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2015年3月26日木曜日

◆W杯で得た喜び、クロアチア戦の悔恨 柳沢敦が語るキャリアと未来<前編>(sportiva)


http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/soccer/jleague/2015/columndtl/201503210002-spnavi

19年間のプロ生活を駆け抜け引退



 2014シーズン限りで19年間のプロ生活にピリオドを打った名ストライカーがいる。鹿島アントラーズの黄金時代を築き、京都サンガF.C.、ベガルタ仙台の成長の礎を作り、02年日韓、06年ドイツと2度のワールドカップ(W杯)に出場した柳沢敦である。

 富山第一高校時代から「超高校級」と言われた若きFWは1996年に鹿島入り。2年目の97年から徐々にレギュラーに定着し、98年元日の天皇杯決勝では増田忠俊、マジーニョと彼のゴールで3−0と横浜フリューゲルスを撃破。初めて自身が原動力となってタイトルを獲ることに成功する。この活躍を買われ、直後には岡田武史監督(現FC今治代表)率いる98年フランスW杯本大会に向けた代表候補に抜てき。98年2月のオーストラリア戦(3−0/アデレード)で国際Aマッチデビューを果たし、一気にスターダムにのし上がる。

 残念ながら98年フランスW杯の出場はかなわなかったが、その後のフィリップ・トルシエ監督率いる日本代表では完全なる主力と位置づけられ、00年シドニー五輪、02年日韓W杯を経験。ロシア戦(1−0/横浜)で稲本潤一(現コンサドーレ札幌)の決勝点をアシストするプレーは柳沢の真骨頂である「オフ・ザ・ボールの動き」の鋭さが如実に出ていた。

 02年までに鹿島で9冠獲得に貢献した彼は03年夏、イタリア・セリエAへの挑戦を決断。サンプドリアで1年、メッシーナで2年と計3シーズンを過ごす。そして06年初めに古巣・鹿島へ復帰し、06年ドイツW杯に挑んだが、勝負の懸かったクロアチア戦(0−0/ニュルンベルク)で決定機を外し、それが代表ラストゲームとなってしまう。

 その後はクラブでの復活を目指したが、07年の鹿島の逆転優勝時には出場機会が激減。本人も去就を考えたという。それでも翌年に加入した京都で華々しい復活を果たす(リーグ戦14ゴール)。さらに11年に赴いた仙台では移籍直後に東日本大震災を経験することになったが、彼は前向きにプレーし続けることを決して忘れなかった。

 まさに華麗かつ怒涛のキャリアを歩んできた男に今、現役生活を振り返ってもらった。

鹿島時代あってのその先



――19年間は早かったけれど、本当にいろんなことがありました。その中の節目だった出来事をいくつか挙げてもらえますか?

 まず一番は、(鹿島に)加入直後のなかなか出場機会を得られなかった時期ですね。そこで良い下積みができた。日本代表選手が何人もいて、ブラジル代表もいて、そこでの下積みですよ。僕にとっては本当に貴重な時期でしたね。それを経て、97年末〜98年正月の天皇杯くらいから徐々に先発で使ってもらえるようになった。プロとしての基礎をしっかり重ねられたことが、その先のいろんな経験を積めた要因だと思うんです。

――90年代後半は日本サッカー界全体に勢いがありましたね。ジーコやジョルジーニョ、レオナルド、ストイコビッチといったスター選手が続々と来日し、日本代表も世界の扉をこじ開けようとしていました。

 本当にそうですよね。2つ目はイタリアでの経験です。結果としては決して満足いくものではないんですけれど、今、選手生活を終えて考えると、人間として非常に良い経験だったなと痛感します。

――その後、Jリーグに復帰しましたが、鹿島が劇的な逆転優勝を収めた07年には出番が減り、本当に苦しみましたね。

 出られない悔しさ、そして自分自身の体の変化というか、思うようなプレーができなくなった自分に対していら立ちがありました。移籍と言うより、辞めることも少しは考えました。最初に引退を考えた時期でもあります。僕はもともと得点で評価される選手じゃなかったし、動き出しやキレといった自分のストロングポイントが薄れてきたのは事実でした。そこで鹿島を離れる決断をしたのが、1つの重要なポイントでした。

――京都へ行くことを決断しました。

 京都の久さん(加藤久=現ジュビロ磐田GM)に声をかけてもらって、「もう一度、サッカー人生に花咲かせろよ」って言葉がすごく心に響きました。そういう強い信頼関係のもとでサッカーができた京都の1年目(08年)は2桁ゴール(14得点)を取って、久々にベストイレブンにも入れてもらいました。それは本当に大きな出来事だったかなと。その歳になってまた新しいサッカーを感じられたし、楽しいサッカーができた。非常に良いシーズンだったのは記憶に残ってます。

――30代になってまた違う自分になれました?

 基本、メンタルの部分だけですが。自分から仕掛けた新しいチャレンジが良い方向に行ったんだと思います。

 京都へ行ってからは本当に「やるんだ」という気持ちでした。鹿島のような常勝チームと、まずJ1に残留しながらクラブとして力をつけていく状況にいる京都のようなチームは、やっぱり求めるものが違う。常勝クラブに長年いて、そこから来た者として、伝えられるものがあるんじゃないかっていう思いは自分の中にありました。それを表現することでまた1つ、ベテランの存在感を発揮できたのかなと感じましたね。

仙台で得た特別な想い




――その京都が在籍3年目の10年にJ2降格となり、柳沢選手自身も契約満了を迎え、次なるチャレンジの場に仙台を選びました。

 その時は誠さん(手倉森=現U−22日本代表監督)に拾ってもらいました。誠さんとは共通の知り合いがいて何度か面識がありました。代表戦の後に食事をさせてもらったり。そういう縁というか、巡り合わせというか、助けてくれる人がありがたいことに僕にはたくさんいた。そのおかげで現役を続行できたのはあります。

――J1定着への確固たる基盤がほしかった仙台にとっては、柳沢選手のような精神的支柱が必要だと監督は考えたんでしょうね。でも仙台へ行った途端に震災が起きた。選手たちもプレーどころではなくなり、避難所での手伝いに駆り出される日々を過ごしました。

 普通にこうやってサッカーができる幸せを改めて感じますし、多くの被災者の人たちがそこで負った傷というのは計り知れないものがある。プロサッカーに関わる以上、自分はそういう人たちに元気になってもらえるような仕事を常にしなければいけないと思うようになりましたね。

――仙台ではけがもあってスタメンでピッチに立てる機会が少なかったけれど、震災の経験も自分を強く支えていたのでは?

 ベンチにいながらチームを支えることと、震災は特別にリンクはしていなかったです。「立場立場でできることを100%でやる」ということは常に言われてきたし、それをやるのは当たり前。ただ、自分が多くの経験をしてきた中で、震災は非常に大きな出来事でしたし、あの時の気持ちを忘れないことはすごく大事だという思いは常にあります。

――選手時代を通して、クラブレベルで一番うれしかったことを1つだけ挙げるとすれば?

 さっきも言いましたけれど、プロになって(試合に)出始めて最初に優勝した98年正月の天皇杯です。事実上、僕の初タイトル。自分が原動力となった優勝。その充実感はいまだに残っている感じがします。

忘れられない代表での経験



――柳沢選手には代表というもう1つの大きな柱がありました。97年ワールドユース(マレーシア)、00年シドニー五輪と年代別世界大会を経て、02年日韓、06年ドイツと2度のW杯に出場しましたね。

 やっぱり02年は大きな出来事。すごい経験だと思います。W杯といっても、ただのW杯じゃなくて自国開催ですからね。これから日本がW杯出場という歴史を積み重ねていくとしても、自国開催の大会に出場した日本人というのはそうそう出てこないと思うので。そういう意味では、本当に良い時期にW杯を経験できたと思います。

――ロシア戦のアシストは永遠に残ります。

 できれば点を取りたかったですけどね(笑)。

――「自分が点を取らなくても周りに取らせることが大事」だと口癖のように言っていた柳沢選手の1つの象徴的なシーンだったのでは?

 結果として勝利につながったり、勝ち点につながっていれば、そういう評価をしてもらえる場合もあるんですけれど、FWというのは難しいもの。チームが勝たなければそういうプレーは評価されないポジションですよね。

――柳沢選手は「FWは点を取るのが仕事じゃないか」とメディアに詰め寄られることも多かったですよね。自分の中では考えや信念が揺れ動いたこともあったのでは?

 グラウンドの中では揺れ動いてはいなかったですよ。ただ、「何て言えば、納得してもらえるのかな」というのは、よく考えました。だけど、結局は理解してもらえないのかなと……。自分の持論は、良い時は評価してもらえるんですけれど、そうじゃない時に納得させるのが難しかった(苦笑)。それでも僕の中では、常に変わらず自分の考えを持ってプレーしていました。

――柳沢選手はメディアから注目され続けてきた選手。周囲との戦いも大変だったのでは?

 自分自身がしっかりとした考えを持っていればそれを貫き通すべきだし、考えが変われば変わったでいい話。そこに強い意志があるかないかが非常に重要なのかなと。周囲によって考えを変えさせられていたら、強い気持ちをサッカーに持って臨めないし、不安や違和感を覚えながらやっても良い結果は出ない。自分が突き進むためにも、しっかりした確信が心の中にあることが重要なのかなと思います。

――ドイツW杯のクロアチア戦で加地(亮=現ファジアーノ岡山)が折り返したクロスを決められずに決定機を逃した件でも、「急にボールが来たから」というコメントが「QBK」とやゆされる事態になりました。柳沢選手自身も驚いたのでは?

 あのプレーに対しての一番の反省は、クロスに対してアウトサイドで足を出してしまったこと。あの時の監督はジーコでしたけれど、鹿島に入ってから常に言われてきたのが「インサイドで確実にやれ」ということだった。それを積み重ねてきたにも関わらず、ああいう大きな舞台で、しかもジーコが監督をしているところで、ああいうプレーをしてしまった。そのことは本当に悔しいというか、残念。積み重ねてきたものがあるだけに悔しさは表面上だけじゃない。なおさら辛いシーンではありますね。

――ドイツW杯は自分自身、チームも含めて悔しさしか残らないのでは?

 そうですね。チームの雰囲気がどうこうとは言われましたけれど、みんなが違う方向を向いてたわけでは決してなかったと思いますし、目標にしてるところも違ったとは思わない。ただ、悔しかったですね。

<後編に続く>