日刊鹿島アントラーズニュース

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2015年10月31日土曜日

◆【THE REAL】宇佐美貴史と昌子源…ナビスコカップ決勝の大舞台でまじわる、宿命に導かれた直接対決(CYCLE)


http://cyclestyle.net/article/2015/10/30/29297.html



大会最多の6度目の戴冠か。あるいは、史上4チーム目の大会連覇か。鹿島アントラーズとガンバ大阪が対峙するナビスコカップ決勝は10月31日午後1時5分、埼玉スタジアムでキックオフを迎える。

東西の横綱に位置づけられる両雄が決勝の舞台で顔を合わせるのは、23回目にして初めてとなる。そして、運命に導かれたかのように、1992年生まれのふたりがチームをけん引する立場で火花を散らす。

■ガンバのジュニアユースが最初の舞台

アントラーズの最終ラインを束ねる昌子源と、ガンバの攻撃陣の中心に君臨する宇佐美貴史が初めてお互いを認識したのは2005年の春。関西エリアの優秀な子どもたちが集う、ガンバのジュニアユースが舞台だった。





ポジションはともにフォワード。地元のフレスカ神戸でプレーしていた小学生時代から、京都にとんでもない怪童がいると昌子は噂に聞いていた。

実際にそのプレーを目の当たりすると、長岡京SSからやってきた宇佐美が別次元にいるように映った。

「一生かなわんと思った」

多感な年ごろに味わわされた衝撃と挫折はやがて、サッカーに対する情熱を失わせる一因をなす。ひざのケガも相まって2年次で練習を休みがちになった昌子は、3年次になるとチームを退団してしまう。

宇佐美はそのとき、飛び級でガンバのユースへ昇格。高校生のなかで堂々とレギュラーを獲得していた。悶々とした時間をすごしていた昌子にあるとき、サッカーの指導者を務める父親の力さんが声をかける。

「米子北という高校があるんだけど、行ってみるか」

指導者のつながりで親交のあった、米子北高校の中村真吾コーチから昌子の進路を心配されていたこともあり、力さんはサッカー人生をリセットする意味も込めて息子に県外の高校をすすめた。

サッカーはしないぞと意地を張っていた昌子だったが、母親とともに見学に訪れた先でターニングポイントが訪れる。中村コーチから「ボールを蹴ってみないか」と誘われたときに、両親が荷物のなかにそっとしのばせていたスパイクと練習着が役に立った。

心に巣食っていたわだかまりが消えるとともに、サッカーへの情熱が再び芽生えてくる。越境入学した鳥取の地で再開させたサッカー人生はしかし、2年生に進級する直前の2009年春に2度目のターニングポイントを迎える。



国体鳥取県選抜の一員として、ガイナーレ鳥取と練習試合に臨んだ後半。センターバックにケガ人が出たことで、県選抜の監督を務める中村コーチの指示を受けた昌子はそれまでのフォワードから急きょ初体験のポジションに回った。

当時のガイナーレには、コン・ハメドというコートジボワール人のフォワードが在籍していた。無我夢中の思いもあったのだろう。168cm、75kgと小柄ながら圧倒的なパワーとスピードをあわせもつ5歳年上のハメドと、昌子は壮絶な1対1を展開する。

■仕方なく受け入れたコンバート

一夜明けて、昌子はセンターバックへの転向を中村コーチから命じられる。文字通りの青天の霹靂。城市徳之監督にかけあっても状況は変わらない。

「本当に嫌だった。フォワードをやらせてほしいとずっと思っていた」

宇佐美が高校2年生にしてトップチームへの昇格を果たし、「ガンバユースの最高傑作」として眩いスポットライトを浴びていた時期。嫌々ながら受け入れたコンバートがプロへの扉を開いてくれるとは、当時の昌子にとっては夢にも思わなかったはずだ。


3年生になるとU‐19日本代表候補にも名前を連ねるなど、センターバックとしての潜在能力を一気に解き放っていった昌子は2011年春、名門アントラーズの眼鏡にかなって入団を果たす。同期には「鹿島の心臓」と昌子が畏敬の念を抱く、ボランチの柴崎岳がいた。

プロとして同じ土俵に立てたのもつかの間、すでにガンバで主軸を担っていた宇佐美は稀有な才能を見込まれ、2011年7月にブンデスリーガの名門バイエルン・ミュンヘンへ期限付き移籍する。ピッチ上で邂逅を果たすまでには、さらに3年余りの時間を要さなければならなかった。

「日本へ戻るのならば、ガンバしか考えていなかった」

ガンバ愛を貫きながらJ2のピッチから捲土重来を期し、2013年シーズンの後半戦だけで出場試合数を上回る19ゴールをマーク。復帰したJ1の舞台でも、その攻撃センスは異彩を放っていた。

果たして、初めての直接対決は宇佐美に軍配が上がる。ガンバは重量級フォワードのパトリックに、徹底して昌子の背後を狙わせる。後半26分のパトリックの同点弾をアシストしたのは宇佐美だった。

後半アディショナルタイムの劇的なゴールでの逆転勝利に狂喜乱舞したガンバおよび宇佐美とは対照的に、昌子はこの試合で右太ももを負傷。ハビエル・アギーレ前監督のもとで初めて招集された、日本代表を辞退する無念さも味わわされている。

「自分のポジションを探しながら、代表にも入っていけるようになったのはすごいこと」



招集待望論がわきあがりながらアギーレジャパンから声がかからなかった宇佐美は、昌子へ敬意を表しながら、アントラーズ戦前には対抗心を隠さなかった。

「試合では(源を)100%抜いたるわ」

順調にケガから回復した昌子は11月の国際親善試合、そして年明けの1月にオーストラリアで開催されたアジアカップでも日本代表の一員として名前を連ね続ける。

■プラチナ世代のふたり

3月に発足したハリルジャパンにも招集され、念願の初キャップを獲得した3月31日のウズベキスタン代表との国際親善試合。味の素スタジアムのピッチで、日本代表デビューを果たして2戦目の宇佐美の背中に昌子はデジャブを覚える。

後半38分。途中出場していた宇佐美がこぼれ球を拾い、ドリブルの体勢に入った瞬間に、後方のセンターバックの位置から戦況を見つめていた昌子はゴールを確信している。

「ドリブルを見ただけで、決まったと思いました。ゴールがほしいときに取ってくれる。相変わらず天才やと思いましたよね。味方になると、こうも頼もしいんだなと」

ゴール前の密集地帯を強引かつ鮮やかにすり抜け、渾身の思いを込めて振り抜いた右足から放たれたスーパーゴールがネットを揺らす。真っ先に祝福へ駆けつけたのは柴崎。そして、昌子も自分のゴールように笑顔を弾ませていた。

宇佐美と昌子が生まれた1992年は「プラチナ世代」と呼ばれる。このとき、ふたりは同じ思いを共有したはずだ。

「Jでも代表でも、自分らの世代がやっていかなあかん」

過去2シーズン、まさかの無冠に終わっているアントラーズは他のJクラブの追随を許さない通算17個目のタイトル奪取を名門復活への狼煙としたいと腕をぶす。



今年7月にはトニーニョ・セレーゾ前監督が解任される事態にも直面した。コーチから就任した石井正忠新監督のもとでいきなり6連勝を達成する。

「強い鹿島の伝統が戻ってきたのでは」

メディアからの問いかけに、昌子は首を横に振りながら決意を新たにしている。

「強い鹿島というのは僕たちの大先輩、レジェンドの方々が築いた時代。僕たちは何も成し得ていないし、言うたら強い鹿島を壊してしまったのは僕たちとなる。常勝軍団とも呼ばれなくってきていますし、せっかく先輩方が築いてくれた鹿島という伝統あるクラブを、僕たちが復活させなければ意味がない」

実は9月12日のセカンドステージ第10節でアントラーズの7連勝を阻止したのがガンバであり、前半29分、39分と連続ゴールを叩き込んだ宇佐美だった。

ケガで欠場を余儀なくされていた昌子は「乗せたら厄介な選手。受けに回らずにいきたい」と期する思いを心中に募らせている。



対するガンバは、ナビスコカップ制覇で右肩あがりの成長曲線と勢いをさらに加速させて、J1、そして天皇杯との三冠を独占した昨シーズンの再現を期す。

宿敵アントラーズをくだせば通算8個目のタイトルとなって歴代単独2位に浮上する。連覇は過去にヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)、ジェフ千葉、そしてアントラーズしか達成していない。

大相撲の番付けにたとえれば、東の横綱アントラーズに対抗しうる西の横綱として、サッカー専用の新スタジアムとともに臨む来シーズン以降の新時代を迎えることができる。

両チームの未来をも託された激闘必至の一発勝負。ライバルチームの攻守の主力として、そして日の丸を背負って戦っていく盟友として。覇権の行方は常に切磋琢磨する万感の思いを秘め、武者震いを覚えながらピッチの上で必ずまじわるふたりの直接対決が握っている。《藤江直人》バイエルン・ミュンヘン所属時の宇佐美貴史


迎えた2014年10月5日。カシマスタジアムで行われたJ1の第27節で、ふたりは敵味方にわかれて初めて対峙する。柴崎とともに世代交代へのキーマンとなった昌子は、アントラーズの最終ラインを支えてきた歴代のセンターバック、秋田豊と岩政大樹が背負ってきた「3」番を託されていた。

「サイズからプレースタイルから当時とまるで違う。(昌子)源があんなふうになっていくなんて、当時は誰も想像していなかったと思うんですよね」

こう語っていた宇佐美はバイエルンからホッフェンハイムへ再び期限付き移籍するも、満足できる結果を残せずにガンバへ復帰していた。

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