日刊鹿島アントラーズニュース

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2020年2月24日月曜日

◆温泉街で闘った伝説の“泣き虫”監督、J2群馬で17年ぶり再出発 「夢の続きを追いかけたい」(FOOTBALLZONE)



奥野僚右 Ryosuke.Okuno


【番記者コラム】選手兼監督として“ザスパ草津”の礎を築いた奥野僚右、2003年以来のクラブ帰還

 この男がいなければザスパクサツ群馬というクラブは、2005年にJリーグへ昇格していなかった。いや、J昇格どころかクラブが存続していなかったかもしれない。

 奥野僚右。Jリーグ誕生の1993年から99年まで鹿島アントラーズでプレーし、王者の礎を築いたDFの1人。Jリーグのオールドファンであれば、小柄な体躯で屈強な相手FWを封じた勇姿が脳裏に浮かぶはずだ。

 その後、川崎フロンターレ、サンフレッチェ広島でプレーした闘将が、次の舞台に選んだのが群馬県リーグ1部の「ザスパ草津」(当時)だった。日韓ワールドカップ(W杯)が開催された2002年、草津温泉で活動をしていた「リエゾン草津」が「ザスパ草津」へ改名。「温泉街からJリーグへ」を合言葉に、新たなスタートを切った。

 GMは大西忠生(元セレッソ大阪副社長)、総監督は植木繁晴(元ベルマーレ平塚監督)。そのクラブに選手兼監督として加わったのが、奥野だった。チームの初期メンバーには、若手に混じって元日本代表GK小島伸幸(今季から群馬GKコーチ)も名を連ねた。奥野、小島ら往年のスタープレーヤーの加入に、温泉街は沸いた。

 経営母体を持たない“おらが街”のサッカークラブが、Jリーグ昇格を目指すという夢のような物語。周囲から「Jリーグになんか上がれるわけがない」「無謀だ」といった声が聞こえたなかで、奥野は本気だった。温泉街という特異な地域からJリーグを目指すという趣旨に、多くの企業が賛同。初期ユニフォームは「ユニクロ」が提供した。

 しかしながら経営面は自転車操業、最短3年でのJ2昇格を果たせなければクラブは解散を視野に入れていた。

 負けられない戦い――。奥野は、若い選手たちを率いて過酷なチャレンジに乗り出した。ミーティングでは想いがこみ上げるあまり、涙が溢れたこともあったという。

「負けられない状況に加えて、Jリーグに認めてもらうためには圧倒的な強さを見せて勝ち上がる必要があった。足踏みができないなかで、1試合1試合が命懸けだった。自分たちの後に続くクラブのためにも、道を切り拓く必要があった。だから試合後のミーティングで話しているうちに気持ちが入ってきてしまって、涙がポロポロと落ちてきた。それを見ていた息子から『パパは、泣き虫監督だね』って言われました」





背番号「31」は永久欠番、JFL昇格への2年間は「大きな財産となった」


 Jリーグ昇格という情熱だけを頼りに、2002年に群馬県リーグ1部へ参戦したチームは14勝0敗で完全優勝し、Jリーグへの最初の関門だった関東2部リーグ昇格戦に勝利した。

 翌2003年には同リーグで優勝し、「Jリーグ加盟を標榜するクラブに対する優遇措置」、いわゆる“飛び級制度”によって、JFL昇格をかけた「全国地域リーグ決勝大会」(現・全国地域サッカーチャンピオンズリーグ)に出場。10日間で6試合という過酷な日程のなか、奥野、小島らが満身創痍のプレーをみせて見事に優勝。チームは最短距離でJFL昇格を果たした。奥野は涙ながらにスタンドへ上がり、サポーターと喜びを共有。それは、Jリーグ昇格の夢が現実に近づいた瞬間だった。

「あの戦いは、選手としても指導者としても二度と経験したくないほど過酷だった。それくらい、精神的にも肉体的にも追い詰められていた。負ければ終わりだと思って、1分1秒を戦っていた。優勝できた時は、ホッとした。若い選手たちは温泉街で働いていたが、地域に面倒を見てもらったことで、プレー以外でも人間的に大きく成長したし、それが結果につながったと思う」

 だがJFL昇格の興奮冷めやらぬなか、奥野はチームを離れる決断をした。度重なる死闘によって両膝は限界を迎えていた。現役引退を考えているなか、古巣鹿島からコーチ就任の要請を受けたのだった。当時、奥野が保持していたのはB級ライセンス。JFLで指揮を執るにはA級ライセンス以上が必要だった。

「ゼロからスタートしたチームだったので愛着が深かったが、ライセンス問題や指導者としての将来を考えた時に、鹿島へ戻ってもう一度学ぶ必要があると思った。あの2年間は、“その日暮らし”だったが、振り返ると充実していて、サッカー選手としての大きな財産となった」

 奥野は、クラブを県リーグからJFLへと昇格させてチームを去った。彼が背負った背番号「31」は永久欠番となり、その存在はレジェンドとなった。

 チームは、翌04年のJFLで3位となり、悲願のJ2昇格を決めた。ザスパ草津は、地域密着型クラブがJリーグの扉を開く先駆けとなった。道なき道を切り拓いたことが、後発の新興クラブに希望を与えたのは間違いないだろう。





レジェンドであるがゆえの重圧…J2最低レベルの予算での“負けられない戦い”へ


 あれから16年――。必然か偶然か、運命のいたずらによって、止まっていた時計の針が再び動くことになる。

 2017年にJ3へ降格した群馬は昨季のJ3で2位となり、3年ぶりのJ2復帰を果たした。しかし、チームを2シーズン率いた布啓一郎前監督が松本山雅FCの指揮官に就任したため退任。監督の座が空席となった。

 後任を探していたクラブは、奥野に白羽の矢を立てて交渉を進め、合意に至った。奥野にとっては2003年以来、17年ぶりの帰還。J2での指揮は2012、13年のモンテディオ山形以来となる。奈良知彦社長は「クラブは今季J2に復帰し、ここから土台を築いていく必要がある。その状況下で、J2での指揮経験があり、クラブの歴史を最もよく知る奥野氏が適任だと判断した」と明かす。

 簡単なミッションではない。2018年度のJ2予算平均が約15億円だったのに対し、群馬は4億6000万円。今季は約6億3000万円の予算を見込むが、それでも平均値には程遠い。J2最低レベルの予算、監督交代による戦術リセットというハンデを抱えての船出となる。奥野がプレーした2002、03年は破竹の勢いで勝利を重ねたが、今季のJ2では厳しい戦いが待っていることは確実だ。

「私は一度、ザスパを離れたが、“我が子”のような思いで見守っていた。そしてこのチームを指揮したいという思いは常に持っていた。今回は、クラブに対して恩返ししたいという気持ち。昔と今では状況は違うが、負けられない状況は同じ。地域リーグ時代は、負けたらクラブが消滅するかもしれないという背水の陣で戦ってきた。当時の気持ちを忘れず、J2の舞台へ挑みたい。ザスパは、私が離れてからJリーグでの歴史を作っていったが、その歴史に加わりながら、夢の続きを追いかけたいと思う」

 失敗の許されないタスク。クラブレジェンドであるがゆえの重圧は、もちろんある。奥野は十字架を背負って、荒波に立ち向かう。パイオニアとしての矜持が、挑戦の原動力となる。(文中敬称略)

(伊藤寿学 / Hisanori Ito)


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