日刊鹿島アントラーズニュース

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2016年7月16日土曜日

◆鹿島の強化部長を20年間務める男。 鈴木満が語る監督、OB、鹿島の流儀。(Number)


http://number.bunshun.jp/articles/-/826065

鹿島ほど「強豪」という言葉が似合うクラブはない。その紛れも無い中心の1人が、鈴木満強化部長なのだ。

 6月25日ファーストステージ最終節。鹿島アントラーズはアビスパ福岡を2-0でくだし、ステージ優勝を飾った。終盤6連勝の盤石な体制で、他チームが取りこぼす中で勝ち点を失わず、逆転での優勝となった。しかし、圧勝を重ねて追い上げたわけではなかった。

「この何試合かは、いい内容の試合だったわけじゃない。良くない時間帯もあったし、失点してもおかしくないシーンもあった。それでも内容が悪くても勝つ術を持っているのがこのチーム。ピッチで話し合いながら、勝機を見出し、再び自分たちのペースにできる」

 福岡戦後に、キャプテンの小笠原満男もこう語っている。

 開始早々の福岡の勢いをなんとかしのぎ、セットプレーから先制点を手にした鹿島は、終始落ち着いた戦い方をしてみせた。追加点が決まり迎えた後半は、リスクを冒さず、うまく時間を使いながら、試合を進める。ピンチになっても慌てず、1対1の場面ではキッチリと身体を張って戦う。そして、ギアをアップさせて攻勢に出るときも、ギアをダウンさせて守勢にまわるときも、ピッチに立つ11人が、まるで事前にプログラミングされたかのようにひとつの意思のもとで動いている。まさに鹿島アントラーズの代名詞でもある“試合巧者”ぶりが発揮された試合だった。

「去年よりも今年成長したのは、試合運びの部分。『今はリズムが悪い、相手にやられている』というときも、それを選手全員が共通認識できている。『ちょっと相手に持たせておこう』とか、『この時間帯は力を溜めておこう』というのができるようになった」

 目を細めながらこう振り返ってくれたのは、鹿島アントラーズ常務取締役強化部長、鈴木満だ。

鹿島の強化部長を20年務める、通称“マンさん”。

 宮城県出身の鈴木は、中央大学から住友金属工業へ入社し、サッカー部で選手として活躍後、1989年に監督に就任。Jリーグ発足に伴い鹿島アントラーズが誕生すると、ヘッドコーチの任につき、1993年ファーストステージ優勝に貢献。1996年から20年にわたって鹿島の強化部長を務めている。

 Jリーグ年間王者7回、ナビスコカップ6回、天皇杯4回のタイトルを持つ強豪クラブの編成を20年間続けてきた。アントラーズには“鈴木”という姓を持つ幹部が複数いて、スタッフや選手だけでなく、マスコミ関係者の間でも自然とファーストネームを使うことが多い。

 本来は満(みつる)さんだが、“マンさん”と呼ばれる鈴木強化部長は、その愛称同様に親しみやすく、チャーミングな人だ。「写真撮影があるなら、床屋に行って来ればよかったよ」と頭をととのえ、シャツの襟を直しながら、取材がはじまった。

「新加入選手を育てるスタイルを大事にしているけど」

――昨日、カイオ選手のUAE1部リーグのアル・アインFC移籍が発表されましたね。

「カイオとも話して一度は正式に断ったんだけれど、優勝が決まった直後に再オファーが届いて、かなり良い条件を提示されてカイオ自身も耐えきれなくなって、急転直下でまとまった」

――カイオ選手はブラジル人選手ですが、千葉国際高校卒業後に加入。戦力として結果を残し始めたところでの移籍は、痛いですね。内田篤人、大迫勇也と若くして海外移籍する選手が続くのは、チーム編成をするうえでの意識変化を生みましたか?

「選手が高い評価を受けるというのは、うれしさもあるけれど、“抜かれる”という状況になるのも事実。行ってしまうのであれば、また育てる、また作っていくという意識をより一層強く持つようにはなった。うちは高卒なり、大卒の新加入選手を育てていくというスタイルを大事にしているけれど、ここ数年は他クラブの選手を即戦力として獲得することも重要だと考えています」

チームの幹になる外国人の獲得が難しくなった。

――補強という意味で、鹿島は長年ブラジル人選手が多く在籍していますが、外国人選手に求めるものに変化はありますか?

「Jリーグが発足して2000年の前半頃までは、チームの幹となる外国人選手がいて、日本人選手がその枝葉という感じだった。そういう選手たちがプレー面だけでなく、メンタル面でも日本人選手に多くの影響を与えてくれた。

 でもここ10年くらいは、日本人選手で幹を作り、足りないところを外国人選手で補うというふうに変わってきた。それは、日本人選手が育ってきたこともあるけれど、実際に日本人選手に影響を与えてくれるような幹となる選手を獲得することが難しくなったというのも事実です」

――値段が高いからですね。考えてみれば鹿島は昔から、2トップふたりが外国人選手ということはやってこなかった。

「必ず、日本人選手とコンビを組むような意識で編成してきた。それは日本人選手を育てるという意味もあるし、2トップが外国人選手だと、若い選手が『鹿島へ行こう』という気持ちを持てず、スカウトしても来てくれない。中長期的な目線で見たときにチームの安定には繋がっていかないから」

石井監督はなぜあのタイミングだったのか。

――昨年、金崎夢生選手をレンタル移籍で獲得しました。名古屋グランパス時代も含めて長くMFとしてプレーしてきた金崎選手のFW起用に驚いたのですが、獲得時からFWでと考えていたのでしょうか?

「はい。そこはポルトガル時代の映像を見たり、情報収集するなかで、夢生自身がシュートの意識を強く持つようになったことも確認していたから。実際に起用を決めるのは監督だけれど、FWとしてもありだというふうには考えていました」

――監督についてですが、昨年セカンドステージ第3節後に、トニーニョ・セレーゾ監督から、石井正忠さんに監督交代。ファーストステージの成績が芳しくなかったことを考えると、なぜこのタイミングだったのかとも思いましたが。

「それは多くの人に指摘されますよ。石井に代わったあと6連勝があり、『もっと早く交代していれば、セカンドステージ優勝だってできたんじゃないか』とね。でも、あのタイミングしかなかった。

 ファーストステージの最後に、(柴崎)岳が負傷で離脱してしまい、その岳が4節で戻ってこられるというタイミングだったし、監督交代がカンフル剤になるだろうとも思っていた。4節、5節と続いたあとに2週間弱インターバルがあったので、そこで調整もできる。上り調子になる絶好のタイミングがあそこだった。もし、シーズン当初から石井が就任したとしても、こういう結果になっていたかどうかはわからないですし、ギリギリではあってもベターなタイミングだったと思います」

「セレーゾは事細かく選手に指示を出すから」

――2009年の3連覇後、2012年にジョルジーニョが監督に就任した時は、わずか1年でセレーゾ監督に交代しました。

「ドイツでのプレー経験もあるジョルジーニョという若い監督に指揮をとってもらうことで、ヨーロッパの要素をチームに与えてほしいと期待していたけれど、うまくいかなかった。

 そこから2、3年は、世代交代の時期だと思ったので、若い選手を鍛えてもらおうとセレーゾにお願いした。セレーゾは事細かく選手に指示を出すから、若手にとっては厳しい監督だったと思うし、徐々に監督の指示に対して、選手が萎縮するような場面もあった。だから、セレーゾに『あんまりいろいろ言い過ぎないほうが良い』という話もしたけれど……」

監督は外国人でも、コーチは常に日本人。

――鬼軍曹だったセレーゾに鍛えられて若手は成長したけれど、彼らが伸び伸びと自信を持ってプレーできる環境ではなかったのでしょうね。そういう状況での監督交代で、能力が弾けた、と。

「なかには『ジョルジーニョのあとにすぐ、石井を就任させればよかったのでは』という人もいるけれど、セレーゾがいてくれての石井だから結果が出ているのも確かなんだ。初代の宮本(征勝)さん以降、ずっとブラジル人監督が指揮してきたけれど、日本人監督もプロ経験者がS級でしっかり勉強をした人材が出てきているし、石井はもう10年以上トップチームでフィジカルコーチやコーチを務めてきたから、監督を任せても問題ないと判断したんだ」

――ブラジル人監督であっても、常にコーチは日本人を置いていますよね。

「そこはずっと変えていない。監督が自分の片腕のような人間を連れてきてヘッドコーチにしたいと言っても、全部断ってきたから。今、剛(大岩剛)やヤナギ(柳沢敦)やハネ(羽田憲司)とOBがコーチを務めているのも、血を薄めないひとつの手法なんだよ。OBを現場に戻すうえでは、年齢的なものや役割、性格、バランスやタイミングなどいろいろと考えて、どう組み合わせていくのかを判断している」

「やっぱりチームに波はつきものなんだ」

――鹿島は1993年から20年以上の間、年間順位が6位以下になったのは3度だけ。タイトルから遠ざかる時期があっても、大きな転換をすることはなかったように思います。

「確かに勝てない時期はあった。やっぱりチームに波はつきものなんだ。波はないほうがいいよ。だってずっと勝っていたいから。

 でも下降するような兆しが見えたら、我慢なんだ。もちろん勝つことが大事だけれど、今いる選手を育てていく、育成の割合を大きくしていく時期も必要なんだよ。そうしないと彼らは“昔強かったチームにいるだけの選手”になってしまうから。そういう波をうまく作っていかないと、ガーって上昇したけど、またガーって落ちてしまうことになるから」

ステージ優勝では、胸に星印は増えない。

――そして昨年ナビスコカップで優勝したチームは自信をつけて、今季ファーストステージを獲りました。また新たな時代が始まりますね。

「ナビスコカップを獲れたことは本当に大きいし、あそこで勝ちきったことで、今季はJリーグのタイトルが狙えるチームになったなと思っていた。でも、年間優勝をしなくちゃ始まらない。

 2007年の最後に9連勝して優勝し、そこから3連覇となったけれど、2007年時点であのチームが強かったかって言ったら、そうでもなかった。どっちに転ぶかわからないようなチームだった。でも、2007年勝ちきって優勝したから、『自分たちは優勝争いをし、優勝するチームだ』という自覚が生まれて、強いチームになった。

 今年もファーストステージを獲って、『それでいいや』なんて思っている選手はいない。それが優勝の力であって、彼らの成長の証だと感じている。ファーストステージを獲ったと言っても、それは本当のタイトルじゃない。この胸につけられるタイトルじゃないことは選手が一番わかっているから」

試合前のミーティングにも必ず参加する。

――ステージ優勝では、ユニフォームに星印は増えないと。そういえば、日本では「強化部長が監督に昇格」なんて記事が出たりします。本来は強化部長のほうが監督よりも上の立場なのに……。

「チームを編成するうえで、代理人とのつきあいやいろんな情報を集めて、選手をマーケットから取ってくるという仕事も強化部にとって大事だけれど、やはり、一番難しいのが監督との立ち位置、監督との信頼関係をどう作っていくかだと思う。だから、Jリーグの会議などでJの社長さんに『強化部長やGMが、監督との関係を築くうえで必要な権限を与えてほしい。その重要性をわかってください』という話をすることもあります」

――強化部長として監督と戦う場面もあるわけですよね。

「戦うというか、僕は言うべきことはキチンと監督に伝える。『こうしたほうがいいよ』と思うことはどんな監督にも言ってきた。練習方法や選手起用、試合中の指示は監督の専権事項だから、最終的には任せるけれど、監督に任せっきりになってもいけないし、あまりでしゃばってもいけない。そこの加減は考えるけれど、僕は監督が成功するため、チームが勝つためにアドバイスをし続ける。

 監督には試合前のミーティングに強化の人間を入れない人も多くいるらしいけど、うちで監督がそんなふうに言ったら、監督が交代することになる。監督がどんな指示を出しているかわからないと、選手を評価できないし、監督の評価もできないからね」

プレッシャーがかかる試合になると、「うちは強い」。

――他クラブの方から「どうすれば鹿島のような強いチームを作れるんですか?」と聞かれることもあるのではないですか?

「『秘伝のたれとかあるんじゃないか』と言われることもあるよ。僕は質問されたらすべて答えるし、隠すことはない。うちのクラブハウスを見学したいと言われたら、どうぞ見てくださいという感じだし。どんどん真似してくださいと言うけれど……」

――でも「満さんのようにはできません」という感じなのでしょうね。

「僕が一番変えちゃいけないと思っているのは、ここの空気感。グラウンドに入って、練習から全力でやる。自分のためチームのためにやること。負ける要素を引き出して、それを無くすような作業を選手同士でやれる。そういう空気感を無くすと普通のチームになっちゃうから。だから、ここへ来たら特別なんだよというのは無くしちゃいけない。でも空気だから、いろんな人が勉強に来てもわからないのかもしれない(笑)」

――結局、最終節に勝ちきって逆転優勝してしまう。その鹿島の強さの秘訣、秘伝のたれは日々の空気感にあると。

「最近思うのは、決勝戦みたいな雰囲気、お客さんが入って、注目されて、この試合に勝つのと負けるのとでは全然違うんだというプレッシャーがかかる試合への入り方というのは、僕が見ていてもこいつらはすごいなと思う。ああいう試合になったら、うちは強いんだよね。そういう意味では、選手から選手への伝承というのがとても大きい。『鹿島アントラーズというのはこういうチームなんだ』と言ってくれている。だから血が受け継がれているんだよね」

内田篤人と大迫勇也がチームに還元した鹿島の流儀。

――「アビスパ福岡戦前日に、ミニゲームに参加した内田選手と大迫選手が『こうやって勝つんだぞ』というプレーをしてくれた」と、小笠原選手が語っていました。

「彼らは必死で練習しているからね。『篤人のリハビリをやってほしい』と協会から依頼されたときに、石井に言ったのは『できるだけトップチームと同じ時間帯でリハビリをさせてくれ』と。日本代表でも海外でもあれだけ長く活躍して、チャンピオンズリーグにも出た経験を持つ選手がそばにいることで、若い選手が得るものは大きいはず。それに、逆にいったんここを出た篤人や大迫が今、鹿島を見てどう感じるのかというのを選手たちに伝えてもらいたいというのもあった。

 実際、リハビリ中の篤人がいっしょにメニューを消化することはできなくても、やっぱり大きかったと思っている。僕が何十回と説教するよりも、篤人や大迫といっしょに練習することでいろんなことを伝えてくれたから。鹿島の流儀であったり、空気感であったりを」

――ドイツで戦う選手に必要なものも、その佇まいやひとつのプレーで伝わるでしょうからね。

「本当に大きな効果があったよ」

変化する部分と、ジーコが残してくれたもの。

――鹿島には、揺るがない伝統があると言われていますが、実際は頑固な姿勢を貫いているだけではないだろうと思うのですが……。

「もちろん、サッカー界の環境の変化に対応していなかったら、生き残れない。ただジーコが作ってくれたこのチーム、ジーコが残してくれたものを消さないようにするのが僕の役目だと思っているし、それは僕自身が仕事をやりやすくするためでもあるから。選手たちには『ここは実家なんだから』と話すんだけど、こういうクラブにしたい、こうなりたいと考えていた姿になっているなと感じています」

鹿島は4度目の黄金期を迎えようとしているのだろうか。

 献身・誠実・尊重。

 これはクラブ創設時にジーコが掲げたジーコスピリッツだ。その言葉とともに「FAMILIA ANTLERS」(アントラーズファミリー)と明記されたボードは今もクラブハウスのロッカールームにあり、今もなお変わらず、背骨のようにクラブを支えている。

 変えないやり方はもちろんある。守るべき伝統もある。しかし、それだけに注力しているわけではない。

 石井監督への交代タイミングがそうであったように、鈴木は繊細な観察力でチームの空気を読む。ミーティングに誰をどのタイミングで呼ぶのか? いつ、どんな状況で選手と話をすべきか? 監督にどんな言葉をかけるのか? チームを編成し、強化するうえで必要な配慮を見のがさず、それを欠かさない。

「小さなことが大きな影響を生む」と語る鈴木の細やかさが、「FAMILIA ANTLERS」の空気を作っている。だから、いつ選手がそこへ戻っても、実家に帰ってきたような安心感を味わえる。

 Jリーグ全体の問題として、主力の若手選手の海外移籍が増え、チームの幹となるような強力な外国人選手の獲得も難しい状況は簡単には変わらない。

「だからどのチームも強くなりきれず、力が拮抗し、ちょっとしたことで降格してしまうし、昇格即優勝というような現象が起きている」

 そう分析する鈴木の手によって、鹿島は1996~1998年、2連覇した2000~2001年、3連覇の2007~2009年につづく、4度目の黄金期を迎えることができるのだろうか?

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