2人の鈴木は部屋の最後方で肩を寄せ合うように着座し、これから始まる歴史的な記者会見に備えていた。子会社主導で、親会社を変える―。そんな嘘みたいで、考えられないことを3年をかけて実現させた。100人以上の記者でごった返す喧噪の中で、鹿島アントラーズで事業部門の責任者を務める鈴木秀樹は「ようやくだな」と安堵と覚悟がこもった言葉を向けてきた。チーム強化責任者を任せられる常務取締役の鈴木満は「これから変わると思うよ」と上気した表情に笑顔を交えて言った。
7月30日、Jリーグ理事会で鹿島アントラーズの経営権が日本製鉄(旧・新日鉄住金)からメルカリに譲渡されることが承認された。理事会終了から2時間後に、鹿島は会見を設定。Jリーグが拠点を置くJFAハウス(文京区)で行う会見としては「最多クラス」(Jリーグ)の記者がつめかけた。鹿島の庄野洋社長、メルカリ社の小泉文明社長らが登壇。よどみなく会見が進む光景を、2人の鈴木は目に焼き付けるように見守った。子主導の親選び。それを意識し始めたのは、4年前にさかのぼる。
◆重い空気に含まれていた"予感"
鹿島アントラーズのクラブハウスは重い空気に包まれていた。2015年11月20日、「鹿島アントラーズの生みの親」下妻博(享年78)が同12日に病気で死去していたことが発表された。いつもは休憩がてら、代わるがわるプレスルームを訪れる幹部たちが、この日に限っては1度もその扉を開こうとしなかった。幹部全員がダークスーツを着用し、せわしなく廊下を行き来している。「今日はなんの悪さに来たんだ」と気さくに毒づく鈴木秀樹の表情も硬い。
その鈴木をつかまえられたのは、辺りが暗くなり始めた夕刻だった。外出のためにスーツを羽織ろうとしていた鈴木から発せられる近寄りがたい雰囲気をくぐり抜け、「今後、クラブへの影響はありますか」と聞いた。傍らで待つ同僚が一刻も早く外に足を向けたそうにしている空気を察して、鈴木は「どうなるかわからない。ただ、影響がないとは言いきれない。色々と考えなければいけない」と短く言葉を切って、急ぎ足で出ていった。重い空気に含まれていたのは、喪失感だけではないことを、この時初めて感じることになった。
◆工場員に希望を。そのために…
頭の中には、主力である鹿島工場の惨状があった。1968年に開業した工場はバブル期を経て、人材不足に陥っていた。当時を知る関係者によると、課外授業の一環として見学に訪れた小学校の教員が生徒たちに向かって、こんなに暑いところで働かない方がよい、という趣旨の発言があったという(これを機に課外授業から外れた)。若者は職、暮らしの場を高速バスで約2時間の東京に求め、働き手が不足していた。また、人口4万の町の娯楽といえば、パチンコか釣り。勤務を続ける鹿島工場員たちに、希望を見出せる環境を整備することは、会社としても喫緊の課題だった。
これらを熱心に説明し、社内からゴーサインを得たが、乗り越えるべき壁はまだまだ多く、そして高かった。プロリーグ検討委員会委員長の川淵三郎から「(加盟は)99・9999%、無理」と突きつけられた。理由は明確。まずは集客力がないと指摘された。当初、Jリーグは8クラブでスタートする構想で、JSL1部所属チームから最低でも4チームが漏れることを意味していた。そこに実績、実力、集客力で劣る2部チームが飛び込んできても、勝ち目はないはずだった。だが、下妻をはじめとする住金金属、茨城県や鹿島の周辺自治体が一丸となり、川淵が「退路を作ってあげた」という意味で提示した屋根付きのサッカー専用スタジアムの建設を実現。最終的に加盟枠が2つ増やされ、10クラブでスタートすることも追い風となり、奇跡のJリーグ加盟を勝ち取った。
◆"神様"の降臨。常勝クラブの誕生
その後、下妻はジーコを招聘することにも尽力した。ジーコはすでに現役から退いていたため、他のチームが「すでに終わった選手」「年俸が高い」「扱えない」と尻込みをする中、獲得を決めた。ジーコはチームにプロ意識をいち早く植え付けた。「献身」「尊重」「誠実」の言葉に象徴されるジーコイズムは今でもクラブの支えとして息づいている。他の追随を許さない主要4大会(アジア・チャンピオンズリーグ、Jリーグ、リーグ杯、天皇杯)の20冠を達成する常勝クラブの礎を作ることができたのも、ジーコを呼ぶ決断があったからこそ。
下妻は2000年に住友金属の社長に就任してからも、鹿島アントラーズを支援した。関西経済連合会長の要職を務めながらも時間を見つけて足しげく、カシマスタジアムに通っていた。タイトルを獲得し、Jリーグ内でも一定の地位、評価を得ると2000年を過ぎた頃に、クラブの赤字改善へと動き、経営健全化を促した。経営も安定し、国内でもタイトルを積み重ね、今後は視野をアジア、世界へと目を向け始めた鹿島アントラーズ。下妻は、休日も妥協もなく働く職員にとって大きな支えだった。
◆立ち込める暗雲。無機質な関係
そんな折、本社が大きな決断を下した。鉄の不況から2012年、住友金属は新日鉄と経営統合することを決めた。これにより、鹿島アントラーズの親会社は、新日鉄住金に変わる。これまで社内の「福利厚生」として特別な位置にいたクラブは、新会社になっても変わらず、大事にされるのか。新日鉄の企業スポーツ事業の縮小傾向を見て、クラブには不安が広がった。職員からの問いに、下妻は「俺がいるうちは大丈夫だろう」と答えたというが、これまで通り、ということはなかった。
統合された会社は、約400の子会社を持ち、鹿島アントラーズもその1つに組み込まれた。プロスポーツクラブの子会社を初めて抱えることになった新日鉄側の幹部をスタジアムに招き、試合を見せた。そこに熱心なサポーターがいて、勝利を目指す選手たちの姿を見せたかった。東日本大震災の翌年に行われた2012年ルヴァン杯で優勝を果たした試合も、新日鉄側の人間を招いた。優勝したことを喜んでくれたが、住金時代のような当事者の熱を感じることはなかったという。徐々に新日鉄側の人間が来場する機会は減り、いつのまにか試合に顔を出すのは、住金出身ばかりになった。
人事面でも大きな影響を受けた。特にシーズン途中の監督交代や、助っ人獲得時には苦労した。子会社を含む人事の時季は決まっていて、多額の金額がかかる監督交代、助っ人獲得は「予算に含まれていない」という意見を先に出された。巨大な企業のガバナンスを考えれば、やむを得ない。親会社の担当社員は、鹿島アントラーズの事情に理解を示しつつも、「多くある子会社で、鹿島だけ特別に認めることはできない」と返事をせざるを得なかったという。プロクラブの運営を心得ていた住金時代には、なかったことだった。
そこでも、「プロクラブ運営とは」から説明を始め、理解を得ようと努力した。監督交代前後で、強化部はチーム運営に細心の注意を向けるが、その前に親会社にも同様に神経を使わなければいけなくなった。
車社会の町で、社用車一台を納車するにも苦心した。多くの愛情を受けてきたクラブにとっては、大きな変化だった。1/400であることを痛感させられ、最後は親会社に何も期待しない、無機質な関係になった。
◆「親会社を変える」。その発想の裏側にあるもの
あるスタッフは変化をこう明かしている。
「変わったよね。今は勝つことよりも、赤字を出さないことが優先させられている気がする。住金時代と変わらないお金を出すから、あとは迷惑をかけないでくださいっていう感じ。アントラーズは(人口の少ない)特殊な地域性もあって、勝たなければ成り立っていかないクラブ。勝てなくなったら何も残らない。
だからクラブとして、ジョルジーニョ、レオナルドを獲得した時のように、勝負をかけなきゃいけない時もある。今ではそういう意見もやり方も通らない。J2に落ちても、タイトルを取ってもどっちでもよくて、本社に迷惑をかけなければそれでいいと思っているんじゃないか、とすら感じる。住金は特別だと分かっているけど、プロクラブの親としては、今の状況はかなりやりづらい」
別の職員も懐かしむように口にした。
「とても恵まれた親会社ではないよね。住金からは、熱い思いを感じていたのも事実。ふんだんにお金は出さないけど、頑張ってくれよって。熱い応援をもらって、そこにタイトルでこたえる喜びを感じた。転勤者の多い(鹿島)工場で、その福利厚生的な存在が、アントラーズだった。これまで奇跡を何回か起こしてやってきた。
その中で寝耳に水だったのが経営統合。親が住友金属ではなくなった。アントラーズに対する考え方、距離感、温度は当然変わってきた。もういらないというわけではないが、近しい関係、距離感でもない。巨大になって、少し距離ができて、頑張っても、喜んでもらっていないのかな。そう感じる。でも、(そういうスタンスを取る)日本スチールの経営者の考えは正しいと思う。(対消費者ではない)素材メーカーが、プロクラブをやるには目的も目標も見出しにくいし、限界があると感じている」
経営統合を機に、社内からの見られ方が変わった。その3年後には、生みの親で、新会社統合後も、アントラーズの後ろ盾となってきた下妻を失った。「鹿島アントラーズが生き残るために親(会社)を変える」という発想が出てきた背景に、2つの出来事があった。下妻が他界してからは「親に住金のようなものを求めない」というスタンスが出来上がった。鹿島アントラーズを理解してもらう努力は、お互いにとって変化した方が得策ではないか、という提案に向いていった。2016年、こうして日本プロスポーツ界でも前例の少ない、子主導による身売りへの動きが始まった。
◆司令塔がつないだ「縁」
親交代を慎重に進める中で、鹿島は2017年4月にメルカリ社とつながった。同社がチームのオフィシャルスポンサーに名を連ね、同11月にはユニホームスポンサーになった。同社社長の小泉文明が、鹿島OBで現在はスペインでプレーする柴崎岳と共通の友人を介して食事をしたことがきっかけだった。小泉の実家が鹿島のホームタウンの1つ、行方市にあったことも縁になった。当時は、鹿島と新日鉄との間で経営権譲渡について水面下で話し合いが進められた時期と重なる。取材では、経営権譲渡先を募った際に、メルカリはすぐに手を挙げ、数社あった候補企業の中から遅くとも2018年春には譲渡先の有力候補になっていた。
スマートフォン向けフリーマーケットアプリを手掛け、2013年の起業から間もない新興企業が、Jリーグでもトップクラブの経営権を握る。小泉の狙いは明確だった。まずは女性中心の会員に「男性を取り込む」。鹿島アントラーズの試合観戦者は女性比率が高いが、サッカーを支援することで男性の流入を期待できる。そして、地域に根ざすプロクラブを経営することで「社会に受け入れられたい」という企業の戦略があった。さらに、サッカー界には、感動産業として大きな可能性を感じているからだった。
「スポーツないし、エンターテインメント界は、テクノロジーが入り始めたフェーズにある。これからが面白い。出資したのは、エンターテインメントには無限の可能性を感じているから。感動体験ができるし、人生をもっと豊かにしたいと思う人が増えている。スポーツ、エンターテインメントが持っている力は大きいと感じている」
新日鉄住金から社名を変更した日本製鉄、鹿島アントラーズから絶対条件として示された(1)ホームタウンに根ざす(2)クラブ名を変えない―の2点についても異論はなく、日本製鉄は譲渡先にメルカリ社を選んだ。鹿島のスポンサー参入から3年目で、日本製鉄とその子会社が持っていた72・5%の株式のうち、61・6%を15億9700万円で譲渡されることが決まった。下妻を失ってから、子主導で動き始めた身売り構想は、約4年で実現を見た。
鈴木満は言う。
「Jリーグが始まってから25、6年がたって、取り巻く環境も変わってきた。共存共栄から競争になってきている。クラブ間格差も出てきた。選手の意識も変わってきた。それらに対応していくために、お互い(日本製鉄、鹿島)にとって、今の状況、停滞していくのが思わしくないということ。お互い状況を理解しての決断だった。サッカーの時代変化に応じた、譲渡。新しいサッカー界でも生き残っていくために」
鈴木秀樹は決意を込めた。
「都市型のクラブが多機能スタジアムを持つ。そういうクラブがJリーグに3、4つ出てこないと世界と戦えないと言われている。その対極にあるのが鹿島アントラーズ。100億のクラブを目指して、これからも勝ち星重ねていく」
「お荷物」といわれていた鹿島が成績、事業面で先行しているのは、他クラブにない「危機感」を強く持っているからにほかならない。JSL2部からのスタートで生まれた「勝てなきゃ終わり」「立ち止まったら終わり」という意識は、地位を確立した今でも薄れることはない。今回の譲渡劇から伝わってくるのは、創設時から変わらない意識で、変わることを恐れない姿勢であった。=敬称略=
【取材・文=内田知宏】