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2016年5月30日月曜日
◆<ひと物語>障害児サッカーで成長 「バンクル茨城D・F・C」代表兼監督 大橋弘幸さん(28)(東京新聞)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/list/201605/CK2016052902000164.html
十メートル先のボールがよく見えない弱視の子どもは、周りに声を掛けてもらいながらプレーする。肢体不自由で早く走れない子は、ゆっくりしたドリブルで相手を引き付けてから、パスを出す。
「みんな欠点はある。『デコボコ』の『デコ』の部分で周りを助け、互いに『ボコ』の部分を埋め合えばいい」。障害児のサッカーチーム「バンクル茨城D・F・C」を昨年七月に立ち上げ、監督を務める。
元Jリーガーでも強豪校出身でもなく、高校では一勝もしていない。「サッカー協会にいる人たちとは全く違い、ダメな経験ばかりしてきた。ダメ人間だったから分かることがあり、今では強みになっている」と振り返る。
中学時代は、Jリーグ一部(J1)鹿島アントラーズのジュニアユースチームでプレーした。最初は主力だったが、次第にベンチを温めるようになり、上の世代のユースチームには入れなかった。J2水戸ホーリーホックのユースチームに入ったが、指導者と合わず二カ月で辞めた。
通っていた高校のサッカー部に入部したが、人数もぎりぎりの弱小チーム。「レギュラーを争うのではなく、励まし合いながらプレーしていた。辞められたら困るから」と当時を思い返して笑う。
卒業後は、アントラーズなどのサッカースクールでコーチを務めた。挫折を味わってきた経験から「トップの選手を育てるため、できる子ばかりに目を向けていていいのかな」と疑問に思っていた。
三年ほど前から視覚障害者サッカーに関わるようになり「特に障害児はプレーの環境が整っていない」と感じた。このため、昨年夏に独立してサッカースクールを開業する際、障害児のチームも立ち上げた。
健常児のチームで試合に出られず、しばしば練習でも外されていた子が、生き生きとプレーするようになった。肢体不自由の子には優しいパスを出すなど、周りに配慮できるようになった子もいた。「人間的な成長が、サッカーの成長につながった時がうれしい」と目を細める。
二〇二〇年に東京でパラリンピック開催が決まったのを機に、障害者サッカーの七団体を統括する「日本障がい者サッカー連盟」が今年四月に発足。ようやく日本サッカー協会の加盟団体になり、競技体制の整備に向けて動きだした。
「障害のある子がサッカーを楽しめる環境が、当たり前になってほしい」と願っている。 (宮本隆康)
<おおはし・ひろゆき> 1987年、高萩市出身。中学時代は鹿島アントラーズのジュニアユースチームでプレー。県立松丘高校(現・高萩清松高校)を卒業後、アントラーズなどのサッカースクールのコーチに。現在は独立し「ジュントリールサッカースクール」を県内各地で開いている。ひたちなか市在住。