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2018年11月16日金曜日

◆【鹿島】常勝チームを支える「ミーティング力」ACL決勝前、3選手の最後の訴え(報知)






 鹿島がついにアジアの頂点に立った。イラン・テヘランのアザディスタジアムでは、大岩剛監督や選手たちだけでなく、通訳、運営スタッフ、広報…多くのクラブ職員が涙を流していた。悲願のタイトルでの20冠達成。皆さんと固い握手を交わしながら、思わず自分ももらい泣きしそうになった。

 鹿島が常勝たる所以(ゆえん)は何なのか。もちろん答えは1つではないが、私がフォーカスしたいのは、「ミーティング力」だ。決勝前、数人の選手が意見を述べる場面があったという。以下はその抜粋である。

 MFレオシルバ(32歳。来日6年目)「例え相手サポーターが何人いようが、ピッチに入ってくるわけではない。コートの中では22人で戦うんだ。何も気にしなくていい」

 MF遠藤康(30歳。昨季リーグ最終節で逆転を許し歴史的V逸となったことを踏まえ)「俺たちは去年こういう立場で負けたんだ。結果的に何も成し得なかったんだ。絶対に気を抜くな」

 GK権純泰(クォン・スンテ、34歳。韓国・全北現代でACL2度制覇)「決勝という舞台は、とにかく先制点を与えてはいけない。06年は第1戦を終えて2―0だったが、第2戦で先に失点して大変なことになった(※第2戦は1―2で敗戦。2戦合計3―2で優勝)。16年も第1戦は2―1だったが、第2戦で早い時間帯に失点した(※第2戦は1―1。2戦合計3―2で優勝)。先に得点を許すと全く違う展開になってしまう」

 三者三様のゲキ。10万人の敵地へ踏み出す若手選手にとっては宝物のような言葉だったに違いない。豊富な経験を持ち、それを言語化し伝えることができる選手の存在はチームにとって本当に大きい。そして、MF小笠原満男、GK曽ケ端準といった大ベテランもいる中で、中堅選手がその思いを堂々と発言できる雰囲気があることが何よりも鹿島らしい。

 11度目のアジア挑戦での悲願を振り返る上で、ジーコ氏の16年ぶり復帰は欠かせない。だがジーコと言われても今ひとつピンとこない若手選手は多かったはずだ。日本代表監督として力を発揮しきれなかったイメージが先行する選手もいたかもしれない。しかしジーコ氏復帰が発表された日、クラブ幹部はジーコ加入の意図を全選手の前でこう説明している。

 「これまでのJリーグは『共存共栄』で25年間やってきた。だが賞金や強化配分金が増額される中で、今後は『競争』になっていく。アントラーズもこれまでの25年とは違った流れになる。現にイニエスタを獲ってくるようなチームも出てきた。うちの場合はそれがジーコになる。ジーコが鹿島にもたらしてきたものを知りなさい」

 ただ拍手で迎え入れるだけではなく、しっかりとした意図を持った“補強”であることを示していた。だからこそジーコの言葉は選手たちを刺激し、アントラーズに脈々と流れていた勝者のメンタリティーを取り戻すに至ったはずだ。

 鹿島担当になって11か月。様々な場面で「勝利への抜かりなさ」を感じてきた。勝利につながる言動のみが許され、「何となく」が許されないクラブ。初めてタイトルの味を知った19歳のMF安部裕葵は優勝後にこう話していた。「想像よりももっと気持ちいいもので、あの笛がなった瞬間は今後忘れないと思う。ああいう経験は何回でもしたいと思います」

 同感です。ジーコさんが言っていた「タイトルというものは取れば取るほどに、また次が欲しくなるものだ」という意味が理解できました。来季も引き続き担当させて頂くことになりそうですが、まずは天皇杯とクラブW杯(もちろん3位以内死守をかけたリーグ戦も)。タイトルの重み、そしてそこに至るまでの舞台裏の物語を読者の皆さまにお届けさせて頂ければと思います。(鹿島担当・岡島智哉)




◆【鹿島】常勝チームを支える「ミーティング力」ACL決勝前、3選手の最後の訴え(報知)



◆不可解な選手起用でボロ負けしたU-19代表にセルジオ越後「収穫は鹿島アントラーズのMF安部だね」(週プレNEWS)





U-19日本代表がU-19アジア選手権(インドネシア)の準決勝でサウジアラビアと対戦して0-2で完敗。大会連覇を逃した。日本は準決勝に進出したことで来年5月のU-20W杯(ポーランド)の出場権を獲得。最低限のノルマはクリアしたといっていい。

ただ、敗れたサウジ戦に関しては、歯がゆいほどの力の差を見せつけられたね。ボール際の強さとスピードに圧倒され、一方的に攻め込まれた。前半だけで4点くらい取られてもおかしくなかったし、最後は相手にボールを回され、遊ばれているようだった。スコア以上のボロ負けだ。

不可解だったのは影山監督の選手起用。日本は準々決勝からスタメンを9人も入れ替え、さらに4バックから3バックに変更。これが失敗だった。

大会初出場のGK若原(京都)がキャッチミスからオウンゴールを献上。メンバー中唯一の高校所属で、3バックの左に入ったDF三國(青森山田高)も徹底的に狙われた。そして何よりチームとして機能していなかった。

確かに日本はこの大会、グループリーグから毎試合スタメンを大幅に入れ替えながら勝ち進んできた。また、目標であるU-20W杯の出場権を獲得したので、より多くの選手に経験を積ませたい狙いがあったのかもしれない。

でも、僕はあくまで勝ちにこだわってほしかった。この世代は大きな舞台で勝つことで、飛躍的にレベルアップすることがあるからだ。サウジに勝てば、決勝では韓国が待っていた。経験値という意味では、これ以上の機会はなかったのに。

結局、ベストメンバーだったらサウジと互角に戦えたのかどうか、このチームの本当の実力を確認できないまま大会が終わってしまった。わかったのは選手層が薄いということだけ。実にもったいないね。

もしスタメンを大幅に入れ替えてもサウジに勝てると思っていたなら、それはスカウティングのミスだ。いずれにしても影山監督をはじめとしたこのチームのスタッフは、U-20W杯に向けて大きな課題を残した。

選手個人を見れば、MF安部(鹿島)はひとりだけレベルが違ったね。体は大きくないけど、強くて速くてキープ力がある。守備時のポジショニングもよく、プレスをかけるタイミングもいい。さすが強豪の鹿島で試合に出ているだけのことはある。

あまり持ち上げるのはよくないけど、アザール(ベルギー代表)みたいなプレーをする。2020年東京五輪ではひとつ上の世代の堂安(フローニンゲン)と共に攻撃の軸になる可能性がある。

ほかに目についたのはFW宮代(川崎)。まだ粗さはあるけど、前線で体を張れるし、ワントップでもなんとかやれそうな感じがする。

17歳の久保(横浜Fマ)はフリーで前を向いてボールを持てば、可能性を感じるプレーを見せた。でも、そんな場面は試合中に何度もあるものではない。むしろ相手に簡単に倒されて、主審に文句を言う場面が目についた。

元バルセロナということで過剰な期待を集めているけど、今年8月に期限付き移籍した横浜Fマでも出場機会を確保できていないのが現実だ。

久保に限らず、この世代はとにかく試合に出て経験を積むことが大事。Jリーグで試合に出られないようなら、世界では戦えない。各選手はそう肝に銘じて所属クラブで頑張ってほしい。




◆不可解な選手起用でボロ負けしたU-19代表にセルジオ越後「収穫は鹿島アントラーズのMF安部だね」(週プレNEWS)



◆三竿健斗よ、世界へ羽ばたけ。国内最高の奪取力と危機察知能力、日本代表で長谷部誠の後継者に(フットボールチャンネル)






日本代表はロシアワールドカップを終えてから、ベテランたちがいなくなった大きな穴を埋めきれずにいる。長谷部誠をはじめとした偉大な先達たちが残したものは大きいが、去ったことで失うものも大きかった。とはいえ、今後は若い力でより大きな目標に挑む。中盤では22歳の三竿健斗が、新世代の旗手となるかもしれない。(取材・文:舩木渉)


ACL制覇。イランでの貴重な経験


 このところ、本田圭佑や長谷部誠といったロシアワールドカップを最後に日本代表から去った者たちの「ロス」が叫ばれている。彼らの役割を引き継ぐのは誰なのか。2列目のアタッカー陣の充実には目を見張るものがあるものの、他のポジションが必ずしも安泰とは言い切れない。

 一方で、次世代を担う選手たちが国際舞台で貴重な経験を数多く積んで成長速度を上げている。U-19日本代表はAFC U-19選手権で開催地インドネシアの6万人のサポーターに囲まれた完全アウェイの一戦を制し、来年のU-20ワールドカップへ進む権利を掴み取った。

 U-21日本代表も同じくインドネシアで、負けはしたもののソン・フンミンやファン・ウィジョらA代表クラスのオーバーエイジ選手を多数擁するU-23韓国代表と大熱戦を演じた。アジア大会の銀メダルは悔しさこそあれ、誇るべき勲章になった。

 そしてAFCチャンピオンズリーグでも、鹿島アントラーズの面々が頂点に立った。日本勢としては昨年の浦和レッズに続く2年連続の快挙。決勝2ndレグでは10万人にのぼるペルセポリスのサポーターが、イランの首都テヘランの巨大なアザディ・スタジアムを埋め尽くし、鹿島の選手たちを威圧する。

 鹿島がボールを持てば、8年前の南アフリカワールドカップで大流行した「ブブゼラ」らしき、けたたましいホーンの音がスタンドのいたるところから威嚇してくる。そんな環境でペルセポリスの猛攻に耐えきり、“常勝軍団”はクラブ史上20個目となるタイトルを獲得した。

 アザディ・スタジアムでピッチに立っていた鹿島のMF三竿健斗も「あの雰囲気はなかなかない」と振り返る。「鹿島が獲ったことのないタイトルなので、それを獲って歴史に名を残すというのをずっと考えていた」という22歳は、これ以上ないほど貴重な経験を積むことができた。

「ゴールキックになった瞬間、ボールがすぐ出て、置いて、蹴るというのはJリーグではまずない。(ゴールキックに)なった瞬間にスプリントして戻ることもないので、なかなかない経験でしたけど、海外とか特にスピード感とか、ああいう感じだと思うので、経験できてよかったと思います」

パナマ戦で見せたいぶし銀の働き

 ペルセポリスのホームということもあり、鹿島の選手が放ったシュートがラインの外へ消えると、その瞬間ボールボーイからGKアリレザ・ベイランバンドへ新しいボールが渡される。そしてロシアワールドカップでも活躍した守護神は間髪入れず、距離の出るゴールキックを鹿島陣内に蹴り込む。

 ボールがラインを割ってからものの5秒で自陣に相手選手がなだれ込んでくる。ペルセポリスは序盤から徹底してカウンターを狙い、展開が早すぎてお互いに攻守の切り替えが間に合わないような瞬間もある。それでも鹿島にとってあれほどの過酷な完全アウェイの中で失点するのは危険すぎた。

 攻守を司る中盤の選手として、三竿の頭は整理されていた。守備を怠らず、バランスを保ちながら「奪う回数もあまり多くなかった」とは言うものの、常にリスクに対して目を光らせていた。

 三竿は鹿島に加入して3年目。日本代表では国内組のみで臨んだ2017年のEAFF E-1サッカー選手権(E-1)で初招集&初キャップを刻んだ。Jリーグでは東京ヴェルディ時代のJ2も含め、まもなく通算100試合出場を達成する。

 10月のパナマ戦では日本代表初先発を飾り、堂々たるプレーでその場にふさわしい実力を備えていることを証明した。ビルドアップ時にはセンターバック2人の間に落ちてボールを引き出し、青山敏弘とともにチーム全体を前進させていく。守備時には常に危険な場所をケアしつつ、積極的なプレッシングで相手の攻撃の芽を摘んだ。

 青山が最終ラインの中央まで下がってプレーしている際は、起点となる相手ボランチにプレスをかける三竿がかわされればバイタルエリアに広大なスペースを与えてしまうリスクもあったが、的確な判断でピンチを最小限に抑える、地味ながら大きな役割を遂行していた。

 これがまさに三竿の真骨頂。基本的にはダブルボランチの一角で相方とバランスをとりながら、常に最も危険なところへの監視を怠らず、ボールを奪えるとみるや一瞬の寄せで体を入れて奪いきる。味方がプレスをかけてポジションを外れた後のカバーリングにも気を利かせ、1対1の状況になればゴールへの最短経路を確実に消し、相手のプレーの選択肢を削る。

 そしてボールを奪えば、対角線への正確なサイドチェンジや、自らの飛び出しでゴールにも関わる。今季はJ1ですでに4アシストを記録し、以前よりも攻撃面で存在感を出せるようになった。

今こそ、日本の外へ羽ばたく時


 日本では珍しく「ファウルで潰す」ことのできる魅力もある。相手にカウンターのチャンスを与えた時、日本では多くの場合チーム全体で下がりながら、時間をかけさせることが重要とされる。危険な状態でボールを失った瞬間に、相手陣内でファウルで止めてしまうような選手は少ない。

 だが、三竿は危険だと判断すれば、即座にファウルでプレーを止めさせる「勇気」がある。“鹿島らしさ”と言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、勝つために最善の選択をするという当たり前のことを、22歳の若さでもしっかりこなす。これが国内最高の守備的MFと評価される所以だろう。

 だからこそ、三竿にはできるだけ早く海外へ飛び出してもらいたい。長谷部は身長180cmと日本人MFとしては長身の部類に入り、今では所属クラブでセンターバックも担う。身長181cmと体格に恵まれた三竿にも偉大な先輩とほぼ同等の身体的ポテンシャルがあって、成長への意欲に溢れる。

 さらに幼少期をカナダで過ごしていたことによって、海外に挑戦するうえでの前提条件となる英語でのコミュニケーションも苦にしない。明るい性格で新しい環境に飛び込むことも苦手ではないはずだ。

 サッカーで肝になるセンターラインを固め、日本代表のこの先の戦いをより安定させていくには、三竿の成長が不可欠。かつて長谷部は24歳になる直前に浦和レッズからドイツ1部のヴォルフスブルクへと旅立ち、サムライブルーのキャプテンを務めるまでになった。

 三竿は4年後のカタールワールドカップを26歳で迎える。長谷部も初めてのワールドカップ出場は2010年の南アフリカ大会。初戦の直前に岡田武史監督から日本代表のキャプテンマークを託された時、彼は26歳だった。やはり世界を相手により高いレベルで戦うには、できるだけ早い時期から欧州の第一線の競争力を体感しておくに越したことはない。

 現時点で三竿の日本代表での序列はダブルボランチの控えにすぎない。だが、11月のベネズエラ戦とキルギス戦、そして来年1月に迎えるアジアカップで自らの実力とポテンシャルを世に示せれば、将来への可能性は大きく広がるだろう。

(取材・文:舩木渉)

【了】






◆三竿健斗よ、世界へ羽ばたけ。国内最高の奪取力と危機察知能力、日本代表で長谷部誠の後継者に(フットボールチャンネル)





◆日本代表選手にも初々しい時期が! デビュー当時の姿を写真で振り返る(サッカーキング)






 森保ジャパンが来年1月に開催されるアジアカップに向けて、最後の強化試合に臨む。今回招集された23名のデビュー当時はどんな姿だったのか? 写真とともに振り返る。

写真=J.LEAGUE PHOTOS、Getty Images

■GK
東口順昭(ガンバ大阪)
東口順昭
生年月日:1986年5月12日(32歳)
代表デビュー:2015年8月9日 EAFF東アジアカップ2015決勝大会 vs中国(1-1)

2009年にアルビレックス新潟に入団。2010年にAFCアジアカップ2011予備登録メンバーに選出され、翌年3月に国際Aマッチではないが「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」に出場した。


権田修一(サガン鳥栖)
権田修一
生年月日:1989年3月3日(29歳)
代表デビュー:2010年1月6日 AFCアジアカップ2011カタール予選 vsイエメン(3-2)

国士舘高校在学時の2007年にFC東京のトップチームに昇格。2010年1月に行われたAFCアジアカップ2011カタール予選のイエメン戦でA代表に初招集され、初出場も果たした。2012年にはU-23日本代表としてロンドン五輪に出場。4試合連続無失点を記録し、ベスト4入りに貢献した。


シュミット・ダニエル(ベガルタ仙台)
シュミット・ダニエル
生年月日:1992年2月3日(26歳)

197センチの長身GKは、森保一監督の初陣を戦うメンバーに選出された。それ以降も継続的に招集されているが、ここまで出番はなし。森保監督は10月シリーズのメンバーを発表した際に「代表では練習する時間が少ない。試合にどう使うかは断言できないが、我々のコンセプトの中でプレーしてもらう時間を長く持ってもらいたい」と話していた。

■DF
槙野智章(浦和レッズ)
槙野智章
生年月日:1987年5月11日(31歳)
代表デビュー:2010年1月6日 AFCアジアカップ2011カタール予選 vsイエメン(3-2)

2009年5月、A代表に初招集されるも出番なし。権田と同様に、2010年1月に行われたイエメン戦でデビューを飾った。同年の南アフリカW杯、14年のブラジルW杯ではメンバー入りの可能性があったが、最後の23人には入れず。今年、31歳にして初のW杯を経験した。


吉田麻也(サウサンプトン/イングランド)
吉田麻也
生年月日:1988年8月24日(30歳)
代表デビュー:2010年1月6日 AFCアジアカップ2011カタール予選 vsイエメン(3-2)

名古屋グランパスの下部組織出身で、2007年にトップチームに昇格。2010年1月のイエメン戦でA代表に初招集され、同時に初出場を果たした。優勝した2011年のアジアカップからレギュラーに定着。2012年にはオーバーエイジとしてロンドン五輪にも出場した。森保ジャパンではキャプテンを務める。


佐々木翔(サンフレッチェ広島)
佐々木翔
生年月日:1989年10月2日(29歳)
代表デビュー:2018年9月11 キリンチャレンジカップ2018 vsコスタリカ(3-0)

森保チルドレンとして今年8月に初招集された。コスタリカ戦でのヘディングシュートはオウンゴールの判定で、デビュー戦ゴールが幻となり、試合後に「何とかならないですかね、今からでも」と冗談交じりに話していた。


酒井宏樹(マルセイユ/フランス)
酒井宏樹
生年月日:1990年4月12日(28歳)
代表デビュー:2012年5月23日 キリンチャレンジカップ2012 vsアゼルバイジャン(2-0)

2011年10月に初招集されると、翌年5月のアゼルバイジャン戦でデビューを飾った。2014年のブラジルW杯は出場機会に恵まれなかったが、今年のロシアW杯は4試合すべてにフル出場。チームのベスト16進出に貢献した。


山中亮輔(横浜F・マリノス)
山中亮輔
生年月日:1993年4月20日(25歳)

柏レイソルの下部組織出身で、2012年にトップチームに昇格。2016年に横浜F・マリノスに完全移籍する。今回の11月シリーズでA代表に初招集され、森保監督は「マリノスで年間を通して継続して試合に出ている」と評価。「攻撃的な左利きであることを生かしてのプレー、クロスや攻撃に絡むところが今回の招集につながった」と選出理由を語っている。


室屋成(FC東京)
室屋成
生年月日:1994年4月5日(24歳)
代表デビュー:2017年12月9日 EAFF E-1 サッカー選手権 2017 決勝大会 vs朝鮮民主主義人民共和国(1-0)

2016年のリオ五輪に出場し、右サイドバックとして全3試合にフル出場した。2017年12月に開催されたE-1選手権に追加招集され、12月9日の北朝鮮戦でA代表デビューを飾った。


三浦弦太(ガンバ大阪)
三浦弦太
生年月日:1995年3月1日(23歳)
代表デビュー:2017年12月12日 EAFF E-1 サッカー選手権 2017 決勝大会 vs中国(2-1)

2013年に清水エスパルスに入団し、2017年にガンバ大阪へ完全移籍した。代表初選出から半年後の2017年12月、E-1選手権の中国戦で代表デビューを果たした。


冨安健洋(シント・トロイデン/ベルギー)
冨安健洋
生年月日:1998年11月5日(20歳)
代表デビュー:2018年10月12日 キリンチャレンジカップ2018 vsパナマ(3-0)

19歳341日で国際Aマッチ出場。センターバックでは1993年のJリーグ創設以来初めてとなる10代デビューを果たした。2020年の東京五輪経由でカタールW杯出場を目指す。


■MF
原口元気(ハノーファー/ドイツ)
原口元気
生年月日:1991年5月9日(27歳)
代表デビュー:2011年10月7日 キリンチャレンジカップ2011 vsベトナム(1-0)

2011年10月7日のベトナム戦でA代表デビュー。2015年6月のイラク戦で2年ぶりの代表復帰を果たすと、いきなり代表初ゴールを決める。ロシアW杯アジア最終予選では4試合連続ゴールの活躍を記録し、日本代表に定着した。


柴崎岳(ヘタフェ/スペイン)
柴崎岳
生年月日:1992年5月28日(26歳)
代表デビュー:2014年9月9日 キリンチャレンジカップ2014 vsベネズエラ(3-0)

A代表に初選出されたのは2012年2月。それから2年半後の2014年9月のベネズエラ戦で代表デビューを果たし、初得点も決めた。ロシアW杯は全4試合に先発出場し、攻守に欠かせない働きを見せた。


遠藤航(シント・トロイデン/ベルギー)
遠藤航
生年月日:1993年2月9日(25歳)
代表デビュー:2015年8月2日 EAFF東アジアカップ2015決勝大会 朝鮮民主主義人民共和国(1-2)

2015年8月、東アジアカップに臨むメンバーに招集され、北朝鮮戦で代表デビュー。リオ五輪はキャプテンとして出場した。ボランチ、センターバック、サイドバックと複数のポジションをこなす。


伊東純也(柏レイソル)
伊東純也
生年月日:1993年3月9日(25歳)
代表デビュー:2017年12月9日 EAFF E-1 サッカー選手権 2017 決勝大会 vs朝鮮民主主義人民共和国(1-0)

J屈指の快速ドリブラーは2017年12月のE-1選手権でA代表に初招集。北朝鮮戦で初出場を果たす。森保ジャパンの初陣で代表初ゴールを決め、10月のパナマ戦で2試合連続得点を挙げた。


中島翔哉(ポルティモネンセ/ポルトガル)
中島翔哉
生年月日:1994年8月23日(24歳)
代表デビュー:2018年3月23日 国際親善試合 vsマリ(1-1)

リオ五輪世代の背番号10がA代表に初招集されたのは2018年3月のこと。マリ戦で代表デビューを飾ると、初ゴールを記録し、ロシアW杯メンバー入りも期待されたが、結果は落選。そのW杯の主力組も招集された10月シリーズでは2得点に絡む活躍を見せ、長友佑都に「ドリブルお化けでしょ」と言わしめた。


南野拓実(ザルツブルク/オーストリア)
南野拓実
生年月日:1995年1月16日(23歳)
代表デビュー:2015年10月13日 国際親善試合 vsイラン(1-1)

ヴァイッド・ハリルホジッチ監督に初招集され、2015年10月に代表デビューを飾るも定着はできず。リオ五輪経由ロシア行きは夢に終わった。森保ジャパンの初陣で代表初ゴールを決めると、そこから3試合連続で得点を記録。日本史上6人目の偉業を成し遂げた。


三竿健斗(鹿島アントラーズ)
三竿健斗
生年月日:1996年4月16日(22歳)
代表デビュー:2017年12月16日 EAFF E-1 サッカー選手権 2017 決勝大会 vs韓国(1-4)

2017年12月のE-1選手権で初招集、初出場を飾る。2018年3月のマリ戦で、中島の代表初ゴールをアシストした。今夏のW杯は予備登録枠に含まれたが、本メンバー入りは逃した。


堂安律(フローニンゲン/オランダ)
堂安律
生年月日:1998年6月16日(20歳)
代表デビュー:2018年9月11日 キリンチャレンジカップ2018 vsコスタリカ(3-0)

2017年のU-20W杯に出場し、4試合で3得点を記録。イタリア戦で4人抜きゴールを決めたことで、FIFA公式ツイッターやイタリア紙に「日本のメッシ」と称賛された。森保体制下になり、A代表に選出。9月のコスタリカ戦でデビューを飾り、10月のウルグアイ戦で代表初ゴールを決めた。


守田英正(川崎フロンターレ)
守田英正
生年月日:1995年5月10日(23歳)
代表デビュー:2018年9月11日 キリンチャレンジカップ2018 vsコスタリカ(3-0)

今年9月、負傷した大島僚太と山口蛍に代わって追加招集された大卒ルーキー。森保ジャパンの初陣となるコスタリカ戦に途中出場し、代表デビューを果たした。

■FW
大迫勇也(ブレーメン/ドイツ)
大迫勇也
生年月日:1990年5月18日(28歳)
代表デビュー:2013年7月21日 EAFF 東アジアカップ2013 決勝大会 vs中国(3-3)

ロンドン五輪出場は逃したものの、2013年7月の中国戦でA代表デビュー。その後もコンスタントに招集され、ブラジルW杯のメンバー入りを果たす。ロシアW杯初戦のコロンビア戦で決勝ゴールを決め、マン・オブ・ザ・マッチに選出された。


鈴木優磨(鹿島アントラーズ)
鈴木優磨
生年月日:1996年4月26日(22歳)

常勝軍団のエースに成長した鈴木が、今回の11月シリーズでA代表初選出。AFCアジアチャンピオンズリーグのMVPに輝き、アジア制覇に大きく貢献した。森保監督は「前線で存在感を発揮している」と評価する。


北川航也(清水エスパルス)
北川航也
生年月日:1996年7月26日(22歳)
代表デビュー:2018年10月12日 キリンチャレンジカップ2018 vsパナマ(3-0)

追加招集で呼ばれた10月に続いて、今回が2度目の招集。今季、調子が悪い時は清水エスパルスのOBであり、憧れの存在である岡崎慎司に相談していたという。


◆日本代表選手にも初々しい時期が! デビュー当時の姿を写真で振り返る(サッカーキング)





◆鹿島から獲得話があった当時、 昌子源は「ダブル浩二」を知らなかった(Sportiva)



昌子源 Gen.Shoji


遺伝子~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(36)
昌子 源 前編

◆土居聖真「ボールを持つのが 怖くなるほど、鹿島はミスに厳しかった」(Sportiva)
◆中田浩二「アントラーズの紅白戦は きつかった。試合がラクに感じた」(Sportiva)
◆中田浩二は考えた。「元選手が 経営サイドに身を置くことは重要だ」(Sportiva)
◆スタジアム近所の子供が守護神に。 曽ヶ端準とアントラーズの幸せな歩み(Sportiva)
◆曽ヶ端準「ヘタでも、チームを 勝たせられる選手なら使うでしょ?」(Sportiva)
◆移籍組の名良橋晃は「相手PKに ガックリしただけで雷を落とされた」(Sportiva)
◆名良橋晃がジョルジーニョから継ぎ、 内田篤人に渡した「2」への思い(Sportiva)
◆レオシルバは知っていた。「鹿島? ジーコがプレーしたクラブだろ」(Sportiva)
◆「鹿島アントラーズは、まさにブラジル」 と言い切るレオシルバの真意(Sportiva)
◆「ジーコの負けず嫌いはハンパなかった」。 本田泰人はその魂を継いだ(Sportiva)
◆「アントラーズの嫌われ役になる」 本田泰人はキャプテン就任で決めた(Sportiva)
◆ユースで裸の王様だった鈴木優磨が 「鼻をへし折られた宮崎キャンプ」(Sportiva)
◆鹿島・鈴木優磨のプロ意識。 いいプレーのため、私生活で幸運を集める(Sportiva)
◆岩政大樹の移籍先は「アントラーズと 対戦しないこと」を条件に考えた(Sportiva)
◆三竿健斗は感じている。勝たせるプレーとは 「臨機応変に対応すること」(Sportiva)
◆三竿健斗は足りないものを求めて 「ギラギラした姿勢で練習した」(Sportiva)
◆森岡隆三が鹿島で過ごした日々は 「ジレンマとの闘いだった」(Sportiva)
◆清水への移籍を迷った森岡隆三。 鹿島と対等での戦いに違和感があった(Sportiva)
◆安部裕葵は中学でプロになると決意。 その挑戦期限は18歳までだった(Sportiva)
◆安部裕葵は断言。「環境や先輩が 僕をサッカーに夢中にさせてくれる」(Sportiva)
◆ジーコが鹿島を称賛。「引き継ぎ、 やり続けたことが成果になっている」(Sportiva)
◆ジーコは意気込む。鹿島のために 「現場に立ち、構築、修正していく」(Sportiva)
◆山本脩斗の鹿島加入時の逸話。 「強化部も僕をよく知らなかったと思う」(Sportiva)
◆鹿島で優勝する術を学んだ山本脩斗。 「満男さんがそれを示してくれた」(Sportiva)
◆鹿島のスカウト担当部長は、 「安部裕葵に柴崎岳と似たものを感じた」(Sportiva)
◆鹿島の選手のJデビュー時。椎本 邦一は「親みたいな気持ちになる」(Sportiva)


「これを決めないとクビだとか、ボールがこぼれていたときは、いろんなことを考えて、最後はほんとどボールも見ていないというような勢いで。だから、気持ちで押し込んだゴールでした」

 11月6日対柏レイソル戦。逆転弾を決めた鹿島アントラーズの山口一真は、試合後自身のリーグ戦初ゴールについてそう振り返った。

 この日のスコアラーには6分の先制点が金森健志、27分同点弾の町田浩樹、そして61分の山口と鹿島では若手と言われる選手たちの名前が並んだ。しかし、勝利を手繰り寄せたのは、ベテランたちの修正力だった。

 先制ゴールを手にした鹿島だったが、試合が途切れるたびに、周囲に指示を出す小笠原満男の姿が目に付いていた。だが、9分と24分に失点している。永木亮太がその状況を説明する。

「前半の半ばくらいまでの守備の仕方というのは、重心が後ろになっていました。ボールを持っている選手へプレッシャーをかけられず、ズルズル下がっていたので、失点してしまった。2ボランチ(自分たち)が下がりすぎて、相手のボランチへプレッシャーをかけられていなかったので、満男さんを中心に話をして、4-1-4-1というように、満男さんが中盤の底にいてくれて、僕と(山口)一真で相手の2ボランチを見る形にしました。そこからうまくいきました」

 ベンチで立っていた大岩剛監督は、静かにその修正を見ていた。選手たちの自主性を信じていたのだろう。

「今日はアグレッシブにやろうという話をしていたが、それを小笠原、曽ヶ端(準)、遠藤(康)、永木がプレーで表現してくれた。若手を引っ張ってくれる存在。今日だけを見ても非常に頼りになる。頼りになるという表現は失礼だが、非常に評価している。彼らの経験を若手が吸収していることが、成長できている要因、自信を持てている要因だと思う」

 試合後の会見でそう目を細めている。それを裏づけるのが永木の言葉だった。

 今季は主戦場のボランチだけでなく、左MFなど複数のポジションで起用されている。この日の終盤は右サイドバックを務めた。

 「自分が任されたポジションでやるべきことをやるだけです。自分の持ち味を出しながらも、試合の流れ、チームの状況を考える。そういうところは(湘南ベルマ-レから)鹿島へ来てすごく勉強になっています。そういうふうに考えてプレーしているのが鹿島の選手なので。ずっとそういうことを考えながらやっている満男さんやソガ(曽ヶ端)さんが、それを伝えてくれる。そういうものを継承して、自分たちもやっているし、自分たちのプレーを見て、また若い選手がやってくれればなと思います」

 この日も10月31日のセレッソ大阪戦に続き、若手を中心に普段リーグ戦での先発起用が少ない選手たちがピッチに立った。1-0で勝利したセレッソ戦の勢いを力にし、11月3日ACL決勝戦ファーストレグ、対ペルセポリスFC戦では2-0と完勝した。柏戦での勝利もまた、11月11日敵地(イランの首都テヘラン)でのセカンドレグへ向けた大きなエネルギーになるだろう。


「誰になんて言われようが、鹿島の3番というのは揺るいでない。どんな試合でも俺が支えるという強い気持ちを持ってやってきたから」

 10月24日ACL準決勝対水原三星戦後、昌子源の口から自然と「鹿島の3番」という言葉が出た。長いリハビリを経て、試合復帰してからまだ直前の1試合しか実戦を積めていない。試合勘に不安を残しながら立った大舞台では、短時間で3連続失点。その後同点に追いつき、準決勝は突破できた。その安堵感と共に、2失点に絡んだという事実を噛みしめていた。だからこそ、胸を張ったのだ。





「鹿島の3番」としてチームを引っ張る昌子源

「失点に絡んで、いろんなことが甦ってきた。ここでチームに迷惑をかけたぶん、絶対に俺は決勝で、チームを救う。(岩政)大樹さんに変わって3番をもらい、鹿島のディフェンスを支えてきたのは自分だと言い聞かせてきた。ACL決勝は3番の覚悟を見せられる舞台。その魂を持って挑みたい」

 秋田豊から始まった「鹿島アントラーズの背番号3」の系譜。2015シーズンからその番号を背負った昌子のエピソードゼロ。

――中学時代はガンバ大阪のジュニアユースに所属。Jリーガーというのはそのころからの夢だったのでしょうか?

「あんまり考えたことはなかったですね。確かに小学生のころの夢は”プロサッカー選手”ではあったけれど、現実味もないし、具体的に考えてはいませんでした。ただの夢でしかなかった」


――その後、中学の途中でジュニアユースをやめて、米子北高校へ進学。

「もうプロにはなれないと、完全に諦めていましたね」

――それでも、鹿島アントラーズからオファーを受けました。

「先生から『鹿島がお前に興味を持っている』と言われても、まったく実感がなくて。驚きも興奮もなかった。ただ、そうなんですか……という感じでした。そのとき、『このことは両親以外には言っちゃダメだ』と先生に釘をさされたんです。でも、部室に戻ったらチームメイトが興味津々な表情で『何の話やったん?』と聞いてくるので、『鹿島からオファーがあった』と打ち明けていました(笑)。プロになることを初めて意識したのはこのときですね」

――仲間たちは喜んでくれたでしょう?

「そうですね。ひとりすごい鹿島ファンがいたんですよ。椎本(邦一)さんや熊谷(浩二)さんが、米子へ来てくれたときも、すっごい興奮してました。『ダブル浩二や!』とか言って。『ダブル浩二って何?』と言う僕に、『熊谷浩二と中田浩二や。知らんのか?』って。僕はそれくらい、鹿島のことを知らなかったんですよ」

――それでも当時高校No.1ディフェンダーと言われていた昌子選手。プロ入りは即断したのでしょうか?

「僕自身はそうでしたね。でも、相談した両親は最初僕のプロ入りには反対だったんです。母は大学へ行ったほうがいいと話していましたし、ヴィッセル神戸のユースで指導していたことがある父もプロの厳しさを理解している人だったので、『3年でクビになったら、そのあとどうするんだ』と。でも、そんな父も『鹿島なら行ってもいい』と。周囲も『それはすごいことなんだ』と言ってくれたので、『よし、俺はプロへ行くぞ』って。でも、覚悟とかそういうのはまったくなかったんです。ただ、大学へ行くよりプロへ行ったほうがカッコいいなって。その程度でした。成功してやるとか、プロになる覚悟もないままで」





――自信はあったのでしょうか?

「どうなんでしょうね。ただオファーを受けたわけだから、自信があったんだと思います。でも、そんなのは簡単にへし折られましたけど(笑)」

――2011年鹿島の一員となった直後に鼻をへし折られたと(笑)。

「これはちょっと違うなって。とにかくスピードが別モノでしたね。僕自身高校ではスピードに自信があったんです。でも、(興梠)慎三くんに置き去りにされて。簡単に(笑)。次元が違いました。その慎三くんをサクッとスライディングで止めたのが、イノ(伊野波雅彦)さんでした。それを目の当たりにしたんです」

――心も折れますよね。

「でも、周囲を見れば、イノさん以外にも大樹さん、(中田)浩二さん、青木(剛)さんと、いろんなタイプのセンターバック(CB)が揃っていたので、つぶさに観察して、いいところを盗もうとしました。よいお手本がたくさん在籍していたんです。それに当時コーチ1年目の(大岩)剛さんには、マンツーマンで教えていただきました。コーチの数が多かったので余裕があったんだと思います。あらゆる意味で恵まれた環境で、運がよかったです。しかも当時はCBの人数が少なかったので、紅白戦でCBを務められた。紅白戦に出られない同期もいたのに……」

――Aチームの2トップは興梠選手に、大迫勇也選手ですね。

「そうなんです。剛さんからも『Jリーグの対戦相手でも、この面子が揃うことはない。こんな贅沢はないぞ』って。すごいありがたかったですね」

――1年目はリーグ戦にも出られませんでした。試合に出たいという欲と上手くなりたいという欲。どちらが強かったですか?

「今、自分が試合に出るようになってから思うのは、試合に出たいと思ってやっていたら、試合には出られないということです。自分に足りないところやいろんなことを感じて、それを埋めるような時間を過ごして、プロ選手としての土台を作らないと、たとえ試合に出られたとしても、成長できないと思うんです。僕はその準備を経て、試合に出られるようになったんですが、それでも完成されて出たわけじゃない。未熟のまま試合に出て、完成形に近づいている最中です。試合で経験を積むなかで、試合に出られなかった時間は本当に重要だったなと感じています」

――2年目の2012年、ナビスコカップ(現ルヴァンカップ)の決勝戦では先発しました。

「直前のリーグ戦までイバ(新井場徹)さんがずっと先発でしたが、当時のジョルジーニョ監督が、『ナビスコの決勝は昌子で行く』と宣言して。チームメイトもみんな驚いてました。ミーティング会場がザワザワしていたことは今でも覚えています。イバさんの代わりというのはサイドバックでプレーするということ。今までやったことのないポジションでしたが、思い悩む余裕もなかった。決勝の相手は清水エスパルスで、相手の右(FW)は大前(元紀)選手でした。監督からは『大前が水を飲むならお前もいっしょに飲め』と。とにかくマンツーマンでしっかり守れということ。必死でその任務を遂行するだけでした」

――大前選手に決められた得点はPKのみ。途中交代で試合終了時にはピッチに立っていませんでしたが、延長で勝利しました。

「僕と交代したイバさんが持ち味とする攻めのプレーで、試合の流れを引き寄せたんです。監督から『大前はお前のことを嫌がって、外ではなく、中でプレーするようになったな』と言ってもらえました。勝利の瞬間はベンチで迎えましたが、自分の仕事はまっとうできたという実感は強くて、本当に嬉しかったですね。サポーターに認められたなと感じることもできました。きっとサポーターにとっても、『昌子って誰だ』という感じだったと思うけれど(笑)」

――そして、リーグ戦でも左サイドバックで起用されるようになりました。

「勝っていても、負けていても、70分や80分で、イバさんに代わって試合に出られるようになりました。本職のセンターバックではなかったけれど、Jリーグはアウトサイドにいい選手がたくさんいたので、いい勉強の時間になりました」

――しかし、2013年は負傷離脱することになりました。

「5月でしたね。中断前のJリーグで1試合出場して、(トニーニョ・)セレーゾ監督から、『中断明けからはお前を起用する』と言ってもらえた直後のことでした。だから、監督も強く落胆している様子でした」

――手術をしたんですよね。

「本当は、したくなかったんです。手術しますと言われたとき、『手術はイヤです』と言ったら、『だったら一生このままだぞ』と。膝にロックがかかるような動かない状況で、手術しか解決策がなかったんです。父からの『(小笠原)満男さんも膝の大きな怪我をしたけれど、今はこんな偉大な選手になった。誰もが通る道だから、頑張れ』という言葉にも背中を押されて、手術を受けました」

――本当に大変なのは、手術後のリハビリだったのは?

「苦しかったですね。何度もサッカーやめてやるって思いました(笑)。それでも秋には復帰したんです。もう普通にプレーできる状態でしたが、監督から『今季は1分も起用しない』と宣言されて。試合には出たいけれど、再発しないためには、そういう時間が必要なんだろうと理解しました」

――その長い充電期間があったからこそ、2014年以降ずっと主力で戦えたのかもしれませんね。

「あの怪我はさまざまな意味で、僕にとって大きな出来事だったと感じています」




◆鹿島から獲得話があった当時、 昌子源は「ダブル浩二」を知らなかった(Sportiva)