日刊鹿島アントラーズニュース

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2018年6月28日木曜日

◆柴崎岳と大迫勇也 “寡黙なふたり”はなぜチームの中心になれたのか(文春オンライン)



柴崎岳 ロシアW杯


 2度もリードを許したものの、2-2と引き分けに持ち込んだセネガル戦後。取材エリアにキャプテンの長谷部誠と大迫勇也の姿はなかった。ともにドーピング検査が長引き、ベースキャンプ地へ向かうチャーター機の離陸時間が迫ったことで、取材対応をしなかったからだ。

 そんなミックスゾーンで最後まで取材に応じていたのが、柴崎岳だった。

あの夜、日本代表は柴崎のチームだった

 守備陣と攻撃陣とを繋ぐ、ボランチというポジションでプレーした柴崎は、攻守に渡りチームを牽引した。この日の日本のMVPを挙げるなら、得点した乾貴士でも本田圭佑でもなく、柴崎だろう。最初の得点ではピッチ中央から長友佑都へ長いパスを出し、そこから乾の得点が生まれた。ほかにも相手ボールを奪い、何本も決定機を演出する縦パスを送っている。この夜、日本代表は柴崎のチームだったと言っても過言でない。しかし、いやだからこそ、彼に満足感はなかった。

「悔しいですね。 勝てるゲームだったと思いますし、その可能性も十分にあったので残念です。失点は防げたと思いますし、得点も多くチャンスを作り出せたので、決めきらなければならない。攻守両方にゴール前での精度をもう少し上げなきゃいけない。僕自身、ボールを触る回数が少なかった。それでも、セカンドボールを拾うところはある程度できたと思います。チームの二次攻撃に繋がるプレーもできたかなと思います。ゴール前に迫る回数が徐々に増えてきていると思うので、そこは継続してやっていきたい。自分に対して、もっとできるだろうという気持ちが強い。納得していない部分が強い」





 自身のプレーや試合内容を振り返る。試合前日の取材では、「僕のパフォーマンス次第だと思います」と自身が担うモノの大きさを自覚し、それに見合う仕事ができるという自信をのぞかせた。

 そんな柴崎の姿に、「メディア嫌い」と噂されたこともある鹿島アントラーズ時代の面影はなかった。1年半のスペインでの時間が彼を変えたのだろうか。不甲斐ない試合をしたときはもちろん、どんなに活躍しても、その発言はわずかなものだった。今も寡黙な一面は変わらないが、自身の感情やプレーについて、丁寧に語る姿は、当時の柴崎を取材していた人間にとって、驚きでもあった。

出れば何かを残せる男、それが柴崎だ

 10代のころからその才能を高く評価され、U-17ワールドカップ出場時には10番を背負っている。Jリーグからの争奪戦も当然激化することが予想されていたが、高校2年のとき、鹿島アントラーズと仮契約を交わす。

 プロ入り後は強豪クラブで先発の座を手にするのは容易ではなかった。それでも出場機会を得るとそのプレーは強く印象に残った。




 2011年10月9日Jリーグヤマザキナビスコカップ準決勝対名古屋グランパス戦。大迫勇也のゴールで先制するも同点に追いつかれた延長後半107分に柴崎が決勝ゴールを決める。この試合ボランチでプレーした柴崎は、ピッチの中央でバランスをとる仕事に注力し、あまりゴール前へ上がることがなかった。確か2度か3度だったように記憶している。しかし、そのうちの1度で得点を決めたのだ。その嗅覚に驚かされた。

「不安障害」に陥ったと報道されたことも

 柴崎がこの大会で最優秀選手賞を獲得したのは、決勝戦で2ゴールを決める2012年だったが、若きゲームメーカーは非凡な才能を示し続けていたのだ。

 鹿島でも試合経験を重ねていた柴崎だったが、日の丸とは縁遠かった。2014年のロンドン五輪代表チームにも選ばれてはいない。それでも柴崎自身の海外志向は強かった。しかし、なかなか納得のいくオファーは届かなかった。そして2016年、クラブワールドカップ決勝戦でレアルマドリード相手に2ゴールとブレイク。2017年スペイン1部リーグのクラブへ移籍という報道が流れ、海を渡ったものの、結局、2部のテネリフェに移籍。当初は慣れない環境での苦闘が始まる。「不安障害」に陥ったと現地で報道されるほどだった。それを克服し、シーズン終盤にはチームを牽引した。その活躍が評価され、2017年夏には1部のヘタフェへ移籍している。初ゴールはバルセロナ戦だった。





内田篤人を変えたドイツでの経験

 海外のクラブで味わう厳しい生存競争は孤独な戦いだ。それは選手を大きく変える。

「若いころは、サッカーに対する熱さは自分のなかに隠していればいいやと思うところがあった。でもドイツへ来たら、自分の感情を引きずり出された。そうじゃないとやっていけない。『人のうしろでもいいや』と思っていたけれど、前に出ないと生き残れないから。それは海外へ行ってみないとわからないことだった」

 今季、ドイツから帰国し、鹿島アントラーズに復帰した内田篤人がそんなふうに語っていた。柴崎も同じなのかもしれない。自己主張しなければ、何も感じていないのと同じ。そんな欧州文化のなかで、生き残るために、ひとつ殻を破ったのだろう。

 多くを語らずとも、プレーに支障のなかった鹿島時代とは違い、スペインでは黙したままでは、埋もれてしまう。熾烈なレギュラー争いのなかでは、自分のミスを認めない選手もいる。主張しなければ、負け犬のままで終わってしまうのだから。

 自分の居場所を作るためには、たとえ言葉の壁があったとしても、コミュニケーションは必要不可欠だ。そこから逃げれば、サッカーもうまくはいかない。

 それはメディアも同じだと柴崎はスペインでの孤独な戦いのなかで感じたに違いない。もちろん、彼が身に着けた自信がメディアへの発言にも繋がっているだろう。





大迫はドイツで何が変わったのか

 同じく鹿島アントラーズ出身の大迫もまた、ドイツへ渡り変わった。

 彼が最初に所属したのは、1860ミュンヘンという長年2部に所属するチームだった。加入直後、初出場初ゴールを決めると6試合で4得点と違いを見せた。しかし、その後はゴールから遠ざかっていた。

 2014年4月、前半で4失点し、2-4と敗れたドレスデン戦を現地で取材した。大迫自身のゴールもない。鹿島時代ならメディア対応はしなかっただろう。しかし、彼はメディアの前に自ら立ち、「こんな不甲斐ない試合をしてしまって悔しい」と強い口調で語った。彼の思いが伝わってきた。





 同時に大迫のプレーに違和感を抱いた。プレーエリアが非常に狭くなっていたからだ。ゴール前でディフェンダーと駆け引きしながら、何度も動きなおしを繰り返し、味方のパスを引き出すという彼のストロングポイントが活かせていなかった。エースをつぶそうとする、大柄な相手ディフェンダーに苦労している印象だった。そういう相手であっても、彼のポジショニングや動きで対応できるはずだろうにと思ったからだ。

フォワードらしい図太さを3カ月で身に着けた

「あまり動きなおしをすると、『パサーが見失うから、動くな』って言われているんですよ」

 数日後、練習場で話を聞いた大迫はそんなふうに現状を語った。ドイツとはいえ、どのチームも選手の質が高いわけではない。特に2部ともなれば、フィジカル重視で戦うチームや選手も多い。視野の広さでいえば、日本人選手のほうが広いのだろう。

 しかし、その日見た練習での大迫は、試合以上に動き、味方に声をかけパスを要求していた。





「僕は諦めないですよ。味方とうまくコミュニケーションが取れれば、変わっていくと思うから」

 パスが出てこなければ、仕事ができない。それがフォワードだ。Jの強豪クラブ鹿島とは違うチームメイトに対して、不満を口にすることもなく、そして、周囲に合わせるのではなく、自身に合わせろと強く要求することを躊躇わない。ドイツへ来て、3カ月ほどだというのに、大迫には欧州でプレーするフォワードらしい図太さを漂わせていた。

「サイドで出るなら、出ないほうがいい」

 そして大迫が示したフォワードとしての矜持は、2014年に1部ケルンへ移籍しても保たれていた。

 ケルン2シーズン目の15-16シーズン。ケルンの1トップにはフランス人ストライカーが起用され、大迫はサイドやトップ下などでプレーしている。トップ下ならまだしも、サイドでのプレーではまったく彼の強みが見られなかった。高い技術力があるから器用にこなすことはできても、便利屋として使われている印象が拭えなかった。2016年春に見た試合。サイドで出場し、相手を後ろから追いかけるような守備をする姿を目にし、移籍をしたほうがいいんじゃないかとすら思った。実際、ドイツメディアからも大迫の移籍報道が流れている。




「FWでプレーできないという葛藤はあった。でも、やっぱり、このままじゃ終われない。サイドで出るなら、いっそ試合に出ないほうがいいとも考えた。監督には何度も、『FWでやりたい』と話している。監督もわかってくれてはいたんだけど、『今は1トップでうまく行っている。でも(サコを)試合に使いたいから』と言われていた」

監督に対して自己主張するのは当然の権利

 たとえ、どんなポジションでも試合出場機会は貴重だ。しかし、大迫は黙ってそれを受け入れているわけではなかった。日本でなら、指揮官の判断に異を唱えるのはご法度かもしれない。しかし、欧州では、監督に対して自己主張するのは選手にとって、当然の権利だ。何も言わなければ、「大迫はサイドでの起用に満足している」と思われるだけだ。





 そのシーズンは25試合に出場したものの1ゴールで終わっている、確かに不本意なシーズンではあったが、監督と大迫とは強い信頼関係で結ばれた。

「絶対にいいことが来ると思い、我慢していた」とそのシーズンについて振り返り、大迫は語った。

「ただただ、このブンデスリーガで本当に活躍したい、結果を出したいということしか考えていなかった。ケルンでできなかったら、もう終わりだなって思っていた。だから自分を追いつめて、追いつめて、追い込んだ。同時にやれる自信もあったから。いい感じに流れを持っていけば、絶対に行ける」

“7ゴール6アシスト”を記録した2016-17シーズン

 そして迎えた16-17シーズンは、大迫にとってもケルンにとっても非常に有意義なものとなった。2トップの一角に立つ大迫は、そのポジショニングと動き出しで、味方のパスを数多く引き出した。ディフェンダーの選手はボールを奪うと、すぐに大迫を探す。そしてパスを受けた大迫が前線で身体を張り、攻撃チャンスを演出する。

 2016年10月、アウェイで王者バイエルン・ミュンヘンと引き分けた試合では、ドイツ代表のディフェンダーを背負いながら、前線でボールを保持するシーンは圧巻だった。

 当時は代表招集されない時期だったが、「今はリーグに集中できているから楽しい」と話した。代表活動期間は、リーグ戦がないため、数日間のオフがあり、それを利用して家族旅行へ出かけて、リフレッシュできると笑った。

 そのシーズン、大迫は7ゴール6アシストと活躍し、チームにヨーロッパリーグ出場権をもたらした。





ドイツへ来たらサッカーしかないから

 大迫もまた鹿島時代は寡黙なストライカーだった。

 自身の特性を理解し、活かしてくれる指揮官とチームメイトに恵まれた。だから、淡々と自身の仕事にまい進するだけで、十分だった。しかし、欧州ではそういうわけにはいかない。自身のプレーの良し悪しを判断し、どうすべきかを自分で決めていかねばならない。当然、鹿島でもその作業は同じだが、ドイツでは、アドバイスをしてくれる先輩もいなければ、励ましてくれるチームメイトも少ないだろう。欧州で戦う選手たちの多くは誰もが自分のことを一番に考えている。だからこそより孤独な戦いとなる。

「鹿島でもそうだったけど、僕はもともと時間がかかるタイプだから。最初は時間がかかる。でも、頑張るしかない。ここ(ドイツ)へ来たらサッカーしかないから。試合に出られないから移籍します、結果出ないから移籍しますじゃ話にならないから。やるしかない。ドイツでは日本みたいに助けてくれる人はいない。試合中も誰も助けてはくれない。だから、ひとりでがんばるしかない。でもそれが楽しさでもあるんですけどね」

 ケルンの練習場で大迫の覚悟を聞いた。





海外移籍にも快く送り出す、「鹿島」という環境

 欧州に出て変わる。

 鹿島では、小笠原満男や中田浩二、内田など、数々の前例がある。だから、海外移籍のオファーがあり、選手が望めば、クラブは快く送り出す。

「せっかく育ってきたなと思ったら、出ていくからね」と鹿島の鈴木満強化部長はそう語りながらも、息子たちの成長に目を細め、「いつでも戻ってこいとオファーは出し続けているよ」と笑う。主力選手の移籍は、チームにとっては大きな打撃だ。しかし、また育てればいい。厳しさのなかで選手を育む。そんな鹿島の環境が、大迫や柴崎の土台を作った。

 だから、彼らは欧州の地で戦い、苦闘を糧に成長を続けられる。




柴崎岳と大迫勇也 “寡黙なふたり”はなぜチームの中心になれたのか




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