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2018年3月12日月曜日

◆スペインで苦境に立たされる柴崎岳…87分から出場のレバンテ戦は「影響なかった」との評価(GOAL)




10日のリーガエスパニョーラ第29節、ヘタフェは本拠地コリセウム・アルフォンソ・ペレスでのレバンテ戦を0−1で落とした。MF柴崎岳は87分から途中出場と、厳しい状況にあることが浮き彫りになっている。

柴崎が苦境に立たされている。ヘタフェのホセ・ボルダラス監督は日本人MFを3試合連続でベンチスタートとしたが、0−1とビハインドを追う状況での選手交代において、19歳の若手MFメルベイユ・ヌドキート、ここ9試合で出場機会がなかったMFアルバロ・ヒメネスとほかのMFの起用を優先し、柴崎を終了間際の87分からピッチに立たせている。柴崎がチーム内の序列で、下に位置していることをうかがわせた。

ヘタフェで背番号10を背負う柴崎だが、縦に速い攻撃を強みとするヘタフェの中で、ここまでゲームメイクの能力を発揮できていない。この試合ではその能力を生かせるボランチとして起用されたが、やはり出場時間が少なく、ボールを使ったプレーはほぼ見られなかった。スペイン『アス』の電子版は、このレバンテ戦におけるヘタフェ各選手の個別評価で、日本人MFについて次のように記している。

「今回はボランチとしてプレー。自チームが中盤を省略している時間帯だった。プレーに影響を及ぼさず」

厳しい状況に立たされる柴崎だが、ここから巻き返すことはできるだろうか。なおヘタフェは次節、レアル・ソシエダとのアウェー戦に臨む。


スペインで苦境に立たされる柴崎岳…87分から出場のレバンテ戦は「影響なかった」との評価


◆被災地にグラウンドをつくった 小笠原満男が、子どもたちに語ったこと(Sporitiva)





 2018年1月6日、午前8時――。朝の陽射しにキラキラと輝く、まだ真新しい人工芝のピッチ中央に、鹿島アントラーズの小笠原満男の姿はあった。目の前に広がる、完成したばかりのおよそ5000坪のグラウンドをゆっくり見渡すと、彼はつぶやいた。

「すごいよね……。すごいよ、本当に」



 緑色したピッチの上では、すでに子どもたちが元気に走り回ってボールを蹴っていた。その様子を、小笠原は万感の思いで見つめていた。

 被災地に子どもたちが自由に走り回れるグラウンドを作ってあげられないだろうか――。

 東日本大震災後、東北出身のJリーガーたちを募り、『東北人魂』という団体を結成した小笠原は、サッカーを通して被災地の子どもたちの心に寄り添う活動を続けてきた。早7年が経ったが、その間、幾度となく目の当たりにしてきた被災地の現実。活動するイベントが開催できる場所は、もっぱら体育館が多く、そのたびに「もっと外で思い切り走り回れる場所があれば……」という思いが強くなっていった。

 そこで、小笠原は行動を起こすと、グラウンドを作るためのプロジェクトを結成した。自らの出身校があり、学生時代の友人たちの力も借りることができる、被災地・岩手県大船渡市にグラウンドを作ることを決意したのだ。

 それから小笠原は、必要とあれば時間を見つけては大船渡に出向き、多くの人たちにグラウンドの必要性を説いていった。

 現地でサッカー関係者のパーティーがあれば駆けつけ、苦手な人前でも壇上に立ち、声高にグラウンドの必要性を訴えた。時には、大船渡市長へ直談判にも行った。現役サッカー選手である小笠原がフロントマンに立つことで説得力が増すことは、本人が一番理解している。だから、時間が許すかぎり、どんなことでも積極的に行動した。

 周囲の理解と協力を得ていくのと同時に、イチから土地を探していかなければならなかった当プロジェクトは、決して平坦な道のりではなかった。しかし、誰よりも最後まであきらめずに動き続けたのは、小笠原だった。

 グラウンドを作ることができるのなら……その一心だった。

 そしてついに、多くの寄付金や援助、さらには大船渡市の協力のもと、2017年12月26日、大船渡市に全面人工芝の多目的グラウンドがオープンしたのである。

 小笠原が大船渡に人工芝のグラウンドを作ることにこだわったのには、実は理由があった。まずは、大船渡が被災地であるということ。そして、東北地方でも海沿いで比較的暖かく、積雪が少ないということだった。

 被災地に人を呼べるグラウンドができれば、大会などを催(もよお)すことで人の出入りが多くなり、街が活性化する。そこで積雪の少ない大船渡に、天候に左右されにくい人工芝のグラウンドを作ることで、イベント等も滞りなく開催できるのではないか、と考えたからだ。そして、試合やイベントで訪れる人たちに被災地の現状を少しでも目にしてもらうことで、風化を食い止めるとともに、防災の注意喚起もできる――。なかでも、防災意識を促すことに関しては、小笠原はことさら熱心だった。

 冒頭のグラウンドでは、完成を記念して初めてのイベントが行なわれた。東北地方の小学生チームを主体としたサッカー大会を開き、そこには鹿島アントラーズのスクール選抜チームも招待していた。

 前日、小笠原は、そのアントラーズのスクール選抜チームの選手たちに被災地である大船渡に来ることの意味を知ってもらうため、ちょっとした講演を行なった。

 プロジェクターを用いて津波の映像を見せると、さすがに子どもたちも息を飲み、真剣な眼差しを向ける。しばらくして映像を止めた小笠原は、自らの言葉で震災時の状況を説明すると、子どもたちにひとつの質問を投げかけた。

「じゃあ、津波が来ましたって言われたら、どうしたらいい?」

 子どもたちは誰も手を挙げないどころか、下を見てうつむいていた。見かねた小笠原が続けて言葉をかける。

「そんなんじゃ、試合中に自分がボールをほしいときにも呼べないよ?」

 それを聞いた途端、子どもたちの目に輝きが戻り、一斉に手が上がりはじめる。それはまるで、魔法の言葉のようだった。



 小笠原はたとえ同じ答えであったとしても、何人にも回答させると、そのたびに子どもたちを褒めた。そして、次の質問を続けた。

「そうだね、高いところに走っていくんだよね。うん、みんな正しいよ。じゃあ次は、そこまでどうやって走っていく?」

 今度は手こそ上がるものの、遠慮がちに小さな声で答えている子どもたちに、小笠原はまたハッパをかけた。

「ここでちゃんと大きい声を出せなければ、明日の試合中も(声は)出せないぞ!」

 また魔法の言葉である。ハッとした子どもたちは、次々にハキハキとした大きな声で、質問に答えていく。

「そう、後ろを振り返らずに思いっきり走る。そのときは、今みたいな大きい声で、周りの人にも教えてあげるといいね」

 なかなかうまい言葉が出てこない子どもには、「間違えることは恥ずかしいことじゃないぞ。プレーでも、ミスを恐れるよりチャレンジしなさいってコーチに言われてるでしょう」と、何かにつけてサッカーと関連させながら、子どもたちにわかりやすく防災意識を植えつけていった。

 実は、小笠原は東北人魂の活動のほかに、オフの時期は依頼があれば全国各地に講演に出向き、防災意識の大切さを伝えている。こちらが把握しているスケジュールだけでも、毎年、年末年始は気が遠くなるような移動を繰り返している。しかし本人は、「移動中は寝てればいいから」と意に介すことはない。

 現役のプロサッカー選手である今だからこそ、自分にできる最大限の力で、いつ起こるかわからない災害への意識を広められたら、と考えているのだろう。

 だから今回、大船渡に新設されたグラウンドの全景写真を最初に見たときも、小笠原が真っ先に口にしたのは、津波が来た際の避難経路についてだった。

「この階段を上った先に小学校があるんだね。この高さなら大丈夫だね」

 意識の高さに、頭が下がる思いだった。



 しかしながら、先述したような映像を見せながらの講演を大小構わず、小笠原はこの7年間続けてきていたかと思うと、正直、尊敬を通り越して唖然(あぜん)としてしまう。この人のなかでは、震災はまだ何ひとつ終わっていないのだ――。今回それを目の当たりにし、取材しながらわかっていたようで、何もわかっていなかった自分に落胆した。

 ただ、それだけの意識や想いと情熱がなければ、おそらく、東北でもかなり大きい規模となるこのグラウンド施設の建設は実現できなかっただろう。出来上がったグラウンドを見ながら、プロジェクトを支えた地元のスタッフたちは、本当に人工芝のグラウンドが「できちゃったねぇ」と笑い、口を揃えてこう言った。

「最後まで一番あきらめなかったのは満男だね。あいつじゃなきゃできなかった」

 アントラーズのスクールの子どもたちに対して、ひと通り震災についての話を終えると、小笠原は「アントラーズはどういうチームだ?」と聞いた。

 するともう子どもたちは、下を向くこともなければ、消極的な発言をすることもなく、大きな声で言った。

「勝つチーム!」

 それを受けて、小笠原は最後にこう語りかけた。

「明日、みんなが試合をするグラウンドは、いろんな人たちのいろんな想いが詰まって、やっとできたグラウンドです。相手チームには、お父さんやお母さんがいない子もいるかもしれない。でも、みんな真剣にサッカーをやっている子ばかりです。だから、みんなもサッカーができることに感謝して、真剣に試合をしてほしい。いいか、やるからには全力で勝ちにいけ!」

 それは、小笠原の歩んできたキャリアであり、震災から今日までの強い想いが凝縮されたような言葉だった。

 東日本大震災から今日で丸7年を迎えた。この大船渡のグラウンドに関して言えば、マイナスにされたものが、ようやくゼロを超えて「1」になったばかりだ。震災の爪痕は、今では東北地方だけではないが、今一度これを機に、改めて被災地に心を寄せつつ、自らの防災への知識を再確認していきたい。

 そしてこれからも、東北サッカー発展のために、小笠原の、東北人魂の活動は続いていく。


被災地にグラウンドをつくった小笠原満男が、子どもたちに語ったこと

◆2011年 東日本大震災とJリーグ<前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」(Sportsnavi)




2011年3月11日14時46分

2011年3月11日14時46分。ベガルタ仙台の監督だった手倉森誠はホーム開幕戦に向けて、クラブハウスで対戦相手のスカウティングに没頭していた

 その日も、いつもと変わらぬ金曜日となるはずだった。


 鹿島アントラーズの小笠原満男は、翌日の清水エスパルスとのアウェー戦に向けて、チームバスで移動中だった。Jリーグチェアマンの大東和美は、東京・御茶ノ水にあるJFAハウスの9階で執務中。ベガルタ仙台の監督、手倉森誠はホーム開幕戦に向けて、クラブハウスで対戦相手のスカウティングに没頭していた。2011年シーズンのJリーグは、1週間前の3月5日に開幕したばかり。選手、スタッフ、そしてJリーグ関係者。さまざまな立場の人々が、翌日の試合に向けて準備をしていた14時46分、東日本が揺れた──。


「最初に揺れを感じたとき『どうせすぐ止むだろう』と思っていたんです。それが尋常な揺れでないと気付いたときには、壁は割れるし天井は落ちてくるしで大変でしたよ。あの時、スタッフだけで映像を見ていたのですが、選手を集めておかなくて正解でした。みんな一緒だったら、2階の床が抜け落ちていたかもしれない」(手倉森)


「その時は寝ていたので、揺れそのものは感じなかったのですが、バスが高速道路の路肩で停まったので『これはおかしい』と思いました。バスにテレビがあったので、大地震が起こったことがすぐに分かりました。津波の映像もそこで見ました。結局、そのまま鹿嶋まで戻ることになったのですが、到着したのは午前0時を回っていましたね」(小笠原)


「建物が揺れている間、『これはただ事ではない』と直感しました。揺れが収まってから各クラブ、特に東日本のクラブに連絡するようにスタッフに命じました。選手や関係者の安否確認、それからスタジアムの被害状況ですね。その日の16時半くらいには、翌日のJリーグの全試合中止を決定して、全クラブに伝えました」(大東)


「Jリーグ25周年」を、当事者たちの証言に基づきながら振り返る当連載。第14回の今回は、2011年(平成23年)をピックアップする。11年といえば言うまでもなく、東日本大震災があった年だ。3月11日14時46分、宮城県の三陸海岸沖の地下を震源として発生した最大震度7の大地震は、岩手、宮城、福島の東北3県を中心に未曾有の津波被害をもたらし、2万人近い死者・行方不明者を出した。またこの地震と津波により、福島第一原子力発電所でメルトダウンをはじめとする深刻な事故が発生。近隣住民は、長期にわたる避難生活を強いられることとなった。

被災地での手倉森と被災地を思う小笠原

仙台の選手たちは仙台に残って練習の合間に被災地支援を続けた。写真は宮城県石巻市の避難所でバケツリレーを手伝う柳沢敦

 1993年のJリーグ開幕から今年で四半世紀。その間、わが国はたびたび深刻な自然災害に見舞われてきた。震度7以上の地震に限っても、95年の阪神淡路大震災、04年の新潟県中越地震、11年の東日本大震災、そして16年の熊本地震と4回も発生している。そのたびにJリーグは、チャリティーマッチをはじめとする被災地支援活動をする一方で、さまざまな決断を求められてきた。その中でも、とりわけ被害が甚大かつ広範だった11年の大震災は、Jリーグの存在価値が試されるくらいの危機であった。本稿では、被災地出身の選手(小笠原)、被災地クラブの監督(手倉森)、そしてJリーグのトップ(大東)、それぞれの証言からこの年を振り返ることにしたい。


「震災から10日くらいは、僕自身も被災者でしたね。給水所で地元の人たちと一緒に並びましたよ。その時に言われたのは『ベガルタは仙台に居てくれよ』と。どういう意味かというと、ちょうどキャンプ中だった楽天イーグルスが、しばらく戻らないという決断をしたんですよね。それもあってチームが再始動してからは、仙台に残って練習の合間に被災地支援を続けました。サッカー教室をやったり、泥かきをしたり。石巻や南三陸にも慰問で行きました。まだ津波の爪痕が生々しいころで、選手も僕もショックを受けました。『一緒に頑張りましょう!』と励ますつもりが、逆に被災地の方々に励まされましたね」


 仙台の手倉森が、まだ被災者同様の日々を送っていたころ、東北への想いを募らせていたのが、岩手県盛岡市出身の小笠原である。「自分に何かできることがないか」と考えると、居ても立ってもいられなかった。すると震災から4日目の15日、クラブは活動の無期限停止を発表する。鹿島を含む茨城県もまた、鉄道が寸断されたり断水が続いたりと被害は深刻であったが、それ以上に懸念されたのが隣県で起こった原発事故の影響。チームはいったん解散し、オズワルド・オリヴェイラ監督やブラジル選手も離日した。小笠原はすぐさま、強化部長の鈴木満に「被災地に行かせてほしい」と直訴する。


「ちょうどそのころ、新潟や秋田を経由すれば車で被災地に行けるという話を聞いたんです。それで満さんに自分の気持ちを伝えたら、最初は猛反対されましたね。次に地震が来たら、また津波が来たらどうするんだと。それでも最後は理解していただいて、妻の実家がある陸前高田へ家族全員で向かいました。津波の被害はギリギリ免れたので、しばらく妻の実家に滞在しながら、親戚や近所の知り合いに物資を配っていました。物資がなくなったら、盛岡まで車で買い出しに行って、ということを1週間くらい続けていましたね」

チャリティーマッチ開催へのそれぞれの思い

当初、小笠原(右から2番目)はJリーグからのチャリティーマッチ出場の依頼を断っていた(写真は試合前日のもの)

 この間、Jリーグの動きは迅速であった。15日に臨時実行委員会を開催(仙台、モンテディオ山形、水戸ホーリーホックは参加できず)。17日、Jリーグは日本代表とJリーグ選抜による『東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!』開催を発表する。プロ野球界が開幕日をめぐってセ・パ両リーグの足並みがそろわず、大相撲はおりからの八百長問題で自粛を余儀なくされる中、サッカー界が先陣を切ってチャリティーマッチ開催を決断した。決断の背景について、当時チェアマンだった大東はこう回想する。


「確かに、『こんな時にサッカーをやっている場合ではないのでは?』という意見があったようにも思います。けれども、ここはひとつサッカーで日本を元気づけようという発想が、(Jリーグの内部で)自然と起こったと記憶しています。リーグ戦は中断していますから、スタジアムを確保するのは難しくなかった。ただし電力確保のこともあり、関西での開催が決まりました。JFA(日本サッカー協会)の小倉(純二)会長も、すぐに快諾してくれましたね」


 おりしも25日と29日、日本代表は国内での親善試合を予定していた。チャリティーマッチは、長居スタジアムで29日に開催することが決定。Jリーグ選抜のメンバーは22日に発表された。当然、「被災地を代表するJリーガー」として、小笠原のもとにも出場オファーが届く。しかし彼は当初、このJリーグからの依頼を断っていた。


「理由ですか? まず目の前の人助けを優先したかったし、今はサッカーができる状況でないと思ったから。でも、だんだん物資を配ることに限界を感じるようになって……。そんな時に、避難所で『サッカー頑張ってね』とか、『またプレーしているところが見たい』とか声をかけられるようになったんですね。もしも自分がサッカーをすることで、それを見た人が喜んでくれたり、頑張ろうと思ってくれたりする人がいるんだったら、やる意味があるのかなと思って。それで、チャリティーマッチへの出場を決めました」


 一方、被災地のクラブである仙台からは、リャン・ヨンギと関口訓充が出場することが決まった。指揮官の手倉森は、それまで解散状態だったチームの再集合を、チャリティーマッチ前日の3月28日に設定。選手を送り出す立場の彼も、実はJリーグのこの決定に背中を押されていたことを、今回の取材で明かしている。


「28日に再集合をかけたのは、リーグ戦再開(4月23日)の1カ月前というのもありますし、チャリティーマッチ開催によって日本のスポーツ界が動き出す流れができつつあることを感じていました。われわれは、いつまでも打ちひしがれてはいけない──。そんな思いを新たにした記憶があります」


<後編につづく(3/12掲載予定)。文中敬称略>



2011年 東日本大震災とJリーグ<前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

◆東日本大震災から7年、鹿島小笠原が口にする危機感(ニッカン)





 東日本大震災から7年が立った11日、盛岡市出身の鹿島アントラーズMF小笠原満男(38)は茨城県・鹿嶋市のクラブハウスで振り返った。

 「思うことはいろいろあるし、つらい日でもある」

 いまだ、あの大惨事が心から消えることはない。当時は震災から1週間で被災地に飛んだ。復興を支援する「東北人魂を持つJ選手の会」の発起人として活動し、毎年、幾度となく被災地に足を運び続ける。そこで思うことがある。

 「7年になるけど、いまだに仮設住宅で暮らしている方も多くいるし、津波が来たエリアにほとんど何も立っていない地域もある。7年でこれしか進まないか、というくらい復興はすごく遅れていると思う」と訴えた。

 高校時代を過ごした岩手県大船渡市には昨年、市や地元の人たちと協力して、人工芝のグラウンドを完成させた。雨や雪などの悪天候にも負けないように、と。だが「つくって終わりにするんじゃない。このまま活用していってもらえる仕組みを考えていきたい。いろいろな大会やサッカー教室をして、外部から子どもたちを被災地に呼び、まず被災地を見てほしいということと、何かを感じ取ってほしいという意味で。そういう大会をつくっていきたいなと、地元の人と話している」。

 そこには小笠原だけでなく、被災地の人たちの“危機感”がある。

 「7年立って(記憶が)薄れてきている部分があるのも1つだけど、東日本大震災を知らない子たちが生まれてきている。今の小学生ぐらいは記憶にあるかないか、ギリギリ。7年前に生まれていない子もいる。そういう子たちに今度は伝えていく必要がある。2度とああいう被害が起きて欲しくないし、南海トラフ地震とか、関東大震災クラスのものが、かなり高い確率で来るんじゃないかと言われていて、決してああいう地震や津波を人ごとだと思ってほしくない。『いつか来る』と思って備えておくに超したことはない。そういうのを訴えかける機会をつくっていきながら、地元の活性につなげていく形が、今後は理想かなと、みんなと話しています」

 今、被災地から人が流出しているという。サッカー界にとっても、その問題は大きい。

 「子どもたちの人数が減ってきていて、1チーム11人組めないチームもあったりしている。なので、ぜひああいう人工芝を使って、子どもたちがスポーツをどんどんできる環境も、そういう意味でも良いんじゃないかなと思います。反対に、被災地に人が来てくれるような流れをつくれれば、いいのかなと」

 大船渡市の旧赤崎小の跡地につくった人工芝のグラウンドでは、年明けに1度、大会を開いた。今度は夏にも開きたいという。

 「大船渡は、冬でもあまり雪が降らないし、凍ったりしない。東北の中でも暖かい気候を生かして、大会なり合宿を誘致する流れをつくっていきたい」

 東日本大震災から、まだ、7年しか立っていない。小笠原は常に、寄り添っている。


東日本大震災から7年、鹿島小笠原が口にする危機感