遺伝子 ~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(14)
秋田 豊 後編
◆新連載・アントラーズ「常勝の遺伝子」。 生え抜き土居聖真は見てきた(Sportiva)
◆土居聖真「ボールを持つのが 怖くなるほど、鹿島はミスに厳しかった」(Sportiva)
◆中田浩二「アントラーズの紅白戦は きつかった。試合がラクに感じた」(Sportiva)
◆中田浩二は考えた。「元選手が 経営サイドに身を置くことは重要だ」(Sportiva)
◆スタジアム近所の子供が守護神に。 曽ヶ端準とアントラーズの幸せな歩み(Sportiva)
◆曽ヶ端準「ヘタでも、チームを 勝たせられる選手なら使うでしょ?」(Sportiva)
◆移籍組の名良橋晃は「相手PKに ガックリしただけで雷を落とされた」(Sportiva)
◆名良橋晃がジョルジーニョから継ぎ、 内田篤人に渡した「2」への思い(Sportiva)
◆レオシルバは知っていた。「鹿島? ジーコがプレーしたクラブだろ」(Sportiva)
◆「鹿島アントラーズは、まさにブラジル」 と言い切るレオシルバの真意(Sportiva)
◆「ジーコの負けず嫌いはハンパなかった」。 本田泰人はその魂を継いだ(Sportiva)
◆「アントラーズの嫌われ役になる」 本田泰人はキャプテン就任で決めた(Sportiva)
「今日スタジアムへ向かうバスの中で、いろんなことを考えたんです。鹿島へ移籍して、試合に出たい、レギュラーになりたいと思っていたけれど、移籍1年目で、これほど自分がピッチに立って、試合に出ずっぱりになるとは、イメージしていなかった。
アジアへ行ったり、外国人選手と戦ったり、しかも中3日ですぐに試合がやってきたりとか……。身体よりも本当に頭が疲れるんだなと痛感しました。でも、こういうなかでもタイトルを獲得してきたのが、鹿島。相当スゴイことなんだなぁ……と。でも、僕自身がいるときに鹿島がタイトルを獲れなかった……というふうにはなりたくない。(W杯によるリーグ戦)中断期間が終わってからしっかりと巻き返したい」
5月20日、J1リーグ仙台との一戦が終わった直後、安西幸輝は2月中旬のACLからスタートした鹿島での3カ月間をそう振り返った。
その3カ月間、鹿島は所属するフィールドプレーヤー27人中24人が試合に出場している。数多くの試合を消化するのは、強豪クラブの宿命とはいえ、今季の鹿島は事情が違った。次々と負傷離脱する選手が相次いだ。一時は10名近くが離脱し、スタメン、ベンチ以外のほとんどの選手がプレーできない状態という時期もあったほどだ。
そんななかで、今季加入した安西をはじめとした若い選手が経験を積むことには繋がったものの、結果は芳しくはない。ひとつ消化試合が少ないものの、首位との勝ち点差は19ポイントと大きく離れての11位。ただ、ACLの準々決勝進出が決定してはいるが、リーグタイトルをここで諦めるという空気は鹿島にはない。新加入の安西とて、それは同じだった。
* * *
愛知県出身の秋田豊が、鹿島アントラーズでプロデビューしたのは1993年。すぐさまレギュラーとなり、11年間の在籍でリーグ戦334試合、ナビスコカップ戦45試合、天皇杯38試合に出場。5度のチャンピオンシップもすべてに出場している。そして、4度のリーグ、3度のナビスコカップ、2度の天皇杯で頂点に輝いた。
1998年フランス、2002年日韓と2度のワールドカップメンバーにも選出されて、日本屈指のセンターバックとなったが、その理由は「鹿島アントラーズ」というクラブにあったという。
――愛知学院大学の秋田さんと鹿島アントラーズを結んだものはなんだったのですか?
「1年のときから、毎年住金(住友金属、鹿島アントラーズの母体)の練習に参加させてもらっていたんですよ。卒業したらJリーグでプレーしたいと思っていたので、最初は地元のトヨタ自動車(名古屋グランパスの母体)が目標でした。住金はジーコもいたけれど、当時は2部だったし、Jリーグに入れるかは未知数だったから」
――しかし、鹿島アントラーズが見事Jリーグの一員に。
「サプライズでした。アントラーズがJリーグに加盟するなら、ぜひお願いします! という感じでした」
――アントラーズにはジーコはもちろんのこと、本田技研組など、プロ意識の高い選手が多かったと思うのですが、1993年に大卒ルーキーとして加入したとき、プロの壁を感じることありませんでしたか?
「特になかったですね。というのも、愛知学院というところは、自分でやらないとダメなチーム環境でしたから。選手が自立していて、自主的にトレーニングをすることが当たり前でした。自分で自分を追い込むことも、僕にとっては特別なことではなかったんです。だから、アントラーズのピリッとした緊張感のなかでの練習は、『すごく疲れるけど、プロなら当然だよな』と受け止めていたんです」
――居心地がよかったと。
「そう。居心地がよくて、肌に合うというのが第一印象でしたね。シーズン前の身体作りの合宿から参加したんですけど、非常にリアリティを感じたし、シーズンを戦ううえで、こういうトレーニングが必要なんだなと、納得感があった。これがプロなんだなって。
ただ、技術的なもの、体力やスピードという部分では、壁というかまだ足りないと感じるところはありましたね。だから、基礎練習の多いメニューは助かりました(笑)。
それでもヘディングだったり、メンタルだったり、自分にしかない武器、ストロングポイントはわかっていたので。そういうものが支えとなり、足りない部分を練習で埋めていくという感じでしたね」
――そして、1995 年には日本代表デビューを飾り、1998年ワールドカップフランス大会の舞台に立ちました。
「当時のJリーグはすばらしい外国人選手が集まっていたんです。錚々(そうそう)たる顔ぶれの選手がいましたから、世界のスーパースターが。カレカ(柏)にピクシー(ストイコビッチ/名古屋)、スキラッチ(磐田)。エムボマ(ガンバ大阪)だってそうだし。
僕は毎試合そういう”世界レベル”の選手と戦っていた。彼らエースを抑えるのが僕のミッションだったし、タスクだから。それをやり続けたことが、代表でプレーする自信、ワールドカップで戦う自信に繋がりましたね」
――そして、アントラーズでは、たくさんのタイトルを獲得。不動のセンターバックとして長く君臨しました。
「とはいえ、常に競争、競争でしたよ。僕にもいつも『刺客』が送られてきましたから(笑)。でもそれは当然なんですよ。強いチームを維持するうえでは、競争は必要だし、将来を見据えて、少し年齢のずれたいい選手をどんどん入れて、育てないと空白期間が生まれるし、もしくは高いお金で他から選手を獲得しなくちゃいけなくなるから」
――それでも、ポジションを守り切りました。
「そうですね。奇跡的に(笑)。もし、他のクラブだったら、僕は選手としてつぶれていたと思います。僕が代表でワールドカップに出るなんて、誰も思っていなかったはず。もちろん、アントラーズというクラブが僕を育ててくれたことが大きいです。
それ以外では、早く結婚して、家庭中心の生活を送ることになったのも、鹿嶋という町で暮らしていたから。サッカーに集中できる環境だったからこそですね」
――鹿嶋という場所を考えたとき、アントラーズは勝たなければならないクラブだったと思うのですが。
「僕が加入したとき、フロントの方から、『君たちはまずは鹿嶋という場所を有名にするためにサッカーをするんだ』という話があったんです。町おこしですね。そういう明確なビジョンがあり、そのためにも勝たなくちゃいけない。勝つためのチーム作りをするという流れなんですよね」
――Jリーグが始まってから、鹿嶋の暴走族が減ったという逸話があります。
「減りましたよ(笑)。娯楽がなくて、ストレス発散のためにバイクを走らせていた人たち、実はお祭り好きなんですよ。それが2週間に一度、カシマスタジアムで行なわれている。実際に喧嘩はしないけれど、相手チームとの真剣勝負があるわけですから(笑)」
――そういう町にフットボールというカルチャーを植えつけたのが鹿島アントラーズだったんですね。しかも強い。喜んでくれる人たちの存在が力になったのではないですか?
「もちろん。町の人たちはとても温かくて、本当の家族みたいに、僕の子どもたちとも接してくれる。すごくいい町だったよね。一生、鹿島にいたいと本気で考えていました。子どもたちもここで育ち、コミュニティもできているし。ここで引退して、指導者として……と考えていました」
――しかし、2004年に名古屋グランパスへ移籍することに。
「鹿島は過去、選手を切ったことがないんですよ。もし契約を延長しないとなっても、ちゃんと移籍先を探してくれるクラブ。それをしなかったのは、僕が初めてのケースだったんです。コーチとしてのオファーをもらったんです。今考えれば、すごくいい条件でした。だけど、2003年もずっと試合に出ていたのに、突然でしたからね。代表への気持ちもまだ持っていたし、やっぱり現役を続けたかったから」
――他クラブでプレーしたことで、初めて知る鹿島アントラーズの強みもあったんじゃないですか?
「一番感じたのは、フロントも、選手も、サポーターも、すべての人たちが、当たり前のことを、当たり前のようにやっているクラブが鹿島なんだなと。たとえば、選手は目の前のトレーニングに全力を尽くす。そこから勝つための準備が始まっていることを知っているんです。フロントはそういう選手をサポートしてくれる。サポーターも日本一のクラブのサポーターになるために、どうすべきかをいつも考えてくれた」
―― 一枚岩なんですね。
「だからと言って、甘えもないんです。(鈴木)満さんという強化部長がいて、監督や選手を評価するように、誰もが厳しく仲間を評価し合える空気がちゃんとあるんです。その評価基準も明確でブレたり、揺れたりしない。みんな見ている方向が同じなんです」
――鹿島への愛情は変わらない。
「変わらないです。鹿島イズムというのは、僕の身体の中に入っているから。DNAに刻み込まれていますから。いつか、鹿島で指揮を執るのは大きな目標でもあるし、夢でもあります。もちろん、選手と監督とは違うということはわかっている。だからこそ、そこを目指したいと考えるんです」
|
秋田豊が目指すビジョンは「指導者としてアントラーズに戻りたい」