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2022年1月10日月曜日

◆J1鹿島強化の立役者、鈴木FD退任 忘れられない試合とは…(産経新聞)






サッカーJ1の鹿島を常勝軍団に育て上げた立役者の一人である鈴木満氏(64)が、2021年シーズン限りで強化責任者のフットボールダイレクター(FD)を退任する決断を下した。昨年末に会見した鈴木氏は「鹿島には残さないといけない部分と変わらないといけない部分がある。変わるには自分が変わるのがいいと判断した」と説明。1996年に強化責任者となってから20個の主要タイトルをもたらしたレジェンドには、どうしても忘れられない試合があるという。

鈴木氏は現役時代に鹿島の前身である住友金属工業でプレーし、鹿島のコーチなどを経て96年から肩書を変えながら一貫して強化責任者を務めてきた。就任元年に初めてJリーグを制したのを皮切りにリーグ優勝8回、リーグ杯優勝6回、天皇杯優勝5回、アジア・チャンピオンズリーグ(ACL)優勝1回という輝かしい実績を残してきた。

「チームの結束力と勝利へのこだわりが鹿島イズム」と強調するだけに引き際は潔かった。2018年のACLを最後に主要タイトルから遠ざかり、国内に限ると5年連続の無冠。20年と21年のJ1では川崎の独走を許し、「20年と21年はフロンターレ(川崎)に勝ち点20以上の差を付けられ責任を感じていた。昨年10月27日に天皇杯準々決勝でフロンターレに負けて無冠が決まり、リーグ戦最終戦を前に小泉(文明)社長に退任の意向を伝えた」と決断の経緯を説明した。

強化責任者として心がけてきたのは誠実さだった。「選手と接するときに意識していたのは公平にみてあげること。報酬も含めて競争の激しい世界であり、『現場を見にもこない人が評価するのはおかしい』と思わせてはいけない。ちゃんと評価されていると思わせないと、組織として結束力は出てこない」。可能な限り現場へ足を運び、誤解を招くのを避けるために選手と飲みに行くことは一切なかった。

最も大変な仕事は選手やスタッフへの退団通告だった。「強化責任者になってから全部、私がやってきた。(21年シーズン限りでテクニカルダイレクターを退任する)ジーコにも、相馬(直樹)前監督にも私が伝えた。心は痛むし、一番労力がいる」と苦しい胸の内を吐露。「自分が辞めると決める方が簡単だった。ちょっと気持ちが楽になった」という。

最も印象に残っている試合に挙げたのは、川崎に逆転優勝を許した17年12月2日に行われたJ1最終節の磐田戦。勝てば優勝の好機に引き分けてタイトルを逃し、「勝つとその日はうれしいけど、次の日には切り替わる。負けると引っ張ってしまって、次に勝たないと上書きされない。日付も忘れない17年12月2日に優勝を逃してから国内タイトルを取れておらず、頭に引っかかっている」と悔しさを拭えずにいる。

近年は海外に挑戦する選手の若年化に悩まされ続けた。「時代の流れだし海外にいくのはいい」と理解しつつ、「新卒から育ててチームの中心になった選手を引き抜かれる」と戦力維持に苦慮。今後の強化方針について「サッカーのスタイルを確立し、どんな選手が必要かを明確にする。適材適所で他クラブの選手や外国人を取ってくるスカウト体制を充実させないといけない」と提言した。

後任には11年から強化担当としてのノウハウを伝えてきた吉岡宗重氏(43)が就く。自身の退任を不安視する声は、「ここ数年、自分が考えてきた鹿島のあり方を言葉や文字で伝えてきたつもり。吉岡は能力があって新しいサッカーにも精通している。私の下で11年間働いて準備してきたので心配していない」と一蹴した。

鹿島にすべてをささげてきた生活に区切りをつけ、「全47都道府県にいったけど、試合の思い出しかない。スタジアムしか知らないから観光にいってもいいかな」と穏やかに笑う。ともに数々のタイトルを獲得してきた柳沢敦や小笠原満男、曽ケ端準ら鹿島に残るOBに「鹿島の流儀を身に付けていて、伝統を継承する責任がある。今度は彼らの番だ」とエールを送り、強化部門の第一線から退く今後は強化アドバイザーとして愛するクラブを支えていく。(運動部 奥山次郎)



◆J1鹿島強化の立役者、鈴木FD退任 忘れられない試合とは…(産経新聞)