ページ

2017年9月24日日曜日

◆ジーコが鹿島に残したもの。クラブ創成期の忘れられない光景とは【石井正忠×岩政大樹#5】(サッカーダイジェスト)


クラブW杯での「レフェリーに勇気がなかった」発言の真意。



 鹿島OB対談の第5回は、クラブワールドカップの決勝や鹿島の歴史に話が及んだ。Jリーグ発足当時から鹿島に所属していた石井氏の目に、神様ジーコはどう映ったのか。また、ジーコスピリットがどうやって植え付けられたのかが明かされる。

岩政大樹 クラブワールドカップのレアル・マドリー戦でセルヒオ・ラモスが退場にならなかった件で、会見の時に「レフェリーに勇気がなかった」と発言していますね。
 
石井正忠 あれは素直にレフェリーのジャッジに対して言っただけです。正直、戦っていて差は感じていたので、ひとり退場になろうが、そんなに変わらなかったと思っています。
 
岩政 言うか言うまいか考えたと思いますが、なぜ言う決断をしたんですか?
 
石井 選手たちを称える意味も含めて、あそこでは言うべきだと思いました。
 
岩政 確かに、あれは監督の立場でしか言えないことですよね。モウリーニョもよくやりますけど、感情的にレフェリーを批判しているのではなく、選手たちのことを考えて言っているんだろうなと。
 
石井 記者会見で発する言葉はいろんな人が聞いているし、当然選手の耳にも入る。その言葉は選ばなければいけません。
 
岩政 サポーターや選手、チームスタッフの顔も思い浮かべながらしゃべっているんですか?
 
石井 選手のことは、あまり思い浮かべません。批判は選手に直接言うべきなので、会見で個人への質問があった時に自分の考えを答えるくらいです。質問をごまかしたり、ぼかしたりしないで正直に自分の気持ちを言っていました。
 
岩政 次に監督をされるのが楽しみですが、優勝を狙うチームでもう一度やりたいのか、それともチャレンジャー的な立場のクラブでやりたいのか。希望はありますか?
 
石井 クラブの考え方にもよると思います。どちらかといえば、鹿島のように地域の人たちと密接に関って愛されるクラブで仕事がしたいですね。それが自分に合っているのかなと思っています。
 
岩政 よく分かります。チームの地位よりも地域とつながっているチームですよね。

クラブハウスを囲む長蛇の列。「あの様子を見たら、特別な想いが湧きますよ」。



石井 そうです。私は決してモウリーニョのようにはなれませんから(笑)。

岩政 勝ちに行く時の町の雰囲気ってありますよね。あの雰囲気を作るためには、クラブだけが動いても難しい。町全体を巻き込んでいかないと。あの感覚を味わえるのは鹿島の財産だと思います。

石井 そういう点で岡山はどうでした?

岩政 岡山は比較的あるほうでしたし、J2のなかでは相当あります。鹿島と同じでサッカーしかないし、鹿島を本当にリスペクトしているんです。だから私が呼ばれた部分もあったと思います。

石井 なるほど。

岩政 ただ、鹿島は最初の時点でジーコが勝負に対する厳しさを伝えましたが、岡山はその部分がまだまだです。すごく温かいがゆえに、甘んじてしまう空気があるんです。
 私がやりたかったのは、とにかくその空気を変えて、みんなが勝負に対して厳しい目を向ける体制を作ることでした。もっと常日頃から勝負にシビアな姿勢を持っていないと勝負所で勝てない。鹿島はクラブハウスに入った時に「つまらないことはできないな」という空気がありますが、あれは日常のちょっとしたことの積み重ねが作りだしていると思うんです。そこにどう持っていくかばかりを考えていました。

石井 鹿島はジーコというシンボルがいて、周りの選手もクラブも町も、彼についていく体制ができ上がっていました。それがやっぱり大きかった。

岩政 石井さんはそこから見ていますもんね。鹿島歴は、のべ何年になります?

石井 91年に鹿島に来たので、のべ26年ですね。

岩政 26年か。やっぱり、すごいな。

石井 最初は1万5000人の小さなスタジアムが埋まらなかったけど、3試合目くらいになると満員になって、そこからは夜中にチケットを買うために並ぶひともいました。

岩政 そうですよね。

石井 私は実際に夜中に車で見に行ったんです。それこそクラブハウスの周りをぐるりと一周するくらい並んでいて、感動しました。それを見た時に、改めて「このひとたちのために頑張ろう」と思いました。あの様子を見たら、特別な想いが湧きますよ。

ジーコは「それこそ小学生に言うように」基本を徹底させた。



岩政 それを他のクラブで再現するのは大きな夢ですね。

石井 そういうこともやってみたいですね。あの頃は、セントラルホテルに泊まっているジーコの送り迎えもしましたよ。

岩政 ジーコさんは、鹿島に来た当初に何をしたんですか?

石井 本当にサッカーの基本のこと。それこそ小学生に言うように、「相手を見て、ボールを見て、相手をもう一度見ろ」とか「アウトサイドでミスするなら確実に身体の向きを作ってインサイドで蹴れ」とか「やみくもにシュートを打つな、必ずキーパーを見て打て」とか。そんなことばかりでした。

岩政 それをひたすら繰り返す?

石井 徹底しました。例えば、サイドチェンジを入れてクロスからシュートの練習をしていても、サイドチェンジをミスしたらやり直し。緊張感がありましたね。

岩政 ワンプレーへのこだわりが、いろんなことにつながっていったんですね。

石井 フットバレーをやる時も、負けると本気で悔しがるし、勝てばファンと一緒に写真を撮って盛り上がっていました。この人は勝負に対する執着心がすごいなと思いましたね。

岩政 それに対して選手はどう反応していたんですか? 最初は距離感が難しかったのでは?

石井 私自身は「このチームでレギュラーになりたい」という想いが強かったので必死でした。他の選手も同じだったと思います。あの時は、住金からプロになった選手と、私のように違うチームから移籍した選手と、本田技研から来た選手がいました。立ち上げの時はクロアチア代表やインテルと練習試合をして、徹底的に1時間半くらい守備の戦術練習だけをやっていましたね。

岩政 そういう意味では、去年のチャンピオンシップ前に守備を徹底したのは、ある意味で鹿島の原点に戻ったという感じですね。

石井 本当にそう思います。

<<第6回『”良くも悪くも”変わらない鹿島。正念場はフロントの”2トップ”が勇退した時』は24日13時公開予定>>

【プロフィール】
石井正忠(いしい・まさただ)/1967年2月1日、千葉県出身。91年に住友金属(現・鹿島)に移籍加入し、97年まで在籍。98年に福岡に移籍し、そのまま現役を引退した。99年からは指導者として鹿島に復帰。以降はコーチ、監督とステップアップし、17年5月末に解任という形でクラブを去った。鹿島在籍期間は、現役時代を含めてのべ26年。まさに常勝軍団を知り尽くした男だ。

岩政大樹(いわまさ・だいき)/1982年1月30日、山口県出身。J1通算290試合・35得点。J2通算82試合・10得点。日本代表8試合・0得点/鹿島で不動のCBとして活躍し、2007年からJ1リーグ3連覇を達成。日本代表にも選出され、2010年の南アフリカW杯メンバーに選出された。2014年にはタイのBECテロ・サーサナに新天地を求め、翌2015年にはJ2岡山入り。岡山では2016年のプレーオフ決勝に導いた。今季から在籍する東京ユナイテッドFCでは、選手兼コーチを務める。


ジーコが鹿島に残したもの。クラブ創成期の忘れられない光景とは【石井正忠×岩政大樹#5】