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2018年10月21日日曜日

◆田代有三が現役引退。「鹿島がなければ、 プロ生活は5年で終わっていた」(Sportiva)



田代有三 Yuzo.Tashiro


田代有三インタビュー(前編)

 オーストラリアに活躍の場を求めて2年。久しぶりに会った田代有三(36歳。ウロンゴン・ウルブス/オーストラリア)は、晴れ晴れとした表情をしていた。2005年に始まった14年にも及ぶプロサッカー選手としてのキャリアを締めくくろうとしているとは思えないほどに、だ。

 田代は2018年10月、現役引退を決めた。そこには、微塵の後悔もなかった――。

「鹿島アントラーズでプロとしてのキャリアをスタートしてからここまで、自分なりにその時々で、自分が考えるベストの選択をしてきました。モンテディオ山形に期限付き移籍をしたときも、鹿島に戻ったときも。初めて、ヴィッセル神戸に完全移籍したときも、海外へのチャレンジを探りながらセレッソ大阪でプレーしたときも。そして、34歳でオーストラリアにわたり、ウロンゴン・ウルブスで過ごした2年間も。

 初めての完全移籍が29歳の時で、以来”移籍”によって、いろんなサッカーや、いろんな人に出会って、その土地ごとに友だちもできて。サッカーだけではなく、自分の人生においてプラスになることばかりだったし、本当に毎日が充実していました。そう考えると、本当にすべての時間が幸せで、人に恵まれた現役生活だったと思います。

 だからこそ、もっと現役を……という考えもゼロではなかったし、ウロンゴン・ウルブスでは自分が希望すれば、もう1年プレーできたので『もう少し続けようかな』と考えたこともあります。でもこの2年間で、引退後にやりたいこと、チャレンジしたいことも見えてきたことで、2シーズン目の終盤には『早く次のキャリアをスタートさせたい』という気持ちが強くなっていた。それなら、現役にはきっぱりケジメをつけよう、と。

 並行して次のキャリアを考えられる人もいるけれど、僕の場合、選手でいるうちはどうしても(そちらに)本気になれない。その性格を考えても、また現役生活を『やり切った』と思える自分がいたからこそ、シーズンが終わる数試合前にクラブのオーナーに引退の意思を伝えて、自分なりにその覚悟を持って残り試合を戦い切りました。今は、本当にすっきりした気持ちです」

 田代のキャリアは2005年、鹿島で始まった。福岡大学在籍当時から『大学ナンバーワンFW』として注目を集め、大学3年生のときには大分トリニータで、4年生のときにはサガン鳥栖のJリーグ特別指定選手となったが、大学を卒業してプロ入りするにあたって彼が選んだチームは、鹿島だった。

「同じFWとして、かねてから(鈴木)隆行さんの泥臭いプレースタイルが好きだったこと。また、大学卒業に際して声を掛けていただいた8クラブのうち、鹿島だけは早々と2年生の頃から声をかけてくださっていたこと。

 そして、当時の鹿島には隆行さんをはじめ、そうそうたる顔ぶれがそろっていて……とくに中盤には(小笠原)満男さん、タクさん(野沢拓也)、モトさん(本山雅志)らがいて、そういう人たちからパスを受けながら、FWでプレーするのは楽しいだろうなって思ったのが(鹿島入りの)決め手でした」

 結果的に、鹿島では2011年まで7年間にわたって在籍し、2007年から始まるJリーグ3連覇をはじめ、天皇杯やナビスコカップ(現ルヴァンカップ)など、数々のタイトルを獲得する。それらすべてが特別な記憶として刻まれているが、それ以上に、鹿島に根付くプロフェッショナルイズムは、彼にとって大きな財産となった。

「僕が鹿島に加入して痛烈に感じたのは、サッカーのうまさはもちろんのこと、選手個々の人間性でした。簡単に言えば、本当に誰もが尊敬できるいい人ばかりで。個性は強かったけど(笑)、いざピッチに立ってサッカーをやるとなれば、全員が鹿島のために自分のすべてを注いだし、オンとオフの切り替えもすごかった。

 だから、たとえば『みんなで飯を食べよう』と誰かが声をかけると、それが急な呼びかけでも、必ず全員が集まる。それぞれ予定があるはずなのに、顔を出さない選手はまずいない。で、みんなでハメを外して楽しみ、でも、練習になると誰も手を抜かないし、全員がいいライバルとしてやりあう。そういう遺伝子が自然に伝統として備わっているというか……。

 その音頭をとってくれるのは、だいたいが満男さん、モトさん、イバさん(新井場徹)、ソガさん(曽ヶ端準)、(中田)浩二さんら”79年組”の人たちでしたが、そのさらに上の先輩選手も、その空気をすごく楽しむし、僕ら後輩は自然と『もっとやらなきゃ』という気持ちにさせられる。

 そういう中で、サッカー選手としても、人間的にも成長できたことが、のちのキャリアにもつながった。もし、違うチームでキャリアをスタートしていたら、僕のプロサッカー人生はきっと5年で終わっていたと思います」

 鹿島で過ごした7年間では、忘れられない記憶が3つある。ひとつはプロ1年目の夏に負った、左膝前十字靭帯断裂の大ケガだ。

 1年目からたくさんのすばらしい”パス”に出会い、点を取る楽しさを実感し始めた矢先のアクシデントで悔しさは募ったが、一方で田代はその時、見慣れない番号からの電話をうれしく受けとめたそうだ。相手は、当時フランスのオリンピック・マルセイユでプレーしていた中田浩二だった。

「僕が鹿島に加入したタイミングで、浩二さんは海外に移籍されていたので面識はまったくなかったんです。なのに、僕がケガをしたと知って、誰かから番号を聞いて電話をくれた。聞けば、浩二さんも2003年に僕と同じケガをしたらしく、その経験を踏まえて『僕と同じルートを辿れば、絶対に大丈夫だから、不安になるな』と。

 結局、僕も浩二さんと同じ先生に手術をしてもらい、そのあとのリハビリも浩二さんがつないでくれて、JISS(国立スポーツ科学センター)で受けられることになった。そのときに『鹿島ってすごいクラブだな』と。

 というのも、見ず知らずの後輩に遠い海外から電話をくれたのは、僕のことを心配する先に、クラブへの愛情があったからだと思うんです。そのことは、強烈に”鹿島アントラーズ”を実感する出来事でした」

 そこから約8カ月後、戦列復帰を果たした田代はプロ2年目の2006年、J1リーグ20試合に出場し、7得点と結果を残す。その活躍は翌年にも続いて、田代はこの年(2007年)、鹿島の6年ぶりとなるJ1リーグ制覇を経験した。

 これが、田代にとってふたつ目の忘れられない出来事であり、「現役生活の中で、一番うれしかったこと」としても刻まれている。

「たくさんのうれしい記憶の中で、プロになって初めてのJ1リーグ優勝は忘れられない、特別な記憶です。しかも、ほとんどの試合で先発して、第26節くらいから勝ち続けて、最終節で逆転優勝ですから。

 その勢いのままに天皇杯でも元日(の決勝)まで突っ走り、どのチームよりも長くサッカーをして、優勝を味わえた。あのうれしさは格別でした」

 そして、3つ目は”3連覇”を遂げた翌年、2010年に山形に期限付き移籍をしながら、2011年には鹿島に戻り、キャリアハイとなるJ1リーグ12ゴールを挙げたことだ。「このままじゃダメになる」という危機感からの期限付き移籍だったが、その翌年、田代は「逃げた自分」を払拭するため鹿島に戻った。

「鹿島では、2008年の途中までレギュラーだったけど、正直、膝の痛みも消えなくて。サブになる時間が増えても、ある意味、納得していました。『このコンディションで、Jリーグで一番強いチームで活躍できるはずがない』と。

 でも、2009年の終盤にかけて、膝の痛みが軽減されたのと並行して調子が上がり、自分はまだ大丈夫だと思えるようになった。それでクラブにお願いして、山形に期限付き移籍をさせてもらい、プロになって初めてふた桁得点を挙げて自信を取り戻すことができた。

 その山形は、僕にとって初めての”東北”で、人の温もりを実感した時間になりましたが、翌年、鹿島に戻ったのは『逃げたまま』で鹿島でのキャリアを終わらせたくなかったから。つまり鹿島には、レベルの高い選手の中で揉まれながら(そこで)レギュラーを獲るために加入したのに、コンディション悪を言い訳に逃げた自分にケリをつけるためでした。

 といっても、最初はサブだったし、東日本大震災も起きてクラブとしても大変なシーズンになったけど、1年を通して『鹿島のために結果を残す』と思い続けながら、12ゴールを挙げられたことは自信になりました」

(つづく)




◆田代有三が現役引退。「鹿島がなければ、 プロ生活は5年で終わっていた」(Sportiva)