日刊鹿島アントラーズニュース

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2018年8月26日日曜日

◆森岡隆三が鹿島で過ごした日々は 「ジレンマとの闘いだった」(Sportiva)



森岡隆三 Ryuzo.Morioka

遺伝子~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(25)
森岡隆三 前編

◆土居聖真「ボールを持つのが 怖くなるほど、鹿島はミスに厳しかった」(Sportiva)
◆中田浩二「アントラーズの紅白戦は きつかった。試合がラクに感じた」(Sportiva)
◆中田浩二は考えた。「元選手が 経営サイドに身を置くことは重要だ」(Sportiva)
◆スタジアム近所の子供が守護神に。 曽ヶ端準とアントラーズの幸せな歩み(Sportiva)
◆曽ヶ端準「ヘタでも、チームを 勝たせられる選手なら使うでしょ?」(Sportiva)
◆移籍組の名良橋晃は「相手PKに ガックリしただけで雷を落とされた」(Sportiva)
◆名良橋晃がジョルジーニョから継ぎ、 内田篤人に渡した「2」への思い(Sportiva)
◆レオシルバは知っていた。「鹿島? ジーコがプレーしたクラブだろ」(Sportiva)
◆「鹿島アントラーズは、まさにブラジル」 と言い切るレオシルバの真意(Sportiva)
◆「ジーコの負けず嫌いはハンパなかった」。 本田泰人はその魂を継いだ(Sportiva)
◆「アントラーズの嫌われ役になる」 本田泰人はキャプテン就任で決めた(Sportiva)
◆ユースで裸の王様だった鈴木優磨が 「鼻をへし折られた宮崎キャンプ」(Sportiva)
◆鹿島・鈴木優磨のプロ意識。 いいプレーのため、私生活で幸運を集める(Sportiva)
◆岩政大樹の移籍先は「アントラーズと 対戦しないこと」を条件に考えた(Sportiva)
◆三竿健斗は感じている。勝たせるプレーとは 「臨機応変に対応すること」(Sportiva)
◆三竿健斗は足りないものを求めて 「ギラギラした姿勢で練習した」(Sportiva)


 8月22日、鹿島アントラーズでは、24日の対ジュビロ磐田戦へ向け、紅白戦が行われていた。午前中ではあるものの日差しは強く、残暑は厳しい。ピッチ上に立つ選手たちの高い集中力が伝わってきた。ピッチ脇のベンチに座るジーコの視線が熱く、いつも以上に熱のこもったトレーニングが行われている。思い通りにプレーができないと声を出して悔しがる選手を見ていると、「本番さながら」という言葉がぴったりと当てはまる雰囲気だ。

 7月18日リーグ再開から約1カ月の間に10試合を戦うハードスケジュール。特別指定選手の名古新太郎を加えた31名の選手のうち先発出場したのは22選手、途中出場のみ4選手と文字通り総力戦で、5勝3分2敗と粘り強さを見せている(記録は8月25日現在)。しかし、快勝という試合は少なく、チャンスを作りながらも決めきれない、決定力不足や、呆気ない失点など課題も多い。

 そんななか、8月28日には、ACL準々決勝の対天津権健戦が控えるだけに、わずかでも課題解消への足掛かりをつかみたいところだ。

 鹿島アントラーズは、過去数多くのワールドカップメンバーを輩出してきた。2002年日韓大会のメンバーだった森岡隆三もそのひとりだ。1994年に桐蔭学園から加入している。しかし、公式戦出場試合は1試合のみ。1995年夏には清水エスパルスへ移籍していた(当初はレンタル移籍)。その後、フィリップ・トルシエ監督のもとで、センターバックとして、シドニー五輪にオーバーエイジ枠で出場。アジアカップ優勝を経て、ワールドカップメンバーとなった。2007年京都サンガへ移籍し、2008年シーズン後に現役を引退。翌シーズンは京都でトップチームのコーチとして、指導者の道を歩き出し、2017年J3のガイナーレ鳥取の監督に就任したが、2018年6月にチームを離れた。 

 プロとしての第一歩を踏み出した鹿島での思い出を振り返ってもらった。

――桐蔭学園は、当時も高校サッカーでは強豪校のひとつでしたが、Jリーグもまだ発足したばかりでした。プロサッカー選手を目指していたのでしょうか?

「兄の後を追いかけてサッカーは始めたのですが、兄が読売クラブ(現東京ヴェルディ)の下部組織に所属していたので、僕自身もそういうふうには考えていました。ただ、桐蔭学園中学校を受験することになり、学業面のボリュームを考えて、部活でのサッカーを選びました。高校に上がる際、当時のサッカー部は少数精鋭、全国から優秀な選手が集まる強豪チームだったので、通常、内部進生は入れませんでした。けど、どうしてもレベルの高いところでプレーしたかった私は、李国秀監督にお願いして、練習に参加させてもらうところからのスタートでした。実際、練習になんとか食らいついてくのがやっとの日々の連続で、プロになるなんて、全く想像もしていませんでした。サッカーの名門大学へ進学できればいいなぁと思うこともありましたが、正直、先のことを考える余裕はなかったですね」

――それでも1年の最後には、レギュラーポジションを獲得し、ユース代表にも選ばれるようになります。

「高3のインターハイ直後(3位)に監督から『大学へ行くか、プロへ行くか休みの間に決めなさい』と言われたんです。休みといっても3日間しかなかったんですけど(笑)。プロという選択肢を初めて意識したのはこのときです。自分にもその可能性があるのかと思い、『可能性があるなら、プロへ行きたい』と両親に相談しました。それで3年やってみてダメなら、勉強し直して大学へ行くという約束をし、プロ入りの希望を監督に告げました。その直後に鹿島アントラーズの練習に参加させてもらったんです」




――1993年のことですね。Jリーグ開幕後のファーストステージで優勝したばかりの鹿島の練習に参加というのをどのように受け止めていたのでしょうか?

「高校生にとっては、強い=カッコいいというふうには思いましたね。しかも、当時のヴェルディが持っていた華やかなカッコよさとは違う、硬派なカッコよさは私の好みでした。そういうチームの練習に参加できるんだから、当然嬉しいですよ。桐蔭から数名で1週間くらい参加したんです。寮に泊まらせてもらって、先輩の車で練習場へ行きました。サテライトの練習に参加したんですが、とにかく最高でしたね。こんなにサッカーばっかりやっていられる生活があるのかって(笑)。また環境が素晴らしい。鹿島アントラーズがすごいのは、クラブハウスだけでも選手を魅了できるところ。ドイツ遠征で見たバイエルン・ミュンヘンの練習場と同じような感じで、『こんなのが日本にもあるのか』と思いました。ロッカールームの前にはお店であるような冷蔵庫があって、スポーツドリンクがぎっしり詰まっていて、『これは飲み放題なのか?』って思ったり、洗濯された練習着が用意されていて、自分で洗濯しなくてもいいのかと思ったり、与えられる分、相応の責任があるということも考えずに、呑気に『こんな幸せがあるのか』と思いましたね(笑)」

――しかし、当然選手のレベルも高いなかで、自分が試合に出られるだろうかという不安はありませんでしたか?

「そういうことは考えなかったですね。誰とポジションを争うのかということは一切考えなかった。まずはここへ入りたいという気持ちだけですね。たとえなかなかチャンスが巡ってこなくても、鹿島で前向きにコツコツやっていればきっと成長できると」

――当時のJリーグはトップのリーグ戦の試合数も多く、サテライトリーグも毎週のように試合があり、多数の選手が在籍しているので、段階を踏んでトップチームへというイメージだったのかもしれませんね。

「それでも、出来るだけ早くプロに近づきたいと思い、加入が決まってからは、まずは身体を作ろうと徹底的に鍛えました。1994年シーズン開始からチームに合流することが決まっていたんですけど、1月20日すぎには、寮へ行ったんです。でも、誰もいなかった(笑)。『みんな2月くらいにならないと来ないよ』と言われて、ひとりで自転車に乗って、クラブハウスへ行き、走り込みを続けたんです。そしたら、シーズン前のメディカルチェックで、両すね疲労骨折という診断が下されました(笑)」

――まさかのリハビリからスタート?

「はい。3カ月くらい出遅れました。同期の橋本(研一)や熊谷(浩二)はトップで試合に出ているのに……。夏になってやっと合流し、横浜マリノス(現横浜F・マリノス)戦で出場のチャンスがきたんですが、ラモン・ディアスにやられてしまいました。それでサテライトに舞い戻りチャンスが遠のきました」

――コツコツやっていくというふうに考えていながらも、同期がトップの試合に絡んでいるのを見ると焦りもありますよね。

「実際に守備ができていないんだという自覚もありましたし、とにかく必死でした。で、次はベンチに入れるかもしれないぞという手ごたえを掴んだとき、ユース代表に招集されて、チームを離れなくちゃいけなかったり。ユースでも試合に出られず、太って帰ってくるということもありました。そうするとサテライトリーグでベンチを外れることになったりして。トップのベンチ入りかというところから、一気にサテライトでのベンチ外ですからね。イライラすることも当然ありました。『もう今年は身体作りだ』と切り替えたら、今度は腰を痛めたり……そういう上手くいかないというジレンマとの闘いの1年間でした」

――ポジション争いというよりも自分との闘い。

「でしたね。自信がないからこそ『俺はほかの選手とは違うものがある』と、妙なプライドみたいなものを抱き、不安だからこそ吠えていたところもあったと思います。鹿島での生活はそこから抜け出すための時間だったとも思います。イライラ、ウジウジしてばかりだった僕は、先輩たちのかけてくれる言葉に救われました。時に厳しく、時に温かく。食事に誘ってもらったり、家に呼んでもらったり、時には寮のサウナでも。厳しいなかにも優しさや温かさがあって、それに包まれている感じです。鹿嶋は町も小さいし、町ぐるみでというところもありましたね。そのうえで選手と選手との距離感が近い。その空気に包まれているからこそ、オン・ザ・ピッチはもちろん、オフ・ザ・ピッチでも、自然と若手が大人になる、育っていく環境が鹿島にはありましたね。そうやって『プロの世界とは』というのが受け継がれている。それが鹿島の強みの一つなのではないかと思います」


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◆森岡隆三が鹿島で過ごした日々は 「ジレンマとの闘いだった」(Sportiva)




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