日刊鹿島アントラーズニュース

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2017年7月16日日曜日

◆【黄金世代】第3回・小笠原満男「栄光の16冠、究極のアントラーズ愛」(♯4)(サッカーダイジェスト)


いまでもずっと忘れられないワンプレーがある。



 1998年春、小笠原満男はJリーグ屈指の名門、鹿島アントラーズの門を叩いた。

 きっとすぐには通じない、そう覚悟していた。だが、居並ぶタレントもトレーニングの質も、想像をはるかに超えるレベルだった。

「試合に出れるようになるまで、3年がひと一区切りだとは思ってたけど、簡単じゃなかった。中盤にはビスマルクがいて、ほかにも同じポジションには増田(忠俊)さんがいて、もう誰も彼もが日本代表かオリンピック代表だもん。この面子の中で出れないのはしょうがない。でも、ここでポジションを獲れれば、それはイコール代表なんだとも思った。

 紅白戦なんて、いつも日本代表とやれてたわけで、楽しくないわけがない。本田(泰人)さんに何回も止められて、秋田(豊)さんに吹っ飛ばされてさ。なんで出れないんだって気持ちより、成長したいって充実感のほうが上回ってた。日本一の選手が集まってくるチームで、日々の練習から得られる確かなものがあった」

少しずつ出場機会を掴み、3年目の2000年シーズンにはついにレギュラーの座を射止めた。21歳にして、Jリーグ、ナビスコカップ、天皇杯の3冠を初めて達成するチームを力強く牽引したのだ。

「まだまだ上のひとたちに引っ張ってもらってる、伸び伸びやらせてもらってる時期だったけど、最終的に3つ獲れたからね。すごい充実感と達成感があった」

 今季で在籍20年目。積み重ねたタイトルの数は16にのぼる。当然ながら、(盟友・曽ケ端準とともに)Jリーグの個人最多タイトル保持者だ。「16個? そうなの? もう何個とか数えてなかったからなぁ」と微笑を浮かべる。

 例えば、思い入れの強いタイトルなどはあるのだろうか。

「劇的だったのは、メッシーナから夏に帰ってきたシーズン(2007年)じゃないかな。もう無理だろうってところから9連勝かなんかして、最終節でレッズを逆転したという。あれはなんかこう、劇的がゆえに印象がある。本音を言えば、突っ走って勝つのが理想なんだけど、いちばん嬉しかったのはあれかな。鹿島としても久しぶりの優勝だったしね(6年ぶり)」

 では、最強チームを選ぶとすれば、いつの時代か。

「そりゃもう、チームとして強かったのは、ジュビロと二強だった頃じゃないかな。まさに俺が入ってすぐの頃の。あれが最強でしょ。めっちゃ強かったもん。まだスタンドから観ることが多かったけど、1点取られようがなにしようが、絶対に負ける気がしなかった。ジョルジーニョ、ビスマルク、マジーニョがいてさ」

 ベストゴールやベストゲームといったありきたりな質問を切り出すと、小笠原は「どれがベストとかってなかなか決めれない。そういうのじゃないけど、いまでもずっと忘れられないワンプレーっていうのはある」と、記憶の扉を開いてくれた。



PKは運じゃない。俺は違うと思う。


 時は、1999年秋。ナビスコカップ決勝、鹿島アントラーズ対柏レイソルの一戦だ。ちょうど同じタイミングでシドニー五輪予選のゲームが国外で開催されていたため、本山雅志と中田浩二が不在。小笠原はベンチメンバーに食い込んでいた。
 
 試合は2-2のまま延長戦に入っても決着が付かず、PK戦に突入。後半頭から出場していた小笠原は6番目のキッカーを任された。
 
「そこでね、外してしまうわけですよ。俺が外して、次に決められて負けた。もう悔しいとかって次元じゃ片付けられなかった」
 
 たったひとつのキック。それが数え切れない人びとの人生と運命を変えうるのだと、身を持って学んだ。
 
「すごく大事なんだって思い知った。諸先輩方がいる中で、ジーコが『お前行け』って言ってくれた。嬉しくて、決めてやるぞって意気込んで、止められた。インサイドキックの重要性をあらためて痛感したし、疎かにしちゃいけないんだって。いまでも本当に忘れられない、印象深い試合。綺麗なゴールとかより、そっちのほうがよっぽど覚えてる。サッカー教室とかで子どもたちに話す時にも、よくこの話を使うくらい」
 
 せっかくなのでインタビュー中ながら、当時のプレー動画を一緒に観た。若かりし頃の自分の姿を恥ずかしそうに眺めながら、「明らかにコースが甘いよね」と呟く。
 
「この時、いったい何万人が悲しんだんだろう。ジーコがよく言ってたもんね。練習してる時は疲れてないから蹴れるけど、延長戦とかやった後で、足がボロボロの状態でも狙ったところに強く蹴れなきゃダメなんだって。いつもと同じ感覚じゃなダメなんだって。本当にその通りだと思った。メンタルも大事だし、ビビってちゃ決めれない。だからPKは運じゃない。俺は違うと思う」



中田は、やっぱりこのクラブの象徴なのかなって思う。



 鹿島のクラブハウスを訪れたのは、およそ8年ぶりだった。

 インタビュールームには過去の対戦相手のペナントやチーム歴代の集合写真が所狭しと張り巡らされ、クラブの重厚な足取りに圧倒される。建物すべてを覆う例えようのないパワー、自信と誇りがみなぎる選手たち、そして、小雨の中でもあしげく練習場に通い、声援を贈り続ける生粋のサポーター。なにもかもが変わっていなかった。

 そして、何度来ても思う。ここは、日本サッカーの宝なのだと。

 ジーコスピリット、そして鹿島イズムとは? 現チームにおいて、この男以外の誰に訊けばいいだろうか。

「俺らのロッカールームの入り口にさ、ジーコスピリッツと題して、3つの言葉が書いてあるの。献身、誠実、尊重。それがすべてを物語ってるんじゃないかな。チームのために戦う献身さ、素直に意見を言い合う誠実さ、お互いをリスペクトし合う尊重の心。チームはファミリーなんだってこと。いちいち言葉で語る必要はないし、試合で一生懸命やる姿勢を見せるだけ。若手とかに、『ジーコはこうだったんだよ』とか言うんじゃなくてね」

 長くキャプテンマークを巻いてきた。継承者としての気概は、並大抵ではない。

「ここはクラブ自体がそこを大事にしている。俺がキャプテンになった時、本田さんや秋田さん、ヤナギ(柳沢敦)さんがなにをやっていたか、どう振る舞っていたか、なにを話していたかをよく思い起こした。最高の見本があるわけだから、それを真似してきただけ。

 あの時こう言ってくれたな、こういう姿勢で臨んでたなって。決して練習では手を抜かないし、少々のことでは練習を休まないし、チームはひとつになって戦うんだって姿勢を見せてくれてた。結果を出してきた、勝ってきたって実績があるから、すべてが正しかったと思える。中田(浩二)もヤナギさんもそうだけど、最後の去り際が素晴らしかった。試合にあまり出れなくなっても文句ひとつ言わず練習を一生懸命やるし、ほかの選手にアドバイスを送ってね」

 同期入団でずっとともに切磋琢磨してきた中田に対しては、さらに熱が込もる。

「きっと悔しい想いはしてたと思うんだけど、最後までやり切ってこのチームを去って行った。中田は引退した年、一回も練習を休んでない。俺の記憶が正しければ。ほとんど試合に出てないのにああいう姿を見せられるって、やっぱりこのクラブの象徴なのかなって思う。恥ずかしいから、面と向かっては言わないけどね(笑)」



レアル? あと一歩で勝てたとか勘違いしちゃいけない。


 昨年末、鹿島はクラブワールドカップで快進撃を続けた。決勝ではレアル・マドリーをあわやというところまで追い詰めたが、一歩及ばず準優勝に終わる。

 あの試合後、小笠原がどこか満足げな表情を浮かべていたのが印象的だった。名だたる強豪クラブと渡り合い、広く世界に鹿島イズムを発信できたと──。
 
 で、訊きたかった。ぶっちゃけ、マドリーはどうだったの??
 
「本気じゃなかったと思うよ、あれでも。それでも勝てるくらい強かった。いつでも点を取れるんだって、あのレベルは。必要最小限で勝たれちゃったなぁって思うもん。いい勝負したねとか、もう少しで勝てたかもしれないとか言われたけど、差はあったよ。差はある。
 
 バルセロナとやってる時のレアル・マドリーじゃないんだから。そこを勘違いしちゃいけない。俺らだって天皇杯で格下とやる時みたいに、難しさがあったんだと思うよ、レアルにしても。あと一歩で勝てたとか勘違いしちゃいけない」
 
 酸いも甘いも噛み分けたレジェンドがそう言うのだ。
 
 こればかりは、謙遜ではない。
 
<♯5につづく>

取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
 
※7月10日配信予定の次回は、小笠原満男が日本代表で刻んだ「55キャップ」の舞台裏に迫ります。そして、わずか10か月間に終わったイタリアでの日々。そこでなにが起こっていたのか、真相が明らかになります。どうぞご期待ください!

http://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=27447

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