日刊鹿島アントラーズニュース

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2017年6月24日土曜日

◆【黄金世代】第3回・小笠原満男「衝撃のオノシンジ」(#2)(サッカーダイジェスト)


一瞬にして、いろんなものが打ち砕かれた。


 岩手のみならず東北でも名の知れた存在だった小笠原満男は、中3で初めて世代別の日本代表に招集される。1994年、U-16日本代表だ。
 
 そこで、とある選手のリフティングを目の当たりにし、頭のてっぺんに雷を落とされたような衝撃を受けた。
 
「うわ、なんだこれ、すげえ巧いなって。もう次元が違うから。なんて言うか、俺も岩手や東北じゃそこそこできてたほうで、それなりに自信を持ってやってたけど、あのリフティングを見ただけで一瞬にしていろんなものが打ち砕かれた。
 
 単純にインステップでやってるだけなんだけど、ボールがぜんぜんブレない。それだけでも巧さが伝わってくるよね。ほかにもインサイドキックの止めて蹴るってのもさ、それを見るだけでも次元が違うの。衝撃を受けた」
 
 誰あろう、小野伸二だった。
 
 その4年後、ナイジェリアのワールドユースで世界をあっと驚かせる黄金世代。まさに彼らの一番初期にあたるのがこの頃で、まだ、小野のほか稲本潤一や高原直泰、酒井友之などほんの限られたメンバーしか選ばれていない。そのなかに、小笠原は名を連ねていたのである。

「当時のことで考えたらとんでもない話で、もう端っこも端っこ。結果的に世界(1995年のU-17世界選手権)には行けなかったし、所詮はそういう位置づけでしかなかった。いまでもあのメンバーを集めて選考したら残れないって思う(笑)。

 それまで岩手の田舎で育ってきたから、ずっと指導者の方に『井の中の蛙になるな』って言われてきてた。まあ言葉として耳には入るんだけど、小中学生の時はどういう意味かまでは分からなかった。岩手の中じゃ、なにをやっても勝てちゃうし。でも彼らに初めて会ってさ、思い知ったよ。ああ、こういうことなんだって。身をもって体験した」

 たしかにその時点では、小さくない差があったのかもしれない。だが2年後、高2の秋に静岡のつま恋で開催されたU-17ナショナルトレセンでは、小笠原の技巧は際立っていた。この頃からわたしにとって小野、小笠原、そして本山雅志は、黄金世代の三大ファンタジスタなのである。

 とはいえ、小笠原自身が直面していた現実は、もっとシビアだったようだ。

「一緒にやれるのは嬉しかったけど、本当に巧いひとばっかりだし、場違いな感じは最初からずっとあった。ここに俺はいてもいいのかって。でも同時に、負けたくないって気持ちはあったし、なんとかこの環境でやり続けたいって想いもあった。いっつも刺激を受けてたよね。岩手に帰ってからも意識してたし、あのひとたちより巧くなるためには練習するしかないと思って、必死に打ち込んでたから。大きな刺激をもらってた」


いまでも俺の前をずっと走ってる選手。


 とりわけ、小野は別格だった。熱い想いを吐露する。
 
「最初の頃もそうだし、いまでも俺の前をずっと走ってる選手。ポジション的にも同じで、中盤の攻撃的なところをやっていたから、簡単に言えば、彼が出てて、俺が出れない。18歳でワールドカップに出たり、フェイエノールトに行って活躍したり、常に俺らの世代を先頭で引っ張っていた。イナとタカの3人でね。ずっと意識はしてるけど、どんどん遠くなっていく。彼らの活躍が嬉しいし、俺も負けたくないって思わせてくれる存在だね」
 
 高3の春に立ち上がったU-18日本代表では、少しずつステータスを高めていった印象だ。いつもメンバー入りはするが、清雲栄純体制下ではもっぱらベンチスタート。アジアユース選手権は予選でも本大会でも、あまり出番が回ってこなかった。
 
 小野に加えて、のちに鹿島アントラーズに同期入団する本山も急躍進を見せていた。
 
「もう実力が足りないから。モトとシンジが主力として出るのは、納得するしかなかった。誰がどう見ても巧いじゃない。だから、なんで俺が出れないんだって想いはなかったよ。大したことない選手だったら俺を使えよって思うかもしれないけど、彼らを見てたら出れないのはしょうがない。自分が努力するしかないと。それだけのタレントだからね、あのふたりは」
 
 転機は、フィリップ・トルシエの監督就任である。その後の2000年シドニー五輪、2002年日韓ワールドカップに至るまで、小笠原にとってはかならずしも相性のいい指揮官ではなかったが、いまとなってはその言動に賛同できる部分があるという。
 
「なにかにつけてワーワー言うし、やかましいひとだった。でもさ、日本人に足りないメンタリティーを呼び起こしてくれたんだなっていまは思うよね。当時はなんでそこまで言うのか、そこまでやるのかって思ってたけど、いまとなっては理解できる。
 
 十代の選手に対して、遠征にコックさんを連れていく必要があるのかとか、日本人に足りない表現の部分を強調したり。俺もそうだけど、日本人は淡々と内に秘めてやるタイプが多いじゃない。でももっと我を出せと。いずれ俺はその大事さをイタリアで痛感するんだけどね。日本人は恵まれすぎだってずっと言ってた。やれホテルがどうだ、水がどうだとか、食べ物がどうとか、テーピングがどうとか。A代表ならまだしも20歳の選手にそこまでは必要ないって、いっつも怒ってたね。いまじゃ理解できるし、いい監督だったんだと思う」
 
 ワールドユース直前、トルシエが黄金世代を連れて遠征したのが、開催地のナイジェリアと同じ西アフリカに位置するブルキナファソだった。

 フランス最先端のトレーニング施設であるクレールフォンテーヌに数日滞在し、本場ヨーロッパの格式と伝統を堪能した彼らを待っていたのは、想像をはるかに超える異世界。わたしはその遠征に同行し、彼らと同じホテルに滞在して密着した。



「小野は攻撃が7、守備が3。お前は攻撃が3、守備が7だ」  。


 首都ワガドゥグのホテルは国内最高級だったが、設備は必要最低限の実に質素なものだった。赤道直下の猛烈な暑さの中でクーラーが効かず、食材はすべて現地調達で、500キロ離れた第2の都市ボボデュラッソーへは、オンボロバスで移動した。

 日中は痛いほどの日差しだから、長時間の練習はできない。トルシエは時間さえあれば選手たちを街中の散策に連れ出し、皇帝の謁見や孤児院の訪問、大統領が所有する動物園(ほぼ放し飼い)の見学など、規格外のアトラクションを次から次へと用意した。ちなみに小笠原は、練習に飛び入り参加したブルキナファソ皇帝とPKで対決。装備万全でGKに入ったエンペラーの裏をものの見事に突いた。

 ブルキナファソでの1週間は、小笠原の脳裏にも強烈な記憶として刻まれている。

「普通に現地のものを食べてたよね。ハエのたかってる肉で、びちゃびちゃの黒い米を取って、これ本当に大丈夫なのかよとか言いながら。シャワーは水自体が出ないから、ペットボトルの水で身体を拭いてたな。モトと同部屋だったんだけど、クーラーが効かないから換気扇を回すわけ。それが猛烈にうるさくて、でも止めると息苦しくなる。だから俺もモトもずっと寝不足だった。

 でもさ、すべて慣れちゃえばなんてことなかった。サッカーするためには食べなきゃいけないわけで、じゃないと戦えない。朝5時に起きて、ビスケットだけ食べてトレーニングとか、なんの意味があるんだって思ったけど、それをやっちゃえば何時に起きろって言われてもへっちゃらになる。トルシエはそういうのを伝えたかったんだと思う。

 あの経験があるから、その後は世界のどの国のどんな場所に行ってもぜんぜん大丈夫だった。いきなりナイジェリアだったらきっとキツかっただろうけど、俺らはブルキナを経験してたから、居心地がいいくらいに感じてたもんね」

 ちょっとしたエピソードがある。

 そのブルキナファソで、小笠原は播戸竜二と散歩をしていた。すると現地のひとが「こっちに来い」と手招きしてくる。なんと両人は普通の民家にお邪魔したという。怖いもの知らずだ。

「どんな生活してるんだろうって、すごく興味があって。おいあがれよって言ってもらって中に入ったら、いきなりライオンの毛皮が敷いてあって『俺が撃って捕ったんだ』って言うわけ。『ホントかよ!?』って感じだけどさ、なかなか遠征で現地の家になんて入れないでしょ。面白かったね、触れられて。それくらいしか娯楽がなかったってのもある。暇すぎて。テレビもなにを言ってるか分からないし、インターネットとかない時代だから。本当にいい経験をさせてもらった」

 2か月後、ワールドユースの檜舞台に立つ。小笠原は自身初の世界大会で、レギュラーポジションを掴んでいた。まるで叶わないと思っていた小野、本山とともに、スタメンを飾ったのだ。

 そして大会直前、トルシエは小笠原に驚きの指示を伝える。

「小野は攻撃が7、守備が3。お前は攻撃が3、守備が7だ」

 ミツオは呑み込み、黙って受け入れた。

<♯3につづく>

取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

※6月28日配信予定の次回は、ワールドユースの快進撃を余すところなく語ってもらい、悩み抜いた末に決断した鹿島アントラーズ入団の裏話も公開。ファン必読のレアエピソードがまたしても飛び出します。こうご期待!

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PROFILE
おがさわら・みつお/1979年4月5日生まれ、岩手県盛岡市出身。地元の太田東サッカー少年団で本格的にサッカーを始め、小6の時には主将としてチームを率い、全日本少年サッカー大会に出場。中学は市立大宮中、高校は大船渡に進学。インターハイや選手権など全国の舞台で活躍し、世代別の日本代表でも常連となり、東北のファンタジスタと謳われた。1998年、いくつかの選択肢から鹿島アントラーズに入団。翌年にはU-20日本代表の一員としてナイジェリアでのワールドユースに主軸として臨み、準優勝に貢献する。鹿島では在籍20年間(2006年8月から10か月間はイタリアのメッシーナにレンタル移籍)で7度のリーグ優勝を含む16個の国内タイトルをもたらし、Jリーグベストイレブンに6回選出、2009年にはJリーグMVPに輝いた。日本代表ではワールドカップに2度出場(2002年・06年)し、通算/55試合出場・7得点。Jリーグ通算/506試合・69得点。173㌢・72㌔。O型。データはすべて2017年6月22日現在。

http://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=27078

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