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2014年5月22日木曜日

◆続・ブラジルサッカーを支える人々⑤ 鹿島アントラーズ川窪匡哉氏(サンパウロ新聞)


http://www.saopauloshimbun.com/index.php/conteudo/show/id/17573/cat/148



 1990年代、多くの少年たちがプロを夢見て、サッカー留学でブラジル(伯国)へ渡った。川窪匡哉氏(東京、33)もその一人。同氏はプロになる夢はかなわなかったが、現在鹿島アントラーズの通訳としてサッカーで生計を立てる人生を歩んでいる。同氏の経験は、これからプロを目指す子どもたちにも伝えるべきものだ。

 川窪氏は、小学校卒業後12歳でプロを目指して渡伯し、サンパウロ(聖)州カンピーナス市のポンチ・プレッタへ留学。スタジアム内に併設された選手寮で10人1部屋の共同生活が始まった。住環境や食への不満はなかったというが、言葉の壁には苦しんだ。「伯国で初めて話したポルトガル語は『Meu nome e Masaya.(私の名前は匡也です)』。日本で覚えていったあいさつでしたけど、全く通じなかったのです。そこからポ語を話すのが怖くなってしまった」。留学中は、サッカー以外の時間にブラジル人と一緒にいることが少なく、ポ語が上達したのは、実は日本へ帰国し、通訳の仕事を始めてからなのだという。

 同氏は17歳になるころには四つのクラブを渡り歩いていたが、小さなクラブばかりでプロへの道は見えなかった。「このまま日本へは帰れない。試合に出られなくてもビッグクラブに行きたい」。そう考えていた同氏にチャンスが訪れる。知人の縁で、強豪グレミオの下部組織に入ることができたのだ。

 しかし、同氏の立場はあくまで月謝を払う留学生。周囲のレベルも高く、なかなか試合に出る機会に恵まれなかった。同クラブではコーチのトレーニングもしながら18歳まで所属し、日本への帰国を決意。「僕は伯国というより日本でプロになりたかった。小さい時に日本を飛び出したから、そのころには母国が恋しかったこともありました」。

 帰国後、プロになる夢はかなわなかったが、伯国でプレーした経験とそこで築いた人脈もあり、大宮アルディージャ(大宮)にサブマネージャー兼通訳 補佐として「入団」。同クラブで4年間過ごし、その後現在の鹿島アントラーズへ「移籍」した。きっかけは大宮時代に出会い、川窪氏が師と仰ぐ高井蘭童氏 だったという。

 当時既に鹿島で通訳をしていた高井氏から、同クラブの通訳が一人辞めたため補充要員を探していると聞き、同氏に推薦してもらい面接。見事採用され、鹿島でのキャリアは今年で10年目を迎える。

 川窪氏の鹿島での主な仕事は、ピッチ外でのブラジル人選手やその家族のサポート。子どもの学校とのやりとりや、買い物や病院の付き添いなど、生活全般を支える。

  同氏が通訳として心掛けているのは、「自分の気分次第でなく、相手を常に気にかけて一言二言でも声を掛けること」。そして「何か起こって『匡哉』と呼ばれ る前に、相手がしてほしいことに気づくこと」だという。「実はかつて鹿島にいたマルキーニョス(現ヴィッセル神戸)に言われて、大事にしている方針なんで す」。

 それにより同氏が選手や家族と築いた信頼関係は固い。「以前鹿島でプレーした選手と家族が、今でも誕生日やクリスマス、新年にメールや手紙をくれるんです。他のクラブにはあなたのような人はいない。あなたが必要だと。本当に感激しますね」。

  最後に記者には、川窪氏に聞いてみたいことがあった。同氏のように、幼くしてブラジルへサッカー留学することに賛成か否かだ。同氏は言う。「勧めるより も、よく考えてほしい」。同氏の意見には経験者のみが知る重みがある。「例えば、テストで合格してクラブから迎えられるなら話は別です。環境が用意されて いて、後はサッカーで結果を出すだけですから。でも僕は無名で、手厚い待遇どころか、自らお金を払ってチームに入れてもらっていた。当時日本人はサッカー が下手という偏見の目もありましたし、いろいろな苦労があった。だからこそ今の僕があると言えますけど、(自身が)経験しているだけに『行ってみたい』 『外国でサッカーをやってみたい』程度なら行ってほしくない。『行きの航空券だけ買って、帰りは現地でプロになって稼いだ金で戻ってくる』。その決意が本 気であるなら、行って勝負しろと言いたいです」。

 川窪氏の夢はブラジルと日本の懸け橋となる仕事を続けること。「僕は伯国で日系人をはじめ、多くのブラジル人に助けられて生きていた。それを今度は僕が日本でブラジル人に恩返ししたいです」。

 外国で生きる苦楽を知り尽くす同氏。これからも同氏を必要とする人が助けを待っているだろう。(つづく、夏目祐介記者)