2022年、鹿島アントラーズはスイス人のレネ・ヴァイラー監督のもと再スタートを切ることとなった。しかし、国の新型コロナウィルス水際対策強化策の「外国人の新規入国停止」によって、新監督の来日時期が不透明ななか、監督代行としてチームを率いているのが、今季からトップチームのコーチに就任した岩政大樹だ。
「今日まで非常にポジティブな空気がチームに流れていて、いろんなことが上手く運んでいたと思っています。それが結果に繋がらなかったというのが、非常にいい薬になると思って見ていました」
2月13日、2005年から毎年開催されている「いばらきサッカーフェスティバル2022」で、水戸ホーリーホックと対戦。大会史上初めての敗戦(0-1)となったあと、公式会見に臨んだ岩政はそう語った。
国は3月1日以降の水際対策の緩和を表明し、新監督以下外国人スタッフの来日にも目途が立ったが、同時に監督不在のまま開幕を迎えることも決定した。
「ここまで冷静に1日1日を進めることが出来ているので、このままあと1週間進めていくというだけです。チームとしての決めごとと選手に任せるバランスを僕がうまく計り、選手たちを試合に送り出すことが大事だと思っている。今日は悔しい敗戦だったけれど、ここで過剰に反応し、次の試合へ向けた準備で必要のないバランスを求めてしまうと結果に繋がらないので、そこは冷静に判断したい」
鹿島は長く強化責任者を務めた鈴木満が退任。遠藤康、レオシルバ、永木亮太などクラブを去った選手も少なくはない。クラブ創設来、多くの時間でブラジル人監督が指揮を執ってきた鹿島では、必ず日本人コーチが指揮官をサポートしてきた。近年ではクラブOBがコーチを務め、クラブの伝統やDNAを繋ぐ役割も期待されている。ジーコから連なるブラジル流のクラブが迎えた初めての欧州出身監督がその手腕を発揮できるのかという意味においても、欧州のトレンドに通じた岩政コーチの存在は鍵を握ることになるだろう。
本稿の取材は昨年12月上旬に実施。その時点で鹿島のコーチ就任は決定前だったが、2018年の現役引退以来、指導者や解説者として築いてきた自身のキャリアを新たなステージへと移す意欲について語ってくれた。(全2回の2回目/前編へ)
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――岩政さんは2017年にJ2のファジアーノ岡山から、関東1部リーグの東京ユナイテッドFCへ選手兼コーチとして加入しています。同時に東京大学運動会ア式蹴球部のコーチにも就任。2021年は上武大学サッカー部監督を務められました。大学での監督経験はいかがでしたか?
小学校、中学校、高校、大学、そして社会人とすべてのカテゴリーで指導経験を積んできましたが、大学はいろんなトライができるという面でとても良い経験ができたと思います。高校生まではどうしても選手個人の技術や判断力を磨くことにフォーカスする時間が多くなってしまうんです。
でも、将来的にJリーグで監督をやりたいと考えたときに、育成年代とは指導の力点が違うと考えていました。たとえば、ペップやジダン、ラウールもそうですが、下位リーグに参加するU-23チームやBチームで監督経験を積むのがヨーロッパのスタンダード。自分にとってもそういう場所があればと思ったんです。
――Jリーグでも若手育成のためにエリートリーグが創設されました。しかし、残念ながら、トップチームで試合に出られない選手の調整の場となり、以前のサテライトリーグのような側面もありました。ひとつのチームを戦術的にマネージメントするという意味では欧州とは違いますね。
そうなんです。そう考えていたときに、上武大学から監督のオファーをいただきました。わずか1年ですが、監督として自分のスタイルを確立する機会を得られたのは非常に大きいと思います。たとえば、やりたいサッカーのビジョンを描いても、いかにそれをチームに落とし込んでいくのかは、実際にやってみないと確信は持てない。それはコーチだけでは得られない経験でした。
戦術面とマネージメント、両輪を回す難しさ
――コーチを長く続けるよりも、どんなカテゴリーでも監督としてキャリアを積むことは重要ですよね。監督は決断の仕事だとも言われます。参謀ではない。
サッカーのことだけを考えると、戦術や戦略、原則などピッチレベルの視点ばかりがどんどん膨らんでいくものです。でも、現場で直面するのは、マネージメントの視点です。選手一人ひとりに対してどう向き合うのか、選手の意識をどこへ揃えていくのか。どういうストーリーを描いて、選手の成長を促すのか。同じ絵を共有させながら、毎日を過ごさせることがチーム力になっていくと思っているので、いわゆるサッカー的な面とマネージメントの両輪を回す難しさがあるなと思います。
たとえば、ある選手が球際で競り負けました。「もっと競り勝たないと!」と伝えることも重要です。でもそれは戦術的な指示ではない。そこに至るまでのポジショニングの問題やチーム全体のことまで考えたら「こうすれば勝てたはず」という話をする必要もあります。でも、ひとりで同時に両方を伝えることはできない。だから、監督である僕がどちらかを担当し、コーチがもう一方を伝えることで選手も受け取りやすくなるんです。
――2018年に取材したときに、「指導者になることがゴールではない」という話をされていました。
現役時代は指導者になりたいという気持ちが100%だったわけではないんです。実際に指導者ライセンスを取りに行き、自分がどういう立場をとれるかを見極めてから決めようと思っていました。引退して、S級ライセンスも2年という早さで取得して、「日本サッカー界で指導者としてやれることがある」ということを実感できたので、40代は指導者として生きていこうと思っています。
今、世界のサッカーは、「戦術的な視点でどれだけサッカーを語れるか」が監督に求められる時代です。戦術をしっかりデザインでき、チームに落とし込める日本人の指導者がまだ少ないことが、僕が活きる道だと考えました。そういった観点がJリーグには足りない、ということをサポーターも含めて多くの人が気づいている。そこへ自分が入っていけそうな気がするので、チャレンジしてみたいなと考えています。
――Jリーグへと?
まだ何かが決まったわけではないけれど、その道へ進みたいとは思っています(※インタビュー後に鹿島アントラーズのトップチームコーチ就任が発表された)。
なぜ鹿島からタイリーグへと移籍したのか?
――選手時代も解説者としてもそうですが、岩政さんは周囲との違いを際立たせることに長けていると感じます。それは指導者としても同じですか?
人と違うように見せることによって、こういった絶対数が少ない仕事を得られると思うんです。鹿島を離れる決断をしたときも、僕の2個上には小笠原満男さん、曽ケ端準さん、中田浩二さん、本山雅志さんがベテランとして健在でした。当時「きっと彼らは引退まで鹿島にいるだろう。そのとき僕も同じように鹿島で引退を迎えたら……」と考えました。彼らと比べたら僕の色は薄く感じられるだろうと。だから僕は移籍を決めました。
――しかも、タイリーグへと移籍しましたね。
はい。まだ鹿島でやれるという自信もあったので、J1の下位チームやJ2という選択もできたと思います。東南アジアならその後にでも移籍できるかもしれないけれど、一気にすっ飛ばしてタイへ出ました。そうすることで、人と違う経験ができると考えたから。いざ行ってみたら、いろんなことに順応できたし、周囲に指示も出せた。ハイレベルでプレーできる余裕があったからこそ、得られたものも大きかったと感じています。
岡山へ行ったときもそうですね。監督と一緒に選手全体をマネージメントする役割も与えてもらえた。それぞれの人間にはそれぞれのキャリアがあり、いろんな風景を見てきたはずです。でも僕にはほかの鹿島のOBとは違う景色が見えているはずだと自負しています。
――岩政大樹らしいキャリアを歩んできたわけですね。2018年に引退してわずか3年ほどですが、解説者として複数の書籍もベストセラーに。現代サッカーの論客としての岩政さんへの需要も高まっています。
そういった評価はありがたいですね。上武大学からオファーをいただいたときは、数年間は大学で指揮をとりたいと思っていました。プロの世界へ入れば、いつ解雇されるかもわからない。だからこそ、しっかり下積みの時間を持って、緩やかに登っていったほうが賢明だろうと。でも、日本サッカー界を見ていると、若い指導者が登用されないという流れがあります。この流れはそう簡単には変わらない。なら早めにプロへ参戦していくこともまた、他との違いを生み出せるんじゃないか、と。
それは上武大学で監督をやらせてもらえたからこそ思えたことでもあります。解説者を続けて「岩政の解説、飽きてきたな」と思われてから動くよりも、今動くほうが僕らしいなと。スパッと次へ行くのが僕の生き方。これが人との違いを生むんです。それは指導者になっても同じで、数年続けたあとに僕の色、他者とは違う色が外へ出せなくなれば、ほかの人がやったほうがいいと思える自分でいたいですね。
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かつて岩政が語っていた「指導者のあり方」
12月24日、鹿島アントラーズのコーチへの就任発表後、岩政大樹からメッセージが届いた。「新しい仕事がご自身のキャリアにとってどんな影響を及ぼすと期待していますか?」という問いに対する回答だ。
「ありがたいことに、影響はたくさんありますね。ヨーロッパをリアルに知ることができること、今のJリーグで本気の勝負ができること、変わりゆく古巣・鹿島の中で手助けができること、そして、たくさんのトライアンドエラーをコーチという立場で経験できること……。それらをくぐり抜けた先には、おそらく自分なりの指導法というものがかなりまとまって整理できているのではないかと思っています」
プロクラブのトップチームの監督が契約書にサインをしたとき、それはある種「終わりの始まり」でもある。内田篤人が引退会見で似たような話をしていたが、岩政もまた以前のインタビューで同様のことを語っている。
「僕は指導者をやるうえでは、クラブへの愛着は脇へ置いておくべきだと思っています。監督業はいろんなクラブのために仕事をしていくしかない職業です。契約したクラブのために、パートタイマーとして、そのクラブをなんとかいい成績にすることに力を尽くす。どこのクラブでもオファーが来れば考えるし、同時に数年後にはそのクラブを去ることを覚悟してやるしかない」
コーチに就任した岩政が将来、鹿島の監督になることをイメージしているかはわからない。コーチ業とて永遠が約束されているわけではないのだから。それでも、彼が異色の指導者としてプロのステージに立つことは、鹿島のみならず日本サッカー界にとって、新しい時代の始まりという印象を抱いてしまうのだ。<前編から続く>
◆なぜ岩政大樹(現コーチ)は名門・鹿島からタイに移籍したのか?「ほかのOBと比べたら、僕の色は薄く感じられるだろうと…」(Number)