ドイツ2部ウニオン・ベルリンから8シーズンぶりに鹿島へ復帰した元日本代表DF内田篤人(29)=鹿島=がスポーツ報知のインタビューに応じ、7年半を過ごしたドイツでの自身の変化を語った。ドイツ1部シャルケで7年、ベルリンで半年プレーする中で、日本代表に対する思いや行動が変わった。3大会連続選出を目指すロシアW杯に向け、巻き返しのシーズンが始まる。(構成・内田 知宏)
14年ブラジルW杯で1次リーグ敗退が決まったコロンビア戦後、内田はテレビ局のインタビューに日本代表からの引退を「考えている」と語った。日本代表の主力右サイドバックで、まだ26歳だった。そのルックスからサッカーファン以外からの支持も高く、当時は大きなニュースになった。「なんだろうねえ」と当時を思い返すようにゆっくり口を開いた。
「自分でやめると言って、自分をやめられない状況に追い込んだというのが本当のところ。自分が頑張ってやるために。追い込むために。ああいうことがなければ、あのままダラダラ続けていた気がするから」
欧州CLやドイツ1部リーグで世界を相手に戦っていた。その合間を縫って、12時間以上のフライトで日本代表に合流する生活を続けた。体への負担は大きかった。日本の1次リーグ敗退を受け「日本のために」という気持ちも強まったが、ロシアまでの4年間を走り出すためには、背中を後押ししてくれる何かが必要だった。そこで代表から引退しないことを決めた上で、あえて口に出した。
言葉通り代表から引退することはなく、後任のアギーレ、ハリルホジッチ監督からも招集された。だが、15年6月に右ひざを手術して以降は代表から遠ざかった。16年末に実戦復帰するまで長いリハビリ生活へ突入した。「こんな脂の乗った時期に、プレーできないのはマイナスでしかない」とも言った。日本代表のとらえ方にも変化が生まれたのは、ピッチから遠ざかっていた時期のことだ。
「友達とかに『代表でプレーしてほしいな』と言われる。『そうじゃないよ』と若い時は思っていた。シャルケやCLの(試合の)方がレベルが高いのに、なんでそっちばかり言うんだと思った。俺の性格的に代表、代表って言われるたびに応えたくなくなっちゃう。でも、それが日本の国のサッカーの見方だと理解できるようになってきた。日本ってそういう歴史で、ここまできたんだよね。それに気づいてから(負担などは)何とも思わなくなった。純粋に代表でプレーしたい」
もう一つ、ブラジルW杯後に決意したことがあった。それは「W杯で日本を勝たせられる選手になること」。これまでは黙々と練習するタイプだったが、鹿島復帰後は同僚に「そこ、行く!」「もっと!」と要求している。きつい練習になればなるほど元気に声を張り上げる。
「みんなに『うるせえ』って思われてもいいんだよね。自分が口にすれば、それが自分にはね返ってくる。言っている俺はサボれないから、自分のために言っていることでもある。ドイツでやってきて、CLに出て、シャルケでスタメンを張ってきたからって、鹿島を優勝させられる保証は何もない。マークされて難しいと思うし、研究もされる。そういう目で見られる中で、どれだけやれるかも含めて自分の力じゃないかな」
昨年、第1子となる長女が生まれた。今までは自分のためにサッカーをやってきたが、その考え方にも変化が出たという。
「親は何が一番幸せか。自分の子どもが幸せなのが、幸せなんだと感じる。娘が楽しそうにしているのが、俺は一番幸せだなと思ったから。俺が幸せなら、俺の親も幸せなんだな、と思う。今まで散々試合に出られず心配かけたけど、鹿島に戻って試合に出たら、楽しそうにサッカーしていたら、親は幸せだよね?」
宮崎キャンプではフルメニューをこなし、プレシーズンマッチの水戸戦(3日)でも先発出場。今季初の公式戦となる14日のACL上海申花戦(カシマ)へ向け、順調な調整を続けている。10年南アフリカ大会はメンバー入りしたものの出場機会がなかった。14年ブラジル大会はピッチに立ったが1勝もできなかった。自身3大会目の代表選出を目指すロシア。リハビリを含めた4年間の変化を進化にするための戦いが、まもなく幕を開ける。
◆内田 篤人(うちだ・あつと)1988年3月27日、静岡・函南(かんなみ)町生まれ。29歳。2006年に清水東高から鹿島入りし、不動の右サイドバックとして07~09年のリーグ3連覇に貢献。08年北京五輪代表。19歳でA代表に初選出され、W杯は10年南アフリカ大会、14年ブラジル大会に選出。10年7月にドイツ1部シャルケへ移籍し、17年1月に同2部ウニオン・ベルリンを経て、今季鹿島へ復帰。国際Aマッチ74試合2得点。ドイツ1部104試合1得点。同2部2試合無得点。176センチ、62キロ。
【鹿島】内田篤人、7年半過ごしたドイツで起こった自身の変化