日刊鹿島アントラーズニュース

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2015年11月2日月曜日

◆3年ぶりにナビスコ杯を制した鹿島アントラーズに蘇った勝者のメンタル(THE PAGE)


http://thepage.jp/detail/20151031-00000001-wordleafs


優勝を喜ぶカイオ(左)と小笠原(写真:アフロスポーツ)


 至福の喜びに支配されていたのだろう。準優勝チームから先にメダルを授与される表彰式。本来ならガンバ大阪を見送るはずの鹿島アントラーズの視線は、ゴール裏を真っ赤に染めたサポーターへと向けられていた。
 埼玉スタジアムで10月31日に行われたナビスコ杯決勝。連覇を狙ったG大阪を3対0で一蹴し、大会最多となる6度目の優勝を手にした鹿島の選手やスタッフがスタンド前で一列となり、肩を組みながら勝利のダンスを踊りはじめる。
 2012年のナビスコ杯を制して以来、実に3年のブランクを超えての戴冠。マナーに欠けているとはわかっていても、一刻も早く手にしたタイトルの価値を分かち合いたかった。

 常勝軍団と呼ばれる鹿島にとって、2年連続の無冠がいかに重い十字架と化していたか。昨年からDFリーダーを拝命し、今年からは黄金時代を支えたレジェンド、秋田豊の象徴だった「3」番を託された22歳の昌子源が偽らざる本音を打ち明ける。

「正直、プレッシャーがあった。タイトルを取れないと周りからいろいろな目で見られるというか、タイトルに関われないと『弱い』と言われるチーム。強い鹿島というのは僕たちの大先輩が築いた時代。僕たちは何も成し得ていないし、言うたら強い鹿島を壊してしまったのは僕たちとなる」

 鹿島の強化部長に就任して20年になる鈴木満氏は、「同じチームで勝てるのは3年間が限度」とよく口にしていた。
 キャプテンのMF小笠原満男、GK曽ヶ端準、DF中田浩二、MF本山雅志の「黄金世代」が軸となり、J1で前人未踏の3連覇を達成したのが2009年。本来ならば、この時点で30歳を迎えた黄金世代から次代へバトンが託されるはずだった。
 鈴木強化部長のもと、鹿島は他のJクラブと一線を画すチーム作りを進めてきた。高卒を中心とする新人を入団から最低でも3年間は大切に育て、主軸がピークに達した3年間と重複させることで伝統や哲学を継承させる。

 小笠原たちが鹿島に入団したのが1998年。当時の中盤には司令塔のビスマルクが、ボランチには激しいマークを得意とする本田泰人が君臨していた。公式戦のピッチに立つ目標を描きながら、レジェンドの一挙手一投足を脳裏に焼き付けた。

1998年の鹿島は宿敵ジュビロ磐田との死闘を制し、年間王者に輝いた。ビスマルクの技術と本田の闘志の両方を受け継いだ小笠原は言う。
「先輩たちが喜びあう姿を見て、いつかは自分もと思った。タイトルを取らなければ見えてこないものがあるので」

 黄金世代が主軸を担ったのは2000年。史上初の三冠を達成し、翌年もJ1を連覇。完全にバトンを受け継いだが、いざ彼らが30歳を迎えたときに託すべき相手がいない。

 日本代表でも活躍したDF内田篤人が、シャルケへ移籍したのが2010年7月。内田と入れ替わるように鹿島に入団したFW大迫勇也も、2014年が明けるとともにドイツへ新天地を求めた。

 かつては考慮する必要のなかった日本人選手の海外移籍が、鹿島独自の世代交代の青写真を狂わせる。3連覇を達成した時期の遺産もあり、2010年は天皇杯、2011年からはナビスコ杯を連覇したが、チームは伸びしろを完全に失っていた。

 危機感を抱いたフロントは、2013年からトニーニョ・セレーゾ監督を8年ぶりに復帰させる。2000年からの5年間で5冠を獲得した実績以上に、居残りを含めた猛練習で若手を中心に選手個々を鍛え、世代交代を成就させた厳しさに再建を託した。

 実際、若手や中堅は伸びた。2014年に初の2桁ゴールをマークした、入団8年目のMF遠藤康の急成長はセレーゾ前監督の存在を抜きには語れない。

 昌子がDFリーダーを拝命したのは、2013年のオフに当時31歳の元日本代表・岩政大樹(現ファジアーノ岡山)との契約更新をフロントが見送ったからだ。
若手が実力で勝ち取るべき世代交代が、フロント主導で進められる。鹿島が置かれた状況を理解した岩政は、昌子に熱いエールを送って去っていった。

「お前の潜在能力は高い。必ず鹿島を背負うセンターバックになれる」

 その一方で、紅白戦などで真剣勝負が高じて殴り合いに発展することも珍しくなかった、鹿島伝統の激しさが薄まっていた。理由は日々の練習にあった。不慮のけがを恐れていたのか。セレーゾ前監督は紅白戦などでスライデンングタックルを厳禁としていた。

 迎えた2015年。第1ステージで8位に甘んじ、第2ステージでも3試合で勝ち点4と出遅れた直後の7月21日に、セレーゾ前監督は解任される。
 コーチから昇格した石井正忠新監督は、Jリーグが産声をあげた1993年に鹿島の攻撃的MFとしてプレー。神様ジーコの薫陶を強く受け、現役引退後もコーチやフィジカルコーチとして鹿島に携わってきた。
黎明期のスピリットを熟知する48歳の指揮官は、まず練習におけるスライディングタックルを解禁。最初のミーティングでこう訴えた。

「戦う姿勢を見せてほしい」

 前監督のもとで植えつけられた「個の強さ」と、たとえレクリエーション的なミニゲームでも負けることを拒絶する「勝者のメンタリティー」。これらが融合とした結果として第2ステージは一転して優勝争いに絡み、決勝トーナメントから登場したナビスコ杯では頂点に立った。

 試合後の取材エリア。G大阪のキャプテン、MF遠藤保仁は90分間を通して鹿島に見せつけられた球際の強さと激しい闘志に白旗をあげている。
「負けるべくして負けた」

 鹿島が獲得した17個のタイトルのうち、実に14個を自身の脳裏に焼きつけてきた小笠原は、勝ち取ったナビスコ杯の価値をこう位置づける。
「自分が若い頃も上の人に支えられながらタイトルを取って、成長できた部分がある。タイトルをひとつ取って、またああいう経験をしたいという気持ちが芽生えてくる。そういうことの積み重ねで、チームは強くなっていく」

 黄金世代からバトンを託されるべき世代の中心として、MF柴崎岳とともにフロントから指名された1992年生まれの昌子も決意を新たにする。
「間違いなくチームを前進させるタイトルだし、僕自身のキャリアのなかでも大きなものなるけど、正直、僕たちはもう若手じゃない。僕たちの下にもう十何人といるわけで、そういう状況で僕や柴崎といった中堅がしっかりとチームを引っ張っていかないと」

 2年ぶりのタイトルとともに、ようやく刻まれた世代交代への第一歩。もっとも、バトンはまだ完全には受け渡していないと最年長でのMVPに輝いた36歳の小笠原が力を込める。
「やれるものならやってみろ、というのはあります。まだまだ僕らも負けていられない」

 ここから先は実力だけの勝負。濃密な経験を武器としながらいぶし銀の輝きを放つベテランと、自信を糧に潜在能力をさらに解き放とうとする中堅や若手。ナビスコ杯制覇が下剋上の最終章への呼び水となり、鹿島の勝者の歴史を加速させる。
(文責・藤江直人/スポーツライター)

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