【中古】 猛毒生物大図鑑 ふしぎな世界を見てみよう/長沼毅(その他),森野達弥(...
2010年南アフリカワールドカップ優勝の立役者であるアンドレス・イニエスタ、ダビド・ビジャ(ともにヴィッセル神戸)、フェルナンド・トーレス(サガン鳥栖)の3人が揃って参戦している今季のJリーグ。トーレスは8月23日の神戸戦で現役引退することを発表したが、他のビッグネームは健在だ。これまでもJリーグには彼らのような偉大な外国人選手がやってきて、人々を魅了した歴史があった。そんな26年間の歴史の中で『優良外国人選手』と言えるのは誰なのか。それを探ってみることにしたい。
まず貢献度ナンバーワンと言えるのは、Jの礎を築いたジーコではないだろうか。日本サッカーリーグ(JSL)2部時代の住友金属に加入し、のちの鹿島アントラーズに勝利のメンタリティを植え付けた人物としてよく知られている。この偉大なプレーヤーの参戦がなければ、鹿島が常勝軍団になることも、通算タイトル20冠を獲得することもあり得なかった。
鹿島は1994年から1996年に当時ブラジル代表のスターだったレオナルド、1995年から1998年に同じくブラジル代表で活躍したジョルジーニョを獲得。彼らの活躍で複数回の優勝を飾っているが、それもジーコの人脈がなければあり得ない話だった。レオナルドが5回のリフティングでDFを振り切って決めた1995年の横浜フリューゲルス戦の華麗なゴールは、今も多くのサッカーファンの脳裏に焼き付いて離れないし、ジョルジーニョも1996年にサイドバックとして唯一のMVPを獲得。強烈な存在感を残している。
鹿島にはその後もビスマルクなど傑出した存在感を誇るブラジル人選手がいたが、それもジーコが構築したブラジルネットワークによるところが大だろう。ジーコの撒いた種がどれほど大きいものだったか。それを再認識させられることは少なくない。
ジーコに匹敵する存在感を誇ったのが、名古屋グランパスに1995年天皇杯の初タイトルをもたらした「ピクシー(妖精)」こと、ドラガン・ストイコビッチではないか。
マルセイユの八百長問題から欧州を離れる決断をした彼は当初、1994年夏から半年間のつもりで名古屋入りしたが、1995年にアーセン・ベンゲル監督が就任したことで契約を延長。2001年まで在籍し、リーグ戦184試合出場57ゴールという記録を残した。
その後、2008から2013年には指揮官として名古屋に凱旋。2010年にはクラブに初のJリーグタイトルをもたらしている。当時のチームは楢崎正剛や玉田圭司、田中マルクス闘莉王、ジョシュア・ケネディら強烈な個性が揃っていたが、彼らをまとめ、一体感をもたらしたのもピクシーのカリスマ性があってこそ。それは今も、名古屋を支える人々の共通認識に違いない。
目下、名波浩・前監督の辞任と鈴木秀人・新監督就任で揺れているジュビロ磐田。その黄金期を築いたドゥンガの存在も忘れてはいけない。1994年アメリカワールドカップ優勝時のセレソンのキャプテンは1995年から1998年まで同クラブに在籍。1997年にはJリーグMVPも獲得している。
中山雅史や藤田俊哉、名波、福西崇史といったタレントたちを容赦なく怒鳴り、鼓舞し、闘争心を植え付けるそのスタイルはまさに“闘将”そのもの。「ドゥンガにサッカーの厳しさを教わった」と藤田や福西は口を揃える。鹿島にとってのジーコ同様、磐田にはドゥンガがいたから、2000年代前半まで圧倒的な強さを維持することができたと言ってもいいだろう。
J発足から10年間は彼らのような伝道師的な外国人選手が多かったが、その後は知名度的にやや低いものの、効果的なパフォーマンスでチームを勝たせるタイプの助っ人が増えてきた。
その代表格が浦和レッズに2003年Jリーグナビスコカップの初タイトルをもたらし、自身も2003年JリーグMVPに輝いたエメルソン。2001年夏から2005年6月まで在籍したブラジル人FWは爆発的なスピードと決定力で敵を翻弄すると同時に、観る者を大いに魅了した。独りよがりでわがままな性格に加え、さまざまな問題行動を起こす破天荒男は時に批判の的になることもあったが、熱心なレッズサポーターには深く愛された。本人も日本を気に入り、日本代表への憧れまで口にするようになったが、結局は高額年俸に惹かれてカタールへ移籍。昨年限りで現役を引退している。
エメルソンの後を引き継いで浦和をアジア最強クラブへと押し上げたロブソン・ポンテも忘れられない名選手だ。2005年から2010年までの在籍期間にJ1・144出場33ゴールを記録し、2007年のAFCアジアチャンピオンズリーグを含む5つのタイトル獲得の原動力になった。高度な技術と戦術眼が凝縮されたスルーパスと鋭いミドルシュートで数々のチャンスを作り、絶対的エースFWワシントンとのホットラインで破壊力抜群の攻撃を組み立てた。若かりし長谷部誠や原口元気も彼に大きな影響を受けたのは確か。「味方の長所を生かせる気の利いた司令塔」はJリーグの歴史にしっかりと名を刻んでいる。
東京ヴェルディを皮切りに、横浜F・マリノス、ジェフユナイテッド市原、清水エスパルス、鹿島、ベガルタ仙台、神戸と7つのクラブを渡り歩き、J1通算333試合出場152ゴールという驚異の数字を叩き出したマルキーニョスの存在価値も見逃せない。とりわけ、彼がまばゆいばかりの輝きを放ったのが、2007年から2010年の鹿島時代。オズワルド・オリヴェイラ監督体制の鹿島は2007年から3連覇を飾っているが、その3年間は14、21、13ゴールとコンスタントに2ケタ得点をマーク。2008年には得点王とMVPをダブル受賞した。
当時まだ若手だった興梠慎三や内田篤人にとってもブラジル人ストライカーの存在は心強かったはず。興梠はマルキーニョスから得点を奪う術の一端を学び、内田も彼のような動き出しの鋭いアタッカーへのクロスの供給を体得し、その後の成功につなげたところがあった。2012年から2013年の横浜時代も、中村俊輔とのホットラインは完成度が高く、「マルキがいるから思うような攻撃ができる」と中村も絶大な信頼を寄せていた。彼の影響力の大きさは我々も今一度、認識すべきだろう。
この他にも、川崎フロンターレを躍進させたジュニーニョ、2011年の柏レイソルのJ1制覇の立役者となったレアンドロ・ドミンゲス、J2時代の京都サンガから最終的にマンチェスター・ユナイテッドまで飛躍したパク・チソンなど印象深い外国人は少なくない。
近年はタイのチャナティップ・ソングラシンのようにアジア出身の選手も活躍していて、優良外国人の勢力図も変わってくる可能性も大いにある。Jリーグの外国人枠拡大もあって、多国籍軍化はこの先、一層進むだろう。そんな中、新たな成功を収める選手は誰なのか。我々の度肝を抜くような次なる助っ人の参戦を楽しみに待ちたい。