってのける技術の高さ。染野のプレーには思わず腰を浮かしてしまうような驚きがある。

 尚志(福島)2年時の第97回全国高校サッカー選手権で5得点を挙げ、大会得点王を分け合った(ほかに2人)。なかでも衝撃的だったのは、準決勝の青森山田(青森)戦でのハットトリックだろう。ゴールへのアプローチからフィニッシュに至るまで、どれをとっても点取り屋としての資質にあふれていた。

 現時点でのFW染野のプロモーション映像をまとめるとしたら、外せないゴールばかりだ。

 第98回大会の出場権をかけた県決勝では(2019年11月17日)、チームを全国に導く貴重な1点をマークしている。そのシュートもまた“らしさ”満載だった。得も言われぬ軌道を描きながらゴールの枠内へ吸い込まれていく。相手選手にとって抗う術がなかった。

 ゴールシーンを少しプレイバックしてみよう。

 右サイドからのロビングに対し、相手GKとDF、味方の3人が重なるような形になり、そのこぼれた球を左足で止めて、素早く左足でふわりと浮かせた。ボールを受けた位置はゴール正面やや左側で、ペナルティーエリアのライン上辺り。味方につないで、攻撃をやり直してもいいような状況だった。

ところが、染野はシュートを選択する。その瞬時の判断にまず驚かされるし、そこにシュートコースを見出した着眼点にもうなるばかりである。

 当然のように“全国”での活躍が期待されたが、その後、腰椎分離症によって戦線離脱を余儀なくされてしまう。本大会の選手登録を外れたため、ピッチに立つことはなかった。チームは初戦の徳島市立(徳島)に0-0からPK戦の末、無念の敗退。染野の高校サッカーはここで幕を閉じた。

「ずっと試合に出るのが当たり前だったけれど、チームメイトをサポートする側に回っていろいろ気づくこともあった。自分にとっては大事な時間になった」と、前向きに受け止めている。

 プロのスタートをきった鹿島でのトレーニングは当初ケガのためにリハビリ中心だったが、3月中旬にチームの全体練習に合流。元気な姿を見せていた。

 そして3月21日、札幌とのトレーニングマッチで、いきなりゴールを決めてみせた。味方からのパスを受けて、ドリブルで持ち上がり、GKとの1対1を丁寧にゲットした形だが、シュートまでの一連のアクションがこれほど滑らかなFWはそういないのではないか。

「大器の片りんを見せつけたね」と、チーム首脳陣も思わず笑顔になる。

中学時代、鹿島つくばジュニアユースに在籍していた当時、ボランチだったが、尚志に進み、FWとしての才能を開花させていく。

 力みがなく、しなやか。

 そんな染野がしのぎを削り合うプロの世界で、どのくらいのゴールを積み上げていくのか。俄然、夢が広がるが、今はまだ序章に過ぎない。

(文=小室功)


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