日刊鹿島アントラーズニュース

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2017年7月16日日曜日

◆【黄金世代】第3回・小笠原満男「ジーコジャパンの真相と、セリエA挑戦の深層」(♯5)(サッカーダイジェスト)


あの4人がいると、まあ出れなかったね。悔しさはあったよ。


 日本代表における小笠原満男のハイライトは、はたしてどの時期だろうか。
 
 国際Aマッチの出場記録は、55試合・7得点。この数字を本人に伝えると、少し驚いたような表情を見せ、「そんなに出てたの? びっくりだね」と目を丸くした。
 
「代表に選ばれるって本当に光栄なこと。みんなが行きたくても行けない場所だし、限られたひとしか行けない。なかなか出れなかったから、悔しい想いをしたなぁってのはあるけど、思い出はたくさんある。55試合も出たって実感はないけどね」

1999年のワールドユースで眩いばかりの輝きを放った小笠原だが、その後のシドニー五輪代表では一度もメインキャストとはなれず、フィリップ・トルシエ監督との間にあった微妙な距離は、一向に縮まらなかった。

 ところが、2002年日韓ワールドカップ目前の3月に、急転直下の展開を見せる。親善試合のウクライナ戦に初招集され、A代表デビューを飾ったのだ。そしてなんと本大会の登録23人枠にも食い込んだのである。

 本人も周りも、あっと驚くサプライズ選出だった。

「正直、2002年は行けると思ってなかった。冷静に見たら難しいと。だから驚いたよね。なんで呼ばれたのかは……いちいち(トルシエに)訊いてないから分からない(笑)。なんでだったんだろ。とくになにも言われなかった。

 試合はチュニジア戦(グループリーグ第3戦)にほんのちょっと出ただけだけど、日本の国中が応援してくれたから、嬉しかったよね。サッカーの力ってすごいなって実感した。ホテルから会場に行くまでの道路沿いで、ずらっと並んで日の丸を振ってくれてさ。いい経験をさせてもらった」

 そして、恩師ジーコが代表監督に就任する。すると小笠原は中盤に欠かせない存在となり、ドイツ・ワールドカップまでの4年間、すべての試合や遠征に招集された。

 だがそれは、自問自答を続ける葛藤の日々でもあった。

「トルシエさんの頃に比べたら割と使ってもらえるようにはなった。でも、海外でやってる選手が帰ってくると出れない、いなければ出れるっていう構図。なんとか覆して自分のポジションを確立したいと思ってたけど、ヒデ(中田英寿)さん、(中村)俊輔さん、シンジ(小野伸二)、イナ(稲本潤一)の4人がいると、まあ出れなかったね。悔しさはあったよ」




あの時のシンジの姿勢がいまでも忘れられない。



 そんな中でも、ひとたびピッチに立てば、小笠原は印象深い働きを披露した。その最たるゲームが、2005年6月3日のドイツ・ワールドカップ最終予選、敵地でのバーレーン戦だ。圧巻のパフォーマンスを示し、鮮やかなミドルシュートを蹴り込んで1-0の快勝に貢献。3大会連続出場をグッと引き寄せる、貴重な3ポイント奪取だった。

 このバーレーン戦の前日、小笠原は生涯忘れることのない出来事に遭遇する。

「あの試合は、シンジが直前の練習で骨折して、俺に出番が回ってきただけ。急きょ出ることになったわけだけど、あの時のシンジの姿勢がいまでも忘れられない」

 日本でのキリンカップで散々なパフォーマンスに終始し、ジーコジャパンへの風当たりは日増しに強くなっていた。チーム内にも不穏な空気が立ち込め、中東入りしてからもムードが高まってこない。そこで危機を察した主将の宮本恒靖が呼びかけ、選手たちだけで話し合いの場を設ける。上も下も関係なく大いに意見をぶつけ合った。

 大事な2連戦(バーレーン戦と北朝鮮戦)を前に、チームはなんとか一枚岩となれた。いわゆる「アブダビの夜」だ。

 その翌日だった。バーレーンに移動した直後の練習で、小野が右足の甲を骨折してしまう。2日後のバーレーン戦はおろか、長期離脱を懸念されるほどの大怪我だった。

 ミツオはよく覚えているという。

「シンジ自身、出れなくなってそうとう悔しかったと思う。それだけ大事な試合だったからね。でもさ、怪我した後なのに心配させまいと、食事の時とかでも、みんなの前でニコニコしてて……。その直後、俺が代わりに出るような雰囲気になって、声をかけてくれた。『頑張れよミツ、応援してるからな』って。このひと、本当にすげぇなと思った。

 ずっとシンジが出てて俺が出れなくて、多少なりとも悔しいとか思ってた自分が恥ずかしくなった。バーレーン戦は、シンジに頑張ってくれって言われたから、頑張っただけだよ。シンジの代わりを果たしただけ。自分の感情を抑えて笑顔で振る舞って、代わりに出るヤツに頑張れって……。感じるものはすごくあったし、いまでも忘れられない」

 鬼気迫るプレーで中盤を牽引し、決勝点も挙げる奮迅の働き。ゴールを決めた後には、めずらしく雄叫びを上げた。

 友に捧げる、会心の一撃だった。


すべて一回ぶち壊して、勝負してみたいってのがあった。



 1年後、ジーコジャパンはドイツに降り立った。結果は、グループリーグを1分け2敗で終える惨敗。小笠原はクロアチア戦(第2戦)とブラジル戦(第3戦)で先発を飾った。

「いろいろ言われたけど、俺はすごくいいチームだったと思うし、もっと勝てるチームだった。海外でプレーする選手が多くて経験値もあんなに高かったのに、なんで勝てなかったんだろうって。なんかバラバラだったみたいな意見もあったらしいけど、単純に結果として負けただけで、実際はすごくまとまってたんだよね。

 よく言われた海外組と国内組、世代間がどうとか、まるでなかった。ツネ(宮本)さんとヒデさんを中心に、なにかあればよく話し合ったし。ものすごくいいチームだったと思う」

 ワールドカップが終わってほどなく、小笠原は自身初の欧州挑戦に乗り出した。セリエA、メッシーナでの10か月間だ。

 とかくこの挑戦を、失敗だったと見る向きが少なくない。それもそうだろう。リーグ戦には6試合(1得点)しか出場できず、コッパ・イタリアなどを合わせても、公式戦で10試合しかプレーしていない。ベンチ外だったゲームがほとんどだ。

 だが、それでも、ミツオにとってはかけがえのない充実した日々だった。

「まあ、よそから見たらほぼ活躍できずに終わった1シーズンかもしれないけど、俺の中では本当に濃かった。鹿島でずっと試合に出させてもらって、代表にも常に呼んでもらってたところで、なんとなくマンネリ化じゃないけど、そういうのをすべて一回ぶち壊して勝負してみたいってのがあった。

 行ってみたら、実際そうなのよ。おまえは誰だってところから始まって、ただの日本人じゃねえかって。なにもかもを一から証明しなきゃいけない。プレーもそうだし、言葉もそうだし、いろんなものを一から築き上げていく作業が全部面白かった。試合に出れなかったのはすごく悔しい。だからこそ出たい、絶対に使ってもらいたいと必死に取り組めたのが、本当に新鮮に感じられた。

 それこそ清雲(栄純)さんが監督の時のユース代表や、鹿島に入ったばかりの頃と同じ感覚。それを感じられたのが、なによりの財産になった」



冗談で『ヤナギサワラ』とか言われたけどね。


 磨き上げられたのは、イタリア仕込みの守備センス。やがてフットボーラー小笠原はマイナーチェンジを完成させ、さらなる進化を遂げるのだ。
 
「それまでは攻撃的な選手としてやってたけど、メッシーナで初めてボランチ気味にプレーした。強いチームじゃないから守備の時間がすごく長いわけですよ。いかに相手からボールを奪うかが一番大事なところで、とにかくそこの強さを求められた。
 
 守備で魅せるような選手じゃなかったじゃない? それまでの俺は。でもメッシーナではすごく学んで、鹿島に戻ってきてからもいちばん表現したいのがそこだった。相手からボールを奪うってところ。得るものが多かったし、本当に濃い時間だった」
 
 本音を言えばもっと欧州でプレーしたかったが、メッシーナがセリエBに降格し、そもそも鹿島とはレンタル契約だった。「ほとんど試合に出れてなかった俺に、(鹿島は)帰ってこいと言ってくれた。素直に嬉しかったよね」と、復帰を決意した。
 
「もしスペインとかでプレーしてたら、本来の攻撃なところに磨きを掛けられたのかもしれないけど、オファーがなかったからね。でも、イタリアだからこそ学べたものがある。俺に足りない守備力を高めてくれたし、人間としても成長させてくれた。いいチームに行ったのかなって思うね、いまとなれば」
 
 イタリア南部の島には、奥さんと娘たちも連れていき、ともに充実した日々を過ごした。
 
「ぜんぜん苦じゃない。むしろ楽しかった。町ゆくひとには、ヤナギ(柳沢敦)さんもちょっと前までいたから、冗談で『ヤナギサワラ』とか言われたけどね。食事はおいしいし、言葉を覚えて買い物に行ったり、いろんなとこ旅行に行ったり。子どもは地元の幼稚園に入ったんだけど、最初は泣きながら通ってたのが、いつしかイタリア語で『水ちょうだい』とか言えるようになったりね。家族みんなで頑張って成長しながら、言ってみれば、苦労を楽しめた」
 
 帰国して鹿島に戻ると、愛着のあった8番は野沢拓也が着けていた。そこで小笠原はなにを思ったか、背番号40を選ぶ。以後、現在に至るまでずっと、チームにおける“最大ナンバー”が代名詞だ。
 
「何番にしようかなーと。なんか一桁って誰かのイメージがあるじゃない。だから誰も付けたことがない番号がいいなって。海外だと99番とかもあったから『マックス選べるの?』って訊いたらダメで、40までだって言われた。だから、深い意味とかまるでない(笑)」
 
<♯6につづく>
 
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
 
※7月17日配信予定の次回は、フットボーラー小笠原満男の真髄と、その内面にぐいっと切り込みます。深すぎるサッカー観に迫りつつ、東北人魂の「これから」、引き際のビジョン、さらにはサッカーを始めた実息への想いまで──。最終回も、ぜひお楽しみに!

http://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=27637

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