2011年、復興支援を目的に東北サッカーの普及に尽力してきた「東北人魂」。いつか、子どもたちの中からJリーガーが現れてほしい――発起人である小笠原満男らは、そんな思いを胸に活動を続けてきた。
発足から13年目の今年、当時参加していた少年の1人がついにJリーガーになった。チームメイトになる遠藤康(34歳)の証言をもとに、“再会”までの道のりを秘蔵写真と共に辿る。
再び東北人魂のイベントが石巻で開催されたのは2013年の1月だった。この頃には、すでに団体の規模は大きくなっており、全国の東北出身Jリーガーたちを募って、リーグのオフ期間に被災地をいくつか回るようになっていた。そのうちの一つとして、石巻開催があった。
このイベントには、小笠原満男、今野泰幸、柴崎岳といった新旧日本代表選手を含めた総勢10人のJリーガーが参加していた。そこに、小学6年生になった菅原龍之助の姿があった。聞けば、この時のイベントは色濃く覚えているという。
「本当に知っている選手ばっかりだったので、興奮と、一緒にサッカーできているっていう純粋な楽しさでいっぱいでした。選手たちもところどころですごい技術を見せてくれたりして、刺激だらけでした。いつか僕もこうなりたいなぁって、子どもながらに感じた記憶があります」
一方の遠藤康は、当時の思い出をこう話す。
「確か、今までやったイベントの中で一番小さな会場だったと記憶しています。だからこそ、選手と子どもたちの触れ合う時間がすごく長くて密で、いろんな話をしたんじゃなかったかな。しかしまさか、そこに龍(菅原)がいたなんて!」
サッカーをやめよう…悩んだ時に思い出す言葉
この時、ベガルタ仙台のジュニアユースに入ることが決まっていたという菅原は、子どもたちの代表として、手紙を読んだ。イベントの最後には、お礼のメッセージを寄せ書きした旗を持ち、遠藤、小笠原らと記念写真に収まっている。
その旗にはこう記されていた。
『たくさん勇気をもらったので、プロサッカー選手目指して頑張ります 6年生 龍之助』
菅原は中学2年の頃、すべてが上手くいかず、ベガルタ仙台ジュニアユースでなかなか試合に出られない日々が続いていた。その頃、一度だけサッカーをやめたくなったことがあったという。
「当時、兄にサッカーをやめるべきか相談したんです。そこで“中途半端なままやめるのか”って言われて。そのとき、東北人魂の選手が言っていた『諦めなければプロになれる』って言葉を思い出したんです。諦めなければプロになれるっていうのを、俺が体現してやろう! って気持ちが湧いてきたことを、今でもすごく覚えています。きっとあの頃僕がプロ選手になるなんて誰も思っていなかった。だから絶対にプロになってやるって、そこからはがむしゃらでした」
プロになって、子供の頃一緒にボールを蹴ったことを、東北人魂の選手に早く言いたい。菅原はずっとそう心に思っていたという。
「あの時の東北人魂のイベントで、小笠原選手と同じグループで、当時色々教えてもらったりしたのを覚えていて。小笠原さんが現役中に、僕もプロになりたいなぁって思っていたんです」
しかし、菅原が高校を卒業するタイミングで小笠原は現役を引退。菅原は産業能率大に進学し、ようやくプロへの道が見えてきた矢先に、遠藤が鹿島から仙台に移籍をしてきた。
「もうこれは、お会いしたら絶対言おうって思っていたので、クラブでヤスさんに声をかけることができた時は『やっと言えた!!』ってすごく嬉しかったです」
諦めないで叶えた、菅原の一つの夢だった。そしてそれは「東北人魂」の夢だった。
実は“引退”を考えていた遠藤
一方の遠藤に仙台移籍当時の話を聞くと「本当は、引退しようと思っていたんですよね」と、意外な言葉を口にした。鹿島で選手生活を終えようと考えていた最中に、仙台からオファーが届いたのは、恐らく「運命」だった。
「鹿島にいるときは仙台でサッカーするイメージは自分の中では全くなかったです。でも、このタイミングで仙台に帰るということは、もっと恩返ししなさいよ、って誰かに言われてるのかなって思ったんです。現役選手でいることで、自分にしかできないことがサッカー以外にもまだまだあるのかなと。それで仙台に来たら、こうして龍に声をかけられた。僕が引退していたら、仙台に来てなかったら、そして何より龍が仙台でプロになっていなかったら、この出会いはなかった。だから、本当にこれは仙台に来る運命だったんだなぁって思っていますし、あの時、声をかけてくれたベガルタにはすごく感謝しています」
そして遠藤は続けた。
「東北人魂を立ち上げた時も、その後も、満男さんが『この震災を風化させないために、やり続けることに意味がある』って、いつもいつも言っていたんですね。だから僕の中ではイベント規模の大きい・小さいは全く関係なくて、とにかく東北人魂が活動してるということを守りたい。その気持ちが一番です。そしてそれを続けていたことで、龍とのこういう出会いがあったので……試合のピッチだけじゃなくて、ピッチ外のところでも人と人が繋がると、やっぱりサッカー人生楽しくなるよね(笑)」
遠藤ら東北人魂に関わった選手たちにとって嬉しい使者となった菅原は、プロとしてようやくスタートを切ったばかりだ。
「いつか“ベガルタと言えば菅原”と言われるぐらいになりたい」と話す彼にもまた、すでに東北人魂が宿っていた。
「僕が活躍すれば、たぶん震災のことなどを話す機会も増えると思うので、まずはしっかり試合に出て、FWとして点を取って、チームに貢献できるように頑張りたいです。そうすれば、僕の経験だったり、今までのサッカー人生で学んできたもの、成長させてくれたものを、今度は僕が子どもたちに伝えられる。それが宮城の、東北のサッカーの発展にもつながると思いますし、そこに貢献していけたらと思います。あとは、僕がここまで成長できたってことを、もっともっとピッチ上で、ヤスさんにプレーで感謝を伝えられればいいかなと思っています」
遠藤と並んで子どもたちの前に立つ菅原
2023年1月6日――仙台のフットサル場でコロナ禍以降久しぶりに開催された東北人魂のイベントには、遠藤と菅原、2人の姿があった。初めて選手としてイベントに参加する菅原はどこか緊張気味で、遠藤はいつも通りの慣れた様子で元気有り余る子どもたちに大会の説明をし、自己紹介をした。そして菅原は自分の番になると、いつか子どもの時に聞いた言葉でこう挨拶をした。
「ベガルタ仙台の菅原龍之助です。僕もみんなと同じ、東北、宮城県の出身です」
イベントは大会方式で、優勝したチームは遠藤や菅原らプロ選手とエキシビションマッチができることになっていた。
試合が始まると、遠藤は早速何人もの子どもに囲まれながら華麗なヘディングやリフティングをして観客を魅了した。すると菅原も全速力でゴール前まで走り抜けると、オーバーヘッドキックを繰り出しゴールを決めた。その途端、会場は大歓声に沸き、菅原は一気に子どもたちのスターになった。
「ボールを蹴りながら、僕もこの子たちと同じ立場にいたと思ったら、自分が本当にプロ選手になったんだなと実感しました。だからあの時のような興奮を自分からも受け取ってもらえたらいいなと思って、ちょっと頑張りました」
菅原はそう話すと、照れ臭そうに笑った。
「いつか東北人魂のイベントで触れ合った子どもたちの中からJリーガーが現れて、一緒にこの活動をしてくれる時が来たら最高だな」
遠藤が、東北人魂に関わった選手たち皆が、ずっと望み、口にしてきた言葉だ。遠藤は言う。
「やっぱり、なんでも続けるって大事なんだと思います。だってこういうことが起こるんだから。改めてサッカー選手で良かったって感じています。だからこそ、これからもやり続けなきゃいけないし、やらなきゃいけないな、って思っています」
菅原は子どもたちのリクエストに応えて2度目のオーバーヘッドキックを披露し、またしても会場を興奮の渦に巻き込んだ。ヘロヘロになりながら立ち上がる菅原を見て、遠藤は顔をくしゃくしゃにして笑っていた。
◆「まさか、ここに龍がいたなんて!」鹿島で引退を考えた遠藤康(34歳)が故郷・仙台で“あの石巻の少年”と再会…3.11がつなぐ物語(Number)
★2023年03月の記事まとめ(日刊鹿島アントラーズニュース)