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2018年5月6日日曜日

◆「ジーコの負けず嫌いはハンパなかった」。 本田泰人はその魂を継いだ(Sportiva)




遺伝子 ~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(11) 
本田泰人 前編

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 5月2日、V・ファーレン長崎をホームに迎えた鹿島アントラーズは、前半4分に鈴木優磨のゴールで、先制点を獲得したものの、18分に同点弾を許してしまう。30分に金崎夢生が追加点となるPKを決め、勝ち越すことができたが、後半は長崎に押し込まれる時間が長く続いた。それでも得点を許さず、試合終了を迎え、4試合ぶりの勝利を飾った。

「ものすごく時間をかけて話し合い、練習でもコミュニケーションをとってきたなかで、今日は自分たちがやりたいようにやれた部分もあったけれど、失点もそうですし、やられる部分もあった。押し込まれる時間帯というのは、今までもたくさんあった。そういう時間帯でも、自分たちがどっしりと構え、無失点でやってきたという自信が僕らにはある。それを取り戻すというか、そういう戦い方もできるようにしたかった。

 そういう意味で、今日の後半だけを見れば、あれだけ押し込まれても失点がなかったのは、良い点だったと思う。もちろん、改善するところも出てきたので、そこを修正し、もっとレベルアップしたい」

 植田直通が試合をそう振り返った。

 4月28日の対横浜F・マリノス戦で、0-3と敗れたあと、大岩剛監督は「継続しなければいけないことと、守備面でやり直さなくちゃいけないことがある」と語っている。アウェー戦では、4月21日の川崎フロンターレ戦でも4失点を喫していることを考えれば、守備の修正は当然のことだろう。

 そういう意味では植田の言葉通り、長崎戦の後半は相手にボールを持たれても、慌てることなく、守り切れた。しかし、三竿健斗は「後半はラインが下がってしまい、プレスにいけないところもあった。主導権を握った守備をしなくてはならない」と語っている。

 久しぶりの勝利となったが、選手たちに安堵感は見られなかった。今季ホームでは負けていないが、アウェー戦では未勝利という現実は変わらない。

 小笠原満男の一言が、選手たちの思いを伝えていると思った。

「久しぶりの勝利ですね」というこちらの問いかけに、小笠原は吐き捨てるように言った。

「たかが1勝」

 そのスタンスが鹿島アントラーズの矜持(きょうじ)なのだろう。

 中2日で迎えるホームでの浦和レッズ戦で勝利し、連勝しなければ、長崎戦の勝利の意味がないこと選手たちは自覚している。遠藤康が言う。

「楽しみなぶん、勝たなくちゃいけないという気持ちが強い」

 すでにチケットは完売。かつて鹿島の指揮官として3連覇を成し遂げたオズワルド・オリヴェイラ監督率いる浦和をホームに迎える大一番は、鹿島の意地を賭けた試合になる。

*    *     *




 ジーコからキャプテンマークを引き継ぎ、そのスピリッツの継承者として、鹿島アントラーズの歴史の礎(いしずえ)を築いた本田泰人。帝京高校から本田技研入りしたものの、本田技研がJリーグ入りしないことを表明し、監督の宮本征勝、コーチの関塚隆とともに鹿島入りし、2006年鹿島で現役を引退した。 

――鹿島アントラーズの母体となる住友金属がJリーグ入りを果たしたとき、本田さんをはじめ、本田技研からは、黒崎久志(当時の登録名は比差支)さん、長谷川祥之さん、内藤就行さん、入井和久さん、千葉修さんなど多くの選手が鹿島の一員となりましたね。

「本田技研がJリーグに参加しないことになり、キーちゃん(北澤豪)や石川康などが早々にJリーグに参加するクラブへ移籍を決めるんだけど、『急ぐことはないだろう』と残っていたのが僕らだった。当時、すでに宮本さんは本田を離れていたんだけど、1992年に鹿島の初代監督に就任することが決まり、それを機に移籍することになった」

――当時の本田技研はJSL(日本サッカーリーグ)で上位争いをするようなクラブでしたが、アントラーズの母体となる住友金属は2部リーグ。不安はなかったのでしょうか?

「当然ありました。でも、ジーコがいるというのは大きかった。僕にとってのアイドルですからね。ジーコのもとで、ジーコとサッカーができるチャンスはそうあるものじゃないでしょう? 

 そして、クラブハウスやスタジアムの完成予想図なんかを見せてもらって、『こんなに環境のいい場所でサッカーができるのか』という気持ちにもなった。それと鹿嶋という土地も僕には魅力的だった。だって、工場があるくらいでほとんど何もないような場所。遊びに行くところもないし、サッカーに集中するしかない環境だったから」

――とはいえ、今まで日本のトップリーグでプレーしていたわけですし、レベルの違いやカルチャーショックのようなものはありませんでしたか? 
「もちろんありましたよ。(宮本)監督もそれを感じていたのか、体力作りと基礎練習が長く続きました。本田技研時代もシーズン前のキャンプでは1カ月くらい同じようなことをやっていましたが、その後は徐々に戦術練習へ移るんです。でも、鹿島ではそれが2カ月くらい続きました。ジーコはこのなかでプレーしていたのかと思うと、逆にすごさを感じました」

――住友金属組、本田技研組、そのほかにも日産やNTTからの移籍加入選手でスタートしたアントラーズが、まとまっていく過程というのをどんなふうに感じていましたか?

「やはりジーコという象徴がいたことは大きかった。何より勝利に対するこだわりの強さは強烈だったし、チームは家族なのだから、まずはチームのことを考えるということを選手たちに求め、選手もそれに応えようと必死でした。技術的に劣るなら、走力で補うとか、できることに全力を尽くす。それがプロだと。

『チームのために』というのは本田技研時代に宮本さんもよく話されていたことでしたし、いろんなクラブから集まってきた選手たちがまとまるうえで重要なポイントになったと思います。年齢的には本田技研組の選手はみんな若かったけれど、僕らが中心にならざるを得ないという覚悟はありました」

――1993年のJリーグ開幕前にイタリア遠征がありましたね。

「はい、あの遠征が非常に大きかったと思います。あそこでチームとしての戦術を徹底的にトレーニングしたんです。初戦はセリエCのクラブとやって引き分けられたけれど、続くクロアチア代表戦には1-8と大敗。激怒するジーコの姿は今でも思い出せます。

 翌日からはとにかく守備練習。4バックとアンカーの僕の5人で、カウンターを受けた形をひとつひとつ整理していくんです。もうヘトヘトでしたね。何度も何度も繰り返し、ゼーゼー言いながら(笑)。いつ終わるともわからない。翌日もまた同じ。どんどん疲労もたまりました。僕のキャリアのなかでも一番キツイ練習でした」

――その成果がインテルとの練習試合でドローという結果に繋がりましたね。

「向こうはトップチームだったから自信になりますね。そういうクラブと(練習試合を)セッティングできるのもジーコだからこそ。オフの日にミラノ観光していたら、(パオロ・)マルディーニ(※)が声をかけてくれたんですよ。『君たちはジーコのクラブの選手か?』って。いっしょに写真まで撮ってもらった。本当に自分たちが恵まれた環境なんだ、ジーコとチームメイトなんだと実感しましたね」




――インテル戦の結果に対して、ジーコはどんな反応だったのでしょうか?

「褒めてもらえた。ジーコはね、いいと思ったこと、頑張ったことに対しては、すごく褒めてくれるんですよ。『お前、できるじゃないか!』って。これはよく話す話ですが、ショートパスのミスに対してはメチャクチャ怒るんだけど、ミドルパスやロングパス、チャンレジしたパスに対するミスについては、『問題ない。よいチャレンジだ』と言ってくれる。そういう人なんです」

――ジーコのハットトリックもあり、開幕戦(1993年5月16日、対名古屋グランパス)を5-0で勝利したアントラーズは、そのままファーストステージ優勝を果たします。

「あの開幕戦は僕にとっても思い出深い一戦です。初戦を勝てたことでの安堵感が生まれたし、勢いがついたのは間違いないですから」

――鹿島が数多くのタイトルを獲得する強豪クラブとなったのも、あの優勝があったからだと思います。

「僕も自分は負けず嫌いだとは思っていたけれど、ジーコのそれはハンパなかった。どんなことであっても勝負事に負けると不機嫌だったし、勝てば大喜びする。その姿は、常に勝利へのこだわりを僕らに示してくれた。ジーコがアントラーズに植えつけてくれたものです。

『サッカーは勝たなければ、評価されない。プロならば勝たなくちゃいけない。24時間サッカーのことだけを考えろ』って、よく言われましたね。24時間は無理だろうと思ったりもしたけれど、年齢を重ねるとその意味が痛感できた。勝たなければお客さんは来ない。サポーター、ファンに喜んでもらえるよう、ファンサービスもちゃんとやらなくちゃいけないと、サインをするスペースを作ったり……。すべてがサッカーのため、チームのために繋がっているんです」

――そんなジーコに最も強く教わったことはなんでしょうか?

「個人として活躍すればそれでいいという気持ちは、絶対にダメだということですね。常にチームとして何ができるかを考えろと。チームはファミリー、サッカーは団体競技でチームスポーツだと。わずかひとりでも好き勝手にプレーしたら、勝てない。それを日々、ジーコから叩き込まれた。そして、キャプテンを務めるようになってからは、今度は僕が若い選手たちにそれを伝えました。いつも”チーム、チーム”と厳しく言っているから、怖がられていましたね(笑)」

(つづく)


「ジーコの負けず嫌いはハンパなかった」。本田泰人はその魂を継いだ