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【参考】
戻るならここしかない、と思っていた赤いユニフォームのクラブ、鹿島アントラーズは、自分をプロサッカー選手にしてくれただけではなく、この厳しい世界を戦い抜く上で必要なことを心身両面で教えてくれたチームでした。在籍した8年間では素晴らしい仲間とAFCチャンピオンズリーグ(ACL)やJ1リーグを始めとする数々のタイトルを獲得できたのはかけがえのない経験、記憶として残っていますし、言うまでもなく愛着は深く、今の自分があるのも鹿島のおかげだと思っています。
仲介人もそのことは理解してくれていて、真っ先に鹿島に僕の意思を伝え、復帰の可能性を探ってくれました。お世話になったクラブのユニフォームを着て恩返ししたいと思うのはある意味、プロとして当たり前の感情だし、だからこそ僕自身もどこよりも先に鹿島と話をするのが筋だと思っていました。そして何より、18年の夏にトゥールーズFCからオファーを受けた際にクラブ史上初のACL獲得のために残留を決意した時にも再確認していた鹿島への愛情が、自分の中に色濃く残っていることも大きな理由でした。
それに対してトゥールーズも最初は「チームに必要な選手だから残ってくれないか」と言ってくれていたものの、僕のケガとの戦いやメディカルスタッフとの信頼関係が失われたことによる帰国の意思が固いことを踏まえ「正式なオファーが届いたら考える」と歩み寄ってくれたので、まずはその「正式なオファー」を手にすることを第一に考えていました。もちろん日本のシーズンはすでに始まっていて、同じポジションの選手を含めて補強が終わったあとの移籍は簡単ではないと理解していました。それでも…これは僕の勝手な考えですが、鹿島には自分を求めてもらえると思っていました。獲得してもらうにはお金がかかることも自覚していたのでオファーを受ける前から「鹿島に戻ってJ1リーグで優勝して必ずそのお金を取り戻す」という決意さえ備えていました。
ただ、結論から言って鹿島から正式なオファーは届きませんでした。これは僕の実力不足だったんだと思います。自分が思う自分の価値が、鹿島が考えるそれとはイコールではなかったというか。簡単に言ってしまえば、そこまで必要だと思われる選手ではなかったということだと思います。そのことはすごくショックでしたが、それによって改めて今の自分の価値を鹿島に教えられた気もしていますし、「もっと求められる選手にならなければいけない」とも感じています。と同時にそんな僕に、しかもケガも完治していなかった状態の僕に、いち早く正式なオファーを出してくれたガンバ大阪には深く感謝しています。
僕にとってのガンバはジュニアユース時代を過ごした古巣ですが、正直、当時は全く活躍もできず、ユースに昇格できなくても何ら不思議ではないレベルの選手でした。正直『古巣』と言うのもおこがましいくらいだと思っています。なのに、ガンバはそんな僕の獲得に尽力してくださり、Jリーグ復帰の道を作ってくださいました。そのことへの感謝はここで言葉にするより、この先ガンバのユニフォームを着て戦う中で『結果』で示していきたいと思っています。
ちなみに、ガンバへの移籍についても実は密かに縁を感じている出来事があり…そのあたりはまた次回、話そうと思います。(つづく)
昌子 源 Gen Shoji
1992年12月11日生まれ。兵庫県出身。
11年に米子北高校から鹿島アントラーズに加入。14年には自身初のJ1リーグフル出場を実現するなど主軸選手に成長を遂げ、16年のJ1リーグや天皇杯優勝、18年のAFCチャンピオンズリーグ制覇などに貢献した。
18年12月に完全移籍が発表されたトゥールーズFCでもすぐさまレギュラーに定着したが、2シーズン目はケガに苦しみ、長きにわたり戦線離脱。その状況を踏まえてJリーグへの復帰を決断し、今年2月にガンバ大阪への完全移籍が発表された。
日本代表にも14年に初選出。18年のワールドカップ・ロシア大会でもレギュラーとして活躍した。