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2021年5月9日日曜日

◆ジーコの現役ラストゴールとアルシンドの予言…相馬直樹監督が語る鹿島アントラーズ「12番を着けたみんなと約束できること」とは?(Number)






「小学生のころの夢は?」

 そう聞かれたら、「海外のクラブでプレーすること」と即答してきた。

「きっと変わった子どもだなと思われていたと思いますよ」

 相馬直樹が、はにかんで笑う。それもそうだろう。小学生だった1980年代には、まだJリーグがなかったのだから。

 日本にプロサッカー選手という概念がない時代のことだ。それでも、サッカーどころ静岡県で生まれ育ったからなのか、情報のアンテナは色濃いものだった。

「奥寺康彦さんがドイツに行ってプロサッカー選手になっていましたよね。だから、その道を目指す。それを当たり前に考えていました」

 子どもの頃から、常に今以上の自分を目指してきた。

「何かをやり遂げるためには、我慢しなければいけないことが出てくる。そこは我慢してきたし、やるべきことはしっかりやらないといけない。練習は裏切らない。だからこそ、人が10回やるならその倍やればいいと思ってきたタイプ。そういったものがベースにあると思っています」

 その心は、プロになっても変わらなかった。


8つのタイトルに貢献





 1994年、早稲田大学から鹿島アントラーズへ加入した。初年度から公式戦30試合出場。2年目からは日本代表にも選出され、4年連続でJリーグアウォーズでベストイレブンに選ばれた。アントラーズで8つのタイトルを獲得。選手として、大きな実績を残した。

 なぜ、ここまでの選手になれたのだろうか。

「やっぱり向上心ですかね。それは子どもの頃からそうだったので、それが支えてくれた部分。もっと上へ上へという気持ちが強いタイプでしたから」

 プロ生活12年。相馬にとって、一番の自慢がある。それはジーコのラストゴールをアシストしたことだ。

「あのときは、アルシンドさんが僕にボールを散らしてくれて、左サイドからクロスを上げた。それをジーコさんがダイレクトで、右足で合わせて決めたゴールです」

 そのゴールは1994年6月15日、アウェーのジュビロ磐田戦で生まれた。その試合当日の朝、前泊していたホテルで、ふとアルシンドに呼び止められた。

「ホテルで朝食をとっていて、彼とタイミングが一緒だったんです。その当時通訳だった鈴木國弘さんも、たまたまその場にいて。するとアルシンドさんが僕のところに来て、『相馬、今のままもっともっとやっていけば、必ず日本代表になれるから』という言葉をくれたんです。それは今でも覚えているし、すごく印象に残っています。今となっては、その日の試合でジーコさんのゴールをアシストするんですが、すべてがつながっていて、感慨深く思い出しました。アルシンドさんはあまりそういった真面目なことを言うタイプに思われていないですが、情熱家だし、仲間思いなところがあるんですよ」

 当時はプロ1年目。その翌年、アルシンドはヴェルディ川崎(現東京V)へ移籍する。相馬は背番号7を引き継ぎ、仲間の言葉に導かれるように飛躍した。





3試合フル出場したフランスW杯


 日本の攻撃的な左サイドバックといえば?

 1998年当時、サッカーファンにそう問えば「相馬直樹」の名前が多数を占めた。フランスW杯では左サイドバックとして全3試合に出場し、名実ともにキャリアのピークを迎えていた。

 日本が初めて迎える大舞台を前に、相馬は何を感じていたのだろうか。そして、大会を通じて何を得たのだろうか。

「正直、怖さがあって……。W杯の直前は、『全然通用しないのではないか』という不安がすごくあったんです。結果的にも、チームとして勝つことができなかったし、足りないところもたくさん感じた大会でした。ただ3試合のピッチに立つことができて、自分のペースでポジティブに仕掛けていけば、W杯の舞台でも『十分にやれる』という感覚をつかむことができました。それはすごく自信になりました」





 参加するものではなく、見るもの。そんな定義だったW杯という大舞台で、日の丸のユニフォームをまとってピッチに立つことができた。そして、大きな自信を得た。「夢のまた夢」という大会を経験したことで、相馬自身の心に変化が訪れた。

 今だからこそ、言えることがある。

「大舞台で手応えをつかんだことで、当然その後のキャリアにおいて『もっと上を目指そう』という気持ちも生まれました。その一方で、どこかで満足してしまった部分もあったのかなと思います。今、思うとね。当時はそんなことをまったく考えていませんでしたが、今振り返ってみると、心のどこかで『これだけやれたから……』という、満足感が出てしまった。上を目指すよりも保守的になるというか……。ポジティブに仕掛ければいいだけなのに、徐々にチャレンジが少なくなっていった気がします。それだけW杯というのは、選手にとって大きな大会だったということですね。特に僕らの年代にとっては、今の子どもたちと違って“W杯=出場する大会”という位置づけではありませんでしたから」

 当時、相馬は26歳だった。もっとも選手として脂が乗ってくる時期で、さらに上を目指してやらなければいけない立場でもある。今ではそう思える。

「あのとき、もっともっとという姿勢が必要だったと思っています。結果的に見ると、自分にとっては95年から99年までに、選手としてのピークが凝縮されている。ただ、もっと長く活躍できなかったかなあと思ったときに、98年で満足してしまったのがあったのではないかというのが、正直なところです」

だからこそ、現役を引退して解説者や指導者という立場になって思うところがある。

「もっと思い切りやればいいのに」

 もっといける。もっと大胆に上がれる。特にサイドバックに対してはそう見えるという。


「守りに入ってほしくない」


「W杯を経験して、自分のなかで“できた”と思ってしまったことで、その向上心に蓋をしてしまった。ちょっと守りに入るようになってしまった。だからこそ、選手たちに思うことは、本当にもったいないから、“守りに入ってほしくない”ということ。サイドバックの選手だったら、もっと出ちゃえばいいのにって、いつも思う。現役時代によく言われていたのが、アタッキングサードまで入ったら、FWのつもりでプレーしろということ。そこまで入って自分がボールを持ったら、失おうが何しようが積極的に思い切ってやれと。どんな立場であれ、いつも試合を見るときは、サイドバックはもっと出ていいと思って見ています。それは自分の経験から、そう見えるのかもしれない」

 相馬自身、選手時代は「どちらかが上がったら、どちらかは下がる」というつるべの動きをチームとしての基本とするなか、右サイドの名良橋晃とともにどちらが上がるか競い合っていたという。




「名良橋とは、本当に競争でしたよ。どっちが先に上がって仕掛けるか。攻撃に関しては、わざとバランスを崩しにいく。その感覚が強かった。攻撃でバランスを崩しにいくことで、全体の勢いを出す、意外性を出すということ。そこが求められていると感じてプレーしていました」

 2021年4月14日、ザーゴ監督が解任され、コーチだった相馬直樹は鹿島アントラーズの監督に就任した。

「僕が初めて采配をふるうことになった徳島の地で、サポーターは“この地から一緒に立ち上がろう”と横断幕で迎え入れてくれた。アントラーズへの思い、そして一緒に戦ってくれていることをすごく感じました。12番を着けたみんなと約束できることは、僕らが明らかに手を抜いたり、“これくらいでいいだろう”というプレーは見せないこと。そして、すべての力を出し切った姿を見せること。その上で一緒に戦って、一緒に勝利をし続けたい。そう思っています」





 就任後、リーグ3試合で2勝1分。順調なスタートも思う気持ちは変わらない。“もっと上へ上へ”という気持ちを胸に。タイトルへの戦いは始まったばかりだ。




◆ジーコの現役ラストゴールとアルシンドの予言…相馬直樹監督が語る鹿島アントラーズ「12番を着けたみんなと約束できること」とは?(Number)