http://www.soccer-king.jp/news/japan/japan_other/20140311/174211.html
2013年に行われた国立競技場でのチャリティーマッチ [写真]=山口剛生
東北人らしく朴訥した口調ながら、発せられる言葉からは思いが溢れ、目には力が宿っていた。
「震災からもうすぐ3年ということで、Jリーグがこういうカードを組んでくれて、少なからず色んな方にメッセージが届くと思う。決して震災は過去のことではないし、まだ大変な思いをしている方々が数多くいるので、早く日常を取り戻せるように願っています」
東日本大震災から丸3年を迎えた3月11日の3日前。鹿島アントラーズは、ホーム開幕戦となったJ1第2節で、ベガルタ仙台と対戦した。被災したクラブ同士が3月に激突するのは、2012年から3年連続。震災を決して忘れないというメッセージが込められ、様々な思いが交差した一戦は、ホームの鹿島が2-0で勝利を収めた。
キャプテンマークを巻いて勝利のために走り回った鹿島の小笠原満男は試合後、身を切る寒風の中で、溢れ出す感情を抑えるかのように言葉を選び、被災地への思いを続けた。
「なかなか思うように復興していかないですし、風評被害という問題もある。震災があったのは3年前ですけど、まだ本当に大変な思いをしている方々が少しでも早く日常を取り戻せるように、もう少し何とかならないかなと」
未曾有の災害から3年を経たが、今なお仮設住宅での暮らしを余儀なくされている被災者がいる一方、東北を訪れるボランティアの人数が震災発生後の一割超にまで減っているという現状がある。岩手県出身である自らも、発起人の一人として2011年5月に設立した東北出身のJリーガー有志による任意団体「東北人魂を持つJ選手の会」を通し、東北への支援活動を続ける小笠原の言葉は、重い実感を持って迫ってくる。
彼自身、思うように進まない復興を歯がゆく感じるのか、「複雑」という言葉を口にする。仙台戦では、福島県楢葉町で被災して避難生活を余儀なくされている被災者を招待していたが、「勝っている試合を見せることができて、喜んでもらって良かったけれど、今から帰ってまた大変な生活があると思うと、ちょっと複雑ですね」と胸の内を明かし、3年という月日についても、「僕らの3年と子供達の3年は違う」と語り、声を絞り出した。
「成長を遂げる3年間で、自分の住んでいた家に帰れない現実がある。なんていう表現がいいのかわからないですけど、少しでも早く日常を取り戻せたりとか、大変な思いが少しでも減るように、何とかそういう日が早く来ることを望んでいます」
今も苦しみ続ける被災者への思いや、復興が進まないもどかしさもあるのであろう。言葉を紡ぐ小笠原の表情は冴えなかった。ただ、彼が3年に渡って支援を継続してきたからこそ、形になってきたものもあるはずだ。
震災後、練習が終わった鹿島のロッカールームには、被災地への支援物資をダンボールに詰め込む小笠原の姿があったという。陰に陽に支援を続けてきたキャプテンの影響やクラブ自体が被災したこと、夏の中断期間には福島のJヴィレッジで毎年キャンプをやっていたこともあってか、鹿島での復興支援は広がっている。仙台戦でも選手側の発案により、募金活動が実施された。ベンチから外れた中田浩二や本山雅志らがコンコースに並び、東北人魂と茨城県震災復興に加え、今冬に降雪災害を受けた山梨県への復旧祈念の募金を呼びかけた。
小笠原はかつて、「自分も小学校時代に釜本(邦茂)さんのサッカー教室に参加してふれあったことは今でも自分の心のなかにある。『ああいう選手になりたい』と思ってここまで頑張ってきたということもあるので、僕達がそういう存在でありたい」と明かしていた。
そして、仙台戦後には招待された被災地の子供達は口々に、「カッコ良かった」、「将来は小笠原選手のようなサッカー選手になりたい」と話す姿があった。
実のところ、「僕らの3年と子供達の3年は違う」からこそ、多感な時期だからこそ、ヒーローは必要なのではないか。本人は「地味な選手達ですけども」と語ったが、子供達の向ける羨望や憧れで輝く眼差しは、東北が生んだスター選手の献身があってこそだろう。自身がかつて抱いたように、被災地の子供達も小笠原を通じて夢を描いているはずだ。
もちろん、復興支援だけではない。鹿島のキャプテンとしての責務もしっかりと果たしている。
昨年10月19日のJ1第29節の浦和レッズ戦で、退場者を出しながらチームをけん引した小笠原に対して、トニーニョ・セレーゾ監督が絶賛したことがあった。
「“サッカーはこうするんだ”というものを見せてくれた。技術でも、体力的な部分でも、戦術的な部分でも、サッカーを深く理解している者であれば、すばらしい高レベルな無料レッスンを受けることができた。以前にも彼にいろんなことを学ばさせてもらったが、今回もまた、新たなボランチ像というか、選手としての能力の高さを見受けることができた」
かつて、ブラジル代表の一員として、ジーコ氏らとともに黄金のカルテットを構成した指揮官からの最大級の賛辞である。小笠原は4月で35歳を迎える今もなお、支援活動を続けながら日本のトップレベルを走り続けている。
雪は豊年の瑞(ゆきはほうねんのしるし)という言葉がある。
雪がたくさん降ることは、その年が豊作になる前兆だということを表現した故事だが、東北人はおそらく本能として知っているのだろう。一寸先も見えない吹雪に襲われようとも、必ず雪解けを迎えることを。どんな厳冬に見舞われようとも、耐え抜いた先には輝かしい春が訪れることを。
日本プロサッカー選手会の主催で昨年末に行われたチャリティーサッカーの際、「まだまだスタートし始めたところ」と語ったように、復興への長い道のりはまだまだ続く。ただ、必ず戻ってくる日常が再び訪れるまで、小笠原の支援活動は続くはずである。
「育った場所がなくなってしまったので、自分はサッカーだけをやってればいいとは思わないし、お世話になった東北のために少しでも恩返しをしたい」
小笠原はこれからも走る。鹿島のキャプテンとして、復興支援を繋ぎ止める存在として、被災地に夢を届ける存在として。
小笠原満男は、走り続ける。東北人の誇りと魂とともに。
文=小谷紘友