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2017年2月17日金曜日

◆宮崎出身の浦和FW興梠、プロ目指す子供達の道標に(ニッカン)




 Jリーグのキャンプ取材で宮崎県を訪れた。今季から担当するFC東京の都城合宿を中心に、かつてベガルタ仙台や鹿島アントラーズの担当時代に訪れた宮崎市内の各所も再訪。さまざまな関係者と再会した中で、鵬翔高の松崎博美総監督(65)にもお会いすることができた。

 昨夏のリオデジャネイロ五輪に、オーバーエージ枠で出場したFW興梠慎三(30=浦和レッズ)の恩師。興梠の高校入学の手助けをしただけでなく、1年春から夏にかけて、幽霊部員状態となっていたところを、昼休みのたびに職員室に呼び出したり、電話をかけて説得した。「今があるのは松崎先生のおかげ。両親以上の存在、恩人」と興梠から感謝される指導者だ。12年度には、監督として全国高校サッカー選手権で初優勝を果たしている。

 そんな高校サッカー界の名将の1人から、ある画像を見せられた。携帯電話に映っていたのは石碑。興梠の五輪出場記念碑だった。4年に1度のスポーツの祭典に、サッカー競技で出場した宮崎県出身者は興梠が初めて。「地元のみんなの気持ちを持ってブラジルに行った慎三のために、何とか功績を形にしてあげたかった」と松崎氏が発起人となり、昨年9月に本格的な制作が始まった。同10月14日に受賞した「宮崎市栄冠賞」とともに今年1月、市から設置許可が下り、宮崎市生目の杜運動公園(多目的グラウンドB人工芝コート付近)に設置された。

 松崎氏にとって、やはり教え子の五輪出場は感慨深いものだった。昨夏、日本協会と手倉森誠監督(49)からオーバーエージ枠での出場の打診を受けた興梠から、真っ先に相談された。「断ろうと思います」。実際、1度は辞退した興梠を松崎氏は説得した。鹿島在籍時、セリエAメッシーナからオファーが届いたが、断っていたことを思い出した。「あの時、お前は成長する機会を自ら逃した。『どうしましょうか?』やない。もう何年も現役でいられるわけやない。将来のお前のためにも、宮崎のためにも絶対に行けよ」と強く勧め、うなずかせた。

 五輪の舞台に立った興梠は1次リーグ全3試合に先発。初戦のナイジェリア戦でチームの大会初得点となるPKを決めた。結果は1勝1分け1敗の敗退に終わったが、五輪後の8月中旬に帰省した興梠と宮崎市内で食事した。「『疲れましたわ~』と何度も言ってましたけど『悩んだし、決断も迷った。でも、最後に思ったのは、本当に行って良かった、ということ』と言ってくれました。PKの場面も、本来は蹴りにいく性格じゃない。でも、蹴りにいったところに成長と責任を感じた」。やんちゃだった教え子の晴れ姿が、素直にうれしかった。

 その後、完成した記念碑だが、実はまだ見ることができない。興梠が除幕式に出席する日程を調整中だからだ。浦和は、2月11日まで沖縄で2度の合宿に取り組んだ。翌12日には、さいたまシティ杯でFCソウルとプレシーズンマッチ。キャンプ中に宮崎へ帰省する時間はなく、18日には富士ゼロックス・スーパー杯、21日には敵地オーストラリアでのACL1次リーグ初戦ウェスタンシドニー戦が控える。その後も25日のJ1開幕戦(対横浜)など、18日から15日間で5試合という過密日程だ。松崎氏は「早く帰ってこい、と何度も言ってるんですが」と笑いながら「さすがに調整が難しい。1日でもオフがあれば何とか来てもらい、県内の支援者に感謝する機会を設けられれば」と幕をかけたまま待っている。

 今年の宮崎ではJ1の9クラブ、J2の9クラブ、J3の1クラブがキャンプをした。一方、これだけの環境・設備がありながら、宮崎は九州7県で唯一、Jクラブがない。その空白状態を解消しようと、松崎氏は14年に社会人クラブ「J.FC MIYAZAKI」を設立、取締役会長に就任した。昨季は九州リーグ(5部相当)で初優勝。元日本代表監督で、日本協会副会長の岡田武史氏(60)がオーナーを務めるFC今治(四国優勝)とともに、昨秋の全国地域チャンピオンズリーグにも出場した。

 その中で、興梠の五輪出場が与える意義は深いという。松崎氏は「近年、宮崎では少年クラブの数が増えてきて、県内のサッカー人口は増加傾向にある。プロを目指す子供が多くなってきた中、目標となる選手が身近にいることの影響力の大きさは計り知れない。慎三のようなプロ、日本代表選手になることを目指してほしい」と期待する。

 興梠が設立を喜んでいるというJ.FC MIYAZAKIも、今季から元日本代表の与那城ジョージ監督(66)を迎えてJFL昇格を目指し、将来のJ3参戦も見据えている。その中で、県勢初の五輪サッカー出場が大人から子供まで刺激したことは間違いない。J1通算100得点を超えた点取り屋の後を追い、新たなトップ選手が宮崎から続く日の到来も、早まるかもしれない。記念碑は「第2の興梠」育成へのマイルストーン。単なる式典にとどまらない意味を持つ除幕式の実現を、松崎氏は心待ちにしている。【木下淳】


 ◆木下淳(きのした・じゅん)1980年(昭55)9月7日、長野県飯田市生まれ。早大4年時にアメフットの甲子園ボウル出場。04年入社。初配属の文化社会部ではレプロエンタテインメントなど、東北総局ではJ1仙台や花巻東高の大谷翔平投手(日本ハム)らを担当。整理部をへて13年11月からスポーツ部。サッカー班で昨季まで鹿島、リオ五輪代表を担当し、今季から東京の番記者になる。

http://www.nikkansports.com/soccer/column/writers/news/1779842.html