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2016年9月3日土曜日

◆トルシエに怒られても貫いた上下関係…本山雅志が語る日本代表と鹿島(ぐるなび)


http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/football/3045

鹿島アントラーズの背番号10、そして1999年ワールドユース準優勝メンバーの中心選手として知られる本山雅志選手。2016年からは地元であるギラヴァンツ北九州に移籍した本山選手が、日本代表時代のトルシエ監督やジーコ監督とのエピソード、鹿島アントラーズでのエピソードを語っていただきました。

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1999年、日本サッカー界は初の快挙に沸いた。国際サッカー連盟(FIFA)が主催する大会で初めて決勝に進出したのだ。



ナイジェリアで開催されたFIFAワールドユースで、日本は初戦のカメルーン戦に負けたものの、アメリカ、イングランドを下して決勝トーナメントに進出した。ベスト16ではポルトガルをPK戦の末退け、準々決勝ではメキシコを撃破。準決勝のウルグアイにも競り勝ち、ついに決勝へと駒を進めた。


この大会からは多くのスター選手が育っていった。スペインはシャビやイケル・カシージャス、ウルグアイはディエゴ・フォルラン、ブラジルはロナウジーニョ、アイルランドにロビー・キーン、イングランドにピーター・クラウチやアシュリー・コールなどを擁していたのだ。

その中で日本が決勝にまで進出したことは、この世代の日本代表に明るい未来が待っていることを予感させるものだった。残念ながら決勝ではスペインに完敗を喫したものの、日本への評価は高く、ベストイレブンには2人の日本人選手が選ばれた。

1人はキャプテンの小野伸二。そしてもう1人が本山雅志だった。

このチームの監督はフィリップ・トルシエ。日本代表監督を兼任しており、ここで活躍を見せたということは、2002年日韓ワールドカップのメンバー入りにぐっと近づく――はずだった。

だが本山は2000年こそ日本代表で3試合に出場するが、その後は2002年ワールドカップが終わり、2003年になるまで出場機会を得られなかった。

トルシエ監督の後を継いだのは、鹿島アントラーズのテクニカル・アドバイザーとして本山を見ていたジーコだった。ジーコ監督就任後、本山は日本代表での出場試合数を増やしていく。それでも2006年ドイツワールドカップのメンバーに本山は選ばれることがなかった。

活躍できなかったわけではない。鹿島では2002年から10番を背負い、14年間その重圧に耐え続けた。練習場で時折見せるブラジル人選手との技の比べ合いでは、常に本山に軍配が上がった。試合でも肝心なところで印象に残るゴールを決め続けてきたのだ。ただ、ケガや故障の影が本山の足を引っ張り続けた。

36歳になった本山は鹿島を離れ、生れ故郷の北九州に戻ってきた。背番号も43番と、まるで新人選手のような大きさになった。新たな一歩を踏み出そうとしている本山に、ここまでの思いを語ってもらい、未来への踏み板としてもらう。

「ピッチ上では敬語を使うな」とキレるトルシエ

1999年ワールドユースでベストイレブンに選ばれたけど、たまたまですよ。あのチームはやっていくなかでみんな成長していったし、みんなうまかった。

シンジ(小野伸二)もタカ(高原直泰)も、(小笠原)満男も。DFラインもみんな頑張ってたし、南(雄太)も、ソガ(曽ヶ端準)ちゃんもいたし。ヤット(遠藤保仁)がボランチで、イナ(稲本潤一)が出られないくらいのメンバーでしたから。

でも、そのメンバーがすんなり日本代表チームになるかというと、そうじゃなかった。自分たちの上にもうまい選手がいっぱいいましたからね。ヒデ(中田英寿)さん、シュン(中村俊輔)さんもいたし、アレックス(三都主アレサンドロ)も帰化した。福西(崇史)さん、名波(浩)さんの年代もみんなうまかったですよ。

ワールドユースの後の日本代表はフィリップ・トルシエ監督とジーコ監督で、2人ともかわいがってくれましたよね、気にかけてくれた。

ただ、トルシエ監督にはいじめられましたけどね。みんないじめられてると思いますよ。でも、愛のあるいじめというか……教育(笑)。

自分が監督から言われたのは「ピッチ上ではやっぱり上下関係ないから、敬語を使うな」ということでしたね。メッチャ言われた。けれど、僕としては、やっぱり先輩には「さん」付けしなきゃいけないと思っていた。

それで監督が怒って、「もうお前外走ってろ」って、ずっとピッチの外を走らされたということが何回かありましたね。大人しく、ずーっとグラウンド走ってましたよ。

監督はきっと「グラウンドには上下関係が無い」と言いたかったんでしょう。自分としては、上下関係があるけど、プレーにはないと思っていました。僕は先輩は先輩だから「さん」付けは絶対しました。当たり前だから。

2002年日韓ワールドカップのときは、そこまでチームで試合に出てなかったし、代表でも途中出場の立場でした。やっぱり結果出していかないと代表チームには残れないと思ってましたよ。2002年は自分のチームで試合に出られなくてコンディションが上がらなくて、取り戻そうとしましたけど、うまくいかなかったですね。

2006年ドイツワールドカップもあまりコンディション良くなかったですね。ケガをずっと抱えながらプレーしていました。

ジーコ監督からプレーについては何も言われませんでした。監督は「やりたいようにやれ」と言ってくれていました。指示はほとんどそれだけ。ジーコ監督に詳しい指示をもらったことはあまりないですね。

戦術的なことを言われたことはない。「中盤での軽いプレーは止めろ」と言われたことはありますけど、それ以外は「自分のポテンシャルを全部出して楽しんでこい」と言われたことぐらいかな。

ジーコ監督は本当にサッカーがうまかった。話も当然ということしかいわないし、基本的なことしか話さない。けれど、そういう「基本的なことが一番大事」だと僕も思ってたし、一緒にレクレーションのゲームやるとみんなよりうまいから。

そう言えば、私生活のことはよく話をされました。「ハンバーガー食べるな。ハンバーガー食ってる場合じゃないだろう」という話をされたりしてました。僕は食べてなかったんですけど(笑)、そういうふうに見えたんでしょうね。

僕が若かったからでしょうが、「私生活に気を付けろ」とすごく言われました。「痩せてるんだから1日5食食え」とか。そういう私生活的なことしかいわれなかったですね。試合の中では、「サボるな」って怒られるくらい。プレーについて、コレが違う、アレが違うなんて言われたことはないですね。

「監督からは最終的に使えなかったと判断されたんじゃないですかね」

2006年ワールドカップが終わってから、悪い部分の治療を全部やりました。2007年は全試合に出場したけれど、2008年はシーズンオフまで待って水腎症の手術を受けました。2004年ぐらいからずっと痛かったんですけど、そのころは腎臓だとは思わなくて、ずっとそのままサッカーやっていました。

それが水腎症で、腎臓が動いていなかった。相当悪かったですね。どうやら生まれつきだったみたいで、それが原因なのかわからないですけど、コンディションが整わないことが多かったですね。

でもとにかく背中が痛い。お酒や水を飲むと体が腫れるし、水を飲み過ぎると熱出るし。気付かなかったんですけど、コンディション、悪かったですね。よくよく考えると。

他にも腰がずっと悪かったんですよ。痺れがあるのにずっとサッカーやっていました。それはヘルニアでした。2010年のシーズン前に手術して全部取りました。自分ではそんなにいつも、故障を抱えているというイメージはなかったのですが、特に水腎症はひどかったですね。

2002年、2006年とワールドカップに出られなかったのは仕方がないと思っています。だって、選手はみんなその舞台を目指してやってるから。監督によって誰を選ぶかという好みはあるかもしれないけど、僕は選ばれなくてもしょうがなかった。もちろん出たかったとは思います。出たかった。特に2006年は出たかったですけどね。

2002年ワールドカップには予選がなかった。だから自分としては、2006年の予選に出て活躍して、それで選ばれたいと願ってましたけどね。出場したいと思っていたし、出たかったけれど、後悔はしてないです。次に向かってやってるから。そうしないと、じゃあもうサッカーをやめるしかない。悔いはないです。出たかったというのは後悔じゃない。

どちらの大会のときも、監督からは最終的に使えなかったと判断されたんじゃないですかね。コンディションが良くないと思われたかもしれないですね。精一杯努力はしたんですけど。

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忘れられないサポーターとの対話

1999年ワールドユースは、出場している選手たちがみんな一緒の年齢で、体がすごいヤツなんてほとんどいなかったし、いたとしてもチームに何人かだけでした。20歳のころなんて、まだみんな体が出来上がっていないじゃないですか。だから活躍できたんじゃないですかね。

 だから鹿島アントラーズに入ったときは先輩から「コイツ大丈夫かな?」って、たぶん思われていたと思います。細かったら、「コイツJリーグでやっていけんのかな」って思ってた人もいたんじゃないですかね。

 だから自分としては、自分のしなやかさで勝負するか、それか体をもっと作らなければいけないと考えていました。その中で徐々に揉まれていきました。

 それにアントラーズはみんなクオリティが高かったり、クオリティが上がってくる選手ばかりだったので、やってて面白かったですよね。「あ、この選手はこんなにうまくなるんだ」っていう驚きもありました。

 でも、1シーズンを通じて試合に出ることはずっとありませんでした。強化部長の鈴木満さんからは、「お前が1シーズン出たら優勝できるからちゃんと出ろ」と言われていたんですよ。僕はいつも「出る気ではいるんですよ」って返してました。

 それが2007年、やっとリーグ戦全試合に出場することができました。頑張っちゃいましたね。

 あの年もみんなで支え合いました。入れ替り立ち替りでいろいろな選手が出場したけれど、誰もぶれずにサッカーを続けました。最終的にはみんなでまとまったし、優勝できた。そしてそれから3年間、あまり負けなかった。鹿島の良さは仲の良さもありますしね。

 でもその2007年、最初はあまり勝てなかったからサポーターの人たちが練習場にやってきた。それで僕が話したんですけど、来た人たちは怒ってましたね。でもわかってくれますから。

 言ったらわかってくれるんですよ、サポーターは。サポーターは勝ちたいからやってるんだし、選手も負けたいってサッカーやってるんじゃないし。そこだけすり合わせればみんな同じ方向に向かっていけるんで。

 選手もサポーターも思いは「勝つ」という1つだし、アントラーズはシンプルで優勝することしか頭にないし。「本当にみんな心に持ってるよ」って伝えるだけ。あとはみんなでがんばるだけ。負けて気持ちがいい人なんていないから、そこのすり合わせだけです。

 同じ方向に向いている人たちだからね。他の方向から来て何か言われたら「わかりません」ってことになるけど、サッカーのことだったら同じ方向だから。

 あのときやってきたサポーターも、まだ最前線で旗を振ってるんじゃないですか。彼らはきっとこれからも、アントラーズが負けたら練習場に文句を言いに行くだろうし、答える選手も一杯いると思います。

 鹿島時代を振り返ると、もっとできただろうとは思います。もっとたくさん面白いサッカーだったり、もっとタイトルを取れただろうとは思います。けれど、精一杯はやってきました。

 過去は振り返らない…地元・北九州での再出発

懐かしいですね。でも全部置いて、北九州で頑張ろうと思ってるから。

 過去を振り返ろうとは思わないし、ここで結果を出したいですね。ここでの結果は、J1に上げること。みんなで。みんなでそれができるといいと思います。

 そしてまたJ1でプレーしたいと思いますね。でもこのクラブが少しでも強く、母体も街も強くなってくれることがもっと大切だと思います。自分がどうしたいというより、クラブが立派になるために呼ばれたと思っています。

 ギラヴァンツ北九州に移籍したのは、生れ故郷だというのが一番大きな理由ですね。それに柱谷幸一監督が、自分が鹿島を出て行くことになったとき、すぐに来て話をくださいました。そのタイミングでこのクラブってのは、もう断る理由がないですよね。

 今も楽しいですよ。みんなのポテンシャルも高いし。僕もここでゼロからのスタートです。また勝負。保障は何もない。背番号も大きくなった。いいでしょう? あとはみんなで一つひとつ勝っていくしかないですね。

 だから昔のことを振り返っている暇なんてないですね。今日久しぶりに昔のことを思い出しました。

 今住んでいるのは実家だから、思い出の品がたくさんあると思うんです。ワールドユースのときの準優勝のメダル、すっごい小さなメダルなんですけど、あると思うんですよ。けれどどこにあるかもわからないです。見ようとも思わない。アントラーズのものも部屋にあまり置いていません。全部しまいました。とりあえず(笑)。今はギラヴァンツの選手なんで、全力でここでがんばります。

 北九州にやって来たら、おいしいモノがたくさんあるから食べていってくださいね。オススメは小倉なら焼うどん。有名で、どんな小さな定食屋さんや、どこの喫茶店にも焼きうどんがあります。新門司に来たら、カキ小屋。カキを自分で焼いて食べるんです。それから門司港に行ったら焼きカレー。ドリアみたいなカレーがメッチャ有名です。

 あと僕の実家は魚屋さんなんですよ。僕が好きなのは、カワハギです。刺身が最高。結構レアでしょ(笑)。他にもクエや、深海魚がすごく揚がるから、それも高いけど美味しいですよ。イカも大好きだなぁ。ここの食べ物はすごいですよ。楽しみに来てくださいね。

いつも前向きに話をしてくれる本山だから、この日もハキハキと厳しい質問に答え続けてくれた。本当は思い出したくない話もあったことだろう。だが、はぐらかしたり、チャカして終わろうとしない本山の姿勢に、今後とも成功し続けてほしいと願う。

 そしてもう1つ、本山で心配になることがあった。

 それは本山が大好きだった東京ディズニーリゾートから遠く離れてしまったこと。たとえどんなにこれまでのサッカー生活を総括したとしても、好きでたまらなかった夢の国から離れたのは寂しくないはずがない。

――ところでディズニーリゾートからは離れてしまったけれど……。

 そう聞くと本山はキリリとした表情になって言った。
「大丈夫です。情報は一応入れてます」

 その生真面目な答えにも、本山らしい誠実さが溢れていた。


本山雅志 プロフィール

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プロサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。

東福岡高校を経て1998年、鹿島アントラーズに入団。2002年からは背番号10を背負い2015年まで在籍。

2016年からは地元・北九州市のギラヴァンツ北九州で再出発する。

福岡県出身、1979年生まれ。



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取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。

ブログ:http://morimasafumi.blog.jp/