日刊鹿島アントラーズニュース

Ads by Google

2015年10月23日金曜日

◆生意気だった北沢豪、自己中すぎて監督から“鉄拳”(サンスポ)


http://www.sanspo.com/soccer/news/20151022/jpn15102211000001-n1.html

北沢(中央、背番号8)は自身の引退試合でゴールを決め、カズ(左)とラモスから祝福された=2003年6月21日

 とにかく生意気だったよ。あのままだったらサッカー人生は長く続かなかった。

 修徳高を卒業した僕は1987年に本田技研(現JFLホンダFC)に入った。中学時代に名門・読売クラブ(現J2東京V)のジュニアユースに在籍していた縁で読売からの誘いもあったけど、本田技研は年俸3000万円ほど。読売はおよそ1300万円。まずは本田技研で成功してから読売に行ければいいと考えていた。

 当時は読売クラブ(の下部組織)である程度できていた自負があった。あるとき、関塚コーチ(隆、現J2千葉監督)がアドバイスをくれたのに、「そんなの分かっているよ」と言い返してしまった。すごく優しい人がそれ以降、1年間は口をきいてくれなかった。

 それでもリザーブリーグで得点王になったものだから、「俺の考えの方があっているじゃねえか」と。完全に天狗(てんぐ)だよね。自己中心的すぎて宮本監督(征勝さん、故人)に殴られたこともあった。

 だから最初の2年間で公式戦出場はたったの7試合。さすがに「このままじゃクビになる」と思い始めた。そんなときに親父(弘仁さん、76)から「お前より宮本監督の方が、お前のことを知っているんじゃないか」と言われてハッとした。そこから自分を見つめ直した。態度を改め、積極的に先輩に話を聞きに行くこともした。

 その甲斐あって3年目からレギュラーとなり、4年目の90年は得点王(10点)を獲得。91年に念願の読売への移籍が実現した。当時は現役バリバリのラモスさん(瑠偉、現J2岐阜監督)やカズさん(三浦知良、現J2横浜FC)らが所属していて、練習や紅白戦のすさまじさには度肝を抜かれた。

 特にラモスさんは激しかった。自分のポジションを守るためには、同じ中盤の選手を味方であろうが平気で削りにいっていた。実際にラモスさんに(骨を)折られた選手もいたくらい。当然、僕もやられた。体が弱かったら折れていたよ。でも勝ち気な性格だから、「ふざけんな!」と文句を言っていたけど。

 移籍した当初、周りはよそ者の僕にパスをくれなかったから。これにはムカついた。そこで立場を変えるために、ちょうど開催されていたJSL杯(現ナビスコ杯)で結果を残そうと決めた。

 途中出場ばかりで本田技研との決勝も途中から。それでも終了間際に僕が決勝ゴールをあげると、やっと周囲に認められた。読売ではタイトル獲得に貢献して初めて仲間になれる。あのゴールでレギュラーになり、パスもくるようになった。

 優勝してからは主力として生き残るため、チームで誰もやっていない“隙間商売”に徹した。攻撃の中心のラモスさんやカズさんを生かすための“黒子”として必死にピッチを駆け回ったんだ。後に「日本のダイナモ」なんて言ってもらえる自分の原点になったよ。

Ads by Google

日刊鹿島

過去の記事