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2020年9月9日水曜日

◆福田正博が内田篤人に見た理想の日本人SB像。圧倒的な賢さの中身(Sportiva)






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■内田篤人が引退を表明した。20代後半からはケガとの戦いになってしまったが、鹿島、シャルケ、日本代表ですばらしいプレーを披露し、日本人選手のサイドバック像をつくりあげた。そんな内田のすごさ。そして、プロ選手にとってケガとの対峙がいかに大変なものなのかを、福田正博氏に明かしてもらう。


 まずはお疲れ様と伝えたい。

 内田篤人が8月23日のガンバ大阪戦で現役を退いた。だが、まだ32歳。右ヒザの故障もあって、この5年くらいは本人が納得のいくプレーができなかったなかでの決断だったのは理解できる。それでもやっぱり早すぎるし、もっと彼のプレーを見たかったというのが率直な気持ちだ。

 清水東高から鹿島アントラーズに進んだ2006年、高卒ルーキーながらも開幕戦からスタメン出場。07年には日本代表合宿に初招集され、翌08年1月にはチリとの親善試合で日本代表にデビュー。若くして日本のトップ選手へと駆け上がった。

 しかし、10年南アフリカW杯ではメンバー入りしたものの、試合出場はなし。その悔しさから、成長するために選んだのが海外移籍だった。W杯後の7月にブンデスリーガのシャルケへ移籍し、1年目の2010-11シーズンにはチャンピオンズリーグ(CL)ベスト4の舞台に立った。

 シャルケと日本代表で不動の右SBとして存在感を高めて迎えた14年ブラジルW杯大会を控えたシーズンで右ヒザを痛めたが、リハビリに励んでW杯に間に合わせた。

 ただ、この反動だったのかはわからないが、その後は思うようにプレーができなくて右ヒザの手術に踏み切った。これが彼のサッカーキャリアの転換期になった気がしてならない。

 シャルケには7シーズン在籍したが、彼が満足にプレーできたのは実質3年半ほど。まばゆい輝きを放った20代前半に比べ、手術以降の内田は右ヒザの故障との戦いの日々になってしまった。

 18年1月に鹿島に復帰したが、その背景にはロシアW杯があった。内田にとって10年W杯は出場ゼロ、14年は惨敗。18年はやり返したい思いが強かったのだろう。鹿島に復帰し、当時の大岩剛監督も積極的に内田を起用したが、やっぱりヒザが思うようにならず、代表入りはならなかった。

 内田のキャリアを振り返ると、フィジカル面の負荷が相当なものだったのだなと感じてしまう。

 大柄で屈強な選手が多く、接触プレーが激しいブンデスリーガで、判断のよさや戦術理解度、技術力に加えて、試合を重ねるなかで相手と体を当てるタイミングやポジショニングを見直して、内田はフィジカル面でのハンディを克服した。

 ただ、サイドバック(SB)というポジションであっても、身長差のある体格の大きな相手選手とヘディングで競り合うケースはいくらでも生まれる。たとえば、SBは逆サイドから攻め込まれた時にはゴール中央にポジションをスライドし、クロスボールがあがってくれば相手FWとの空中戦をしなければならない。

 こうしたフィジカルコンタクトの積み重ねに、右ヒザが悲鳴を上げた可能性は否めない。

 内田にとって、ケガからここまでの間が相当に辛かったことは想像に難くない。私の場合、現役時代にグロインペイン症候群に苦しんだが、回復を目指す道のりが右肩上がりではない故障は、やはり精神的に苦しいものがある。

 よくなったり、悪くなったりしながらでも、少しずつ回復している実感があれば励みになる。しかし、よくなったと思ったら、一気にまた振り出しに戻る。再びよくなるようにリハビリに励んで、行けるかなと思ったら、また突き落とされる。出口が見えないなかでも黙々と故障と向き合うのは、相当に辛い。

 しかも、選手は自分のトップフォームを忘れない。故障から復帰を目指す時もそこに向かっていく。これは若ければ若いほど、高いレベルを知っていればいるほど顕著になる。内田は26歳で故障を抱えたが、常にベストな状態だったそれ以前の自分を追いかけてしまったのではないかと思う。

 もし内田が30歳を超えたくらいで故障とつき合っていくことになっていたら、若かった頃のトップフォームとはまた違う新たな自分のプレースタイルを模索し、それを受け入れてまだ現役をつづけていた可能性はあるだろう。

 だが実際の内田は、最終的には現状の自分を受け入れ、「自らの引き際を自分で決断できるタイミングで」という美学を貫いて引退を決めた。

 彼の切り拓いた道は、日本サッカーにとっては大きいものがあった。

 体格に恵まれていない日本人SBがヨーロッパでもプレーできることを、長友佑都(マルセイユ)と共に証明し、その後の酒井宏樹(マルセイユ)や酒井高徳(ヴィッセル神戸)の海外移籍にもつながった。

 SBとしての内田のすばらしさは、まずパスを受けた後にボールを置く場所にあった。相手に対してボールを晒して奪われる危険性を承知のうえで、攻撃的なプレーに移行しやすい場所に置いた。そして、戦況を判断して攻撃参加するタイミングもよかった。これは圧倒的な賢さがあればこそのプレーだった。

 日本代表では左SBの長友、右SBの内田というのが14年までのベストチョイスだったが、そのプレースタイルは好対照だった。

 左サイドで長友が激しくアップダウンを繰り返し、右サイドでは内田が状況を見ながら気の利いたプレーをする。その違いが当時の日本代表の魅力になっていた。

 今夏には室屋成がFC東京からハノーファーへと移籍したが、内田、長友、酒井宏樹、酒井高徳と、一時期はSBの人材に事欠かなかった日本代表も、いまではその勢いがなくなっている。

 引退後の内田が何をするかは聞いていないが、以前は「指導者には興味がない」と言っていた。だが、年齢を重ねていくと考えは変わるもの。少し休養したら、サッカー界に戻ってきてもらいたいと思う。

 CLでベスト4を経験した貴重な日本人として、彼にしか伝えられないものがある。それを後進にしっかりと伝えていってほしい。そして、いつの日か内田のようなすばらしい選手を育ててくれることを願っている。