日刊鹿島アントラーズニュース

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2018年6月9日土曜日

◆響け!勇気与える植田直通の声…W杯は「熊本県民の代表として」(報知)








 ロシアW杯に挑む日本代表選手の転換点を紹介する連載「ターニングポイント」。第8回はDF植田直通(23)=鹿島=。2016年4月に故郷・熊本で発生した震災が植田のサッカー観を変えた。

 熊本地震の前震発生から2日後の2016年4月16日、湘南戦後の勝利インタビュー。「特別な思いがあったのではないですか」と尋ねられた植田は、右手で目頭を押さえながら言った。「僕にはそれ(サッカーで励ますこと)しかできないので」。感情をめったに表に出さない男が、こぼれる涙を拭いながら声を絞り出した。

 鹿島加入当初、クラブ関係者から「『うす』と『うす…』と『うす!』しかしゃべらない」と揶揄(やゆ)されたという口数の少ない九州男児。練習は一切手を抜かずにまじめに取り組み、胸の内に熱い闘志を秘めるが、コミュニケーションや積極性に課題があった。寡黙な心を開くため、相棒のDF昌子源が半ば強引に外食に誘っていたほどだ。

 しかし、生まれ故郷の危機に直面し、殻に閉じこもってはいられなかった。東日本大震災の復興支援活動を継続して行うMF小笠原満男、当時選手会長のDF西大伍の先輩2人に相談。クラブに自ら被災地訪問の了承を取り、MF久保田和音、FW鈴木優磨、FW垣田裕暉の後輩3人にも協力を要請。湘南戦の翌日、6人で被災地に向かった。

 「頑張ってください」。2度の震度7を記録した益城町や、大津中学校などの避難所で一人ひとりに声をかけ、レンタカーで持ち込んだ水、食料などを配った。大津中の井川雄一教諭(56)は振り返る。「あの時はまだ県外からの物資が届いておらず、とても助かりました。皆さんとても喜んでいました」。鹿島のチームメートを動かし、必死に行動した植田の姿は被災者の心に焼き付いていた。

 それから2年。鹿島で不動のレギュラーに定着し、試合中の声も増え、試合後にかれた声で取材に応じることも多くなった。「もう(植田に)言うことなんてないですよ」と昌子。先月30日、故郷の宇土市役所は特設会場をつくり、W杯メンバー発表をパブリックビューイングで行った。植田が選出されると、集まった市民は抱き合い、万歳を繰り返した。「W杯はテレビ放送もあるし、かなりの方が目にする機会になる。熊本の方もたくさん見てくれると思う。熊本県民の代表として戦います」。県民の思いと期待を背負い、ロシアで戦う。(岡島 智哉)

 ◆植田 直通(うえだ・なおみち)1994年10月24日、熊本・宇土市生まれ。23歳。幼少期からテコンドーに励み、中学時代に日本一。前日に一度練習しただけの三段跳びで県2位になったという逸話も。サッカーは小学3年で始め、熊本・大津高で1年夏からレギュラー。各年代別代表に選出。13年に鹿島入り。15年アジア杯で日本代表に初招集され、17年東アジアE―1選手権でデビュー。国際Aマッチ通算3試合0得点。186センチ、80キロ。家族は両親、姉、妹。





響け!勇気与える植田直通の声…W杯は「熊本県民の代表として」




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