
日刊鹿島アントラーズニュース
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2018年4月24日火曜日
◆J2で15位低迷の大宮、社長が声明発表「10節を終えたこのタイミングで…」(サッカーキング)

大宮アルディージャは23日、「ファン・サポーターの皆さまへ」と題した声明を公式HPに掲載した。
昨季の明治安田生命J1リーグで最下位に沈んだ大宮は今季、明治安田生命J2リーグ開幕10試合を終えて3勝2分け5敗。22日の第10節アルビレックス新潟戦では敵地で1-0と勝利を収めたものの、勝ち点「11」で15位に沈んでいる。
1年でのJ1復帰を掲げながらも下位に低迷している現状を受け、大宮の代表取締役社長を務める森正志氏の署名入りでの声明が公式HPに掲載された。
「いつも大宮アルディージャに熱いご声援を頂戴し、誠にありがとうございます。明治安田生命J2リーグは昨日の試合で開幕から10節を終了いたしました。今シーズンもファン・サポーターの皆さまにはチームに対して多大なるご声援、ご期待をいただいているにも関わらず、結果につなげることができず、ご心配をおかけしておりますことを心よりお詫び申し上げます。10節を終えたこのタイミングで、クラブからファン・サポーターの皆さまにチームの現状と今後についてご説明させていただきたいと存じます」
「まずは昨日も遠方のアウェイゲームにも関わらず、多くのファン・サポーターの皆さまには新潟の地で熱く選手たちを後押ししていただき、久しぶりにアウェイで勝利することができました。クラブを代表して心より御礼申し上げます」
「この結果、明治安田生命J2リーグ10節終了時点で3勝2分け5敗 勝ち点11、15位という状況にあります。チームの掲げた優勝してJ1復帰という目標からは大変厳しい状況が続いております。この状況はクラブとしても強く認識しており、石井監督をはじめチームスタッフ、選手、また強化スタッフは勝利のため日々考え、チームとしての連携や戦術を成長、成熟させるべく、チーム一丸となってトレーニング内容などを工夫し次の試合に向け集中したトレーニングをしております。詳しい取り組みの内容は、戦術に関わることもありお話できませんが、その取り組みは練習や試合の中で徐々に積み重ねられており、結果につながっていくことと信じています。昨日の試合では結果だけでなく内容面での成長、成熟が感じられるシーンが見られましたが、まだまだ改善されなければならないポイントはあります。さらなる努力を続けこの兆しを結果という確かな形にしていかなければならないと考えております」
「今シーズンを迎えるにあたり、前回戦った2015年のJ2リーグよりレベルは上がっており決して簡単では無いということは想定していましたが、10試合を戦い改めてその厳しさを感じているところではあります。しかし、今後チームの連携面での成長・成熟をより進め、チームとクラブが、ファン・サポーターの皆さま、ご支援いただいている皆さまと一つになり、一試合一試合を必死に戦うことで、今後勝点を積み上げ、必ずや上位に追いついていけるものと信じております。私はクラブの代表として、残りリーグ戦32試合、J2リーグ優勝という目標達成に向け、石井監督、選手、スタッフを様々な面でしっかり支えていく所存です」
「昨日の勝利をしっかり次につなげることが大切であるということは言うまでもありません。次節は4月28日の明治安田生命J2リーグ 東京ヴェルディとのホームゲームとなります。どうか皆さまNACK5スタジアム大宮にて『ONE』勝利のために、熱いご声援で選手への後押しを心よりお願いいたします」
J2で15位低迷の大宮、社長が声明発表「10節を終えたこのタイミングで…」
◆レオシルバは知っていた。「鹿島? ジーコがプレーしたクラブだろ」(Sportiva)

遺伝子 ~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(9)
レオシルバ 前編
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◆移籍組の名良橋晃は「相手PKに ガックリしただけで雷を落とされた」(Sportiva)
◆名良橋晃がジョルジーニョから継ぎ、 内田篤人に渡した「2」への思い(Sportiva)
4月14日、Jリーグ第8節・鹿島アントラーズ対名古屋グランパス。負傷で離脱していた内田篤人と昌子源が先発に名を連ね、勝利を飾った鹿島。リーグ戦2連敗、相次ぐ負傷者で苦しんでいたチームに光が差した。
「篤人の復帰は大きい。チームに自信と安心をもたらしてくれた」と小笠原満男。「プレーでチームを引っ張っていきたい」と今季移籍加入した内田だったが、リーグ開幕戦以降、筋肉系のトラブルで離脱せざるを得なかった。
この試合では、試合開始早々に攻撃参加や前線へのパスを配球している。「前半、試合の入り方が悪く、苦しんでいたから、前への意識をチームにもたらしたかった」と内田は話している。身体を張った泥臭い守備でも闘争心を示した。2枚目のイエローカードを危惧し、自ら申し出て途中交代したあともベンチで、途中出場するチームメイトにアドバイスした。内田は自身の立場を自覚して、その任務を果たし、移籍後初めての公式戦勝利を味わった。
しかし、4月17日のACLグループリーグ第6節、1位突破には引き分け以上の結果が必要だった水原三星(韓国)との上位対決は0-1で敗れ、グループ2位となってしまう。ケガ人は8人を数え、出場機会の少ない選手を先発起用したものの、連係面でのミスや個人的なミスが目立ち、試合後、昌子が若いチームメイトへ苦言を呈した。いつも、選手間での厳しい要求が必要と語る昌子らしいコメントだった。
「仲間を非難するつもりはないけれど、『レギュラーを奪ってやる』というようにミスを恐れないプレーがなかった」
サブ組という立場を自覚し、やるべきことをやり抜かなければならない。訪れたチャンスを掴むためには、奮起一番のプレーが求められる。もちろん、チャンスを得た選手たちのモチベーションは高かったはず。だが、それをピッチで表現できなかった。重要な一戦だからこそ、まずは自身が担うプレッシャーに勝たなければ、仕事はできない。ホームでの敗戦という結果は、起用された選手たちに競争の厳しさを改めて突きつけることになった。
Jリーグで唯一、ACL決勝トーナメント進出を果たした鹿島。しかし、過去に決勝トーナメント1回戦を突破したことはない。昨年はACL敗退後に監督が交代している。過密日程で勝利を飾り、乗り切るためにもサブ組の躍進は必要不可欠だ。
リーグ戦連敗ストップの喜びもACLの敗戦でリセットされた。チームとしても、また新たな気持ちで、4月21日、強敵・川崎フロンターレとの一戦へ向かう。
* * *
鹿島アントラーズのDNAのなかに、「ブラジル」があることは間違いがない。ならば、ブラジル人選手にとって、鹿島アントラーズとはどんな存在なのか? アルビレックス新潟から移籍加入したレオシルバに訊いた。

取材をしたのは3月上旬のことだ。ACL初戦、そしてリーグ開幕戦と2試合続けて、レオシルバは相手にPKを与えてしまう。それをGKのクォン・スンテが好セーブで得点を阻止した。
「スンテ選手にコーヒーをおごったり、しなかったのですか?」
そんなこちらの軽口を耳にするなり、レオシルバはまくしたてるように言う。
「シュートを止めるのはスンテの仕事でしょう? 僕があそこでシュートブロックしなければ、失点していたかもしれない。僕は他のチームメイト同様にスンテのことを信頼しているから。(PKを)止めてくれたからといって、特別なことはしないよ。僕がボール奪取するたびに、ボールロストした選手に『コーヒーをごちそうして』なんて言わないから……」
そんな話を聞きながら思い出したのは、海外でプレーする日本人選手から何度も聞かされてきた外国人選手の「負けず嫌い」ぶりだった。そして、目の前にいるレオシルバからは、非を認めない傲慢さではなく、悔しさも不甲斐なさもすべてをひっくるめても「負けを認めたくはない」という負けず嫌いなスピリッツが伝わってきた。
――鹿島アントラーズのことは、いつ頃から知っていましたか?
「ずいぶん、昔から知っています。ジーコが住友金属でプレーしたこともブラジルでは誰もが知っているし、そのチームが鹿島アントラーズになったことも。『鹿島アントラーズ? ああジーコがプレーしたクラブだろう』という感じです」
――ご自身が日本でプレーすることになると、10代の頃、考えたりはしましたか?
「今思えばという感じですが、実は僕が初めてブラジル代表に選ばれたのが、U-20代表でした。2004年の夏に、日本で行なわれる大会に出場することになったんです。本当に嬉しくて、やる気満々で日本へ来ました。にもかかわらず。大会が始まる直前にヒザを痛めてしまったんです。だから大会中はずっとベンチで試合を見ていました。観光に来たようなものです。本当に落胆しました。
日本代表とも対戦したと思うけれど、当時はまだ若く、初めて代表でケガをしてしまって。異国の地にいて、相手チームのことを見る余裕もなかったです。覚えているのは、とても暑くて、帰りたくてしょうがなかったこと。人生のなかで一番の暑さを日本で経験しました。だけど、そんな日本でこうやって暮らすようになるとは、不思議な縁を感じています」
――Jリーグでプレーしていた知人などからの日本の情報はどんなものでしたか?
「柏にいたマルシオ・アラウージョなど、日本に行った選手たちは、非常にたくさん日本の話をしてくれました。しかも、ただ『いいところだよ』というのではなく、『非常にいいところだ』って言ってくれた。だから、実際のオファーを受ける前から、日本の国、リーグ、クラブのオーガニゼーションや治安の良さなど、日本に対しては好意的な印象を持っていたんです。
ユース代表で行ったときも、とにかく接する人たち、ホテルや町の人たちが、僕らをとても歓迎してくれたことは印象強く残っていました。言葉はたしかにわからないけれど、教育や道徳がしっかりしている国民なんだという強い印象がありました」

――来日して、アルビレックス新潟でプレーをすることになるわけですが、不安はありませんでしたか?
「まったく、迷いも不安もありませんでした。もちろん、言葉の問題があることは周囲からも言われていたことで、覚悟もありました。でも、初日から安心してプレーできたし、時間の経過とともに、だんだん居心地の良さを実感するようになりました。後悔は一切していません」
――今では、レオシルバさんが、ブラジルの選手たちに「日本はどうだ?」と訊かれるのでは。
「そうですよ。『日本は非常によい』という情報を与える立場になっています」
――新潟でプレーしていたとき、いつか鹿島でという気持ちはありましたか?
「私はいつも、常に高い目標を置いてやってきました。なので、いつか、日本の大きなクラブでタイトルを獲りたいという気持ちはありました。その目標を達成できた自分を誇りに思っています。
でも、新潟が小さいクラブだとか、今は2部だということじゃなくて、新潟への敬意や愛情は今も変わらずあります。私がここへ来るまでの過程において、重要なクラブだったという事実は変わりませんから。たくさん面倒をみてもらいました。
だから、新潟を離れるのは心苦しいし、心が痛みました。でも、『アントラーズで優勝したい、タイトルを獲りたい』という新たな目標があったし、鹿島で結果を残したいという強い気持ちがあったので、気持ちの整理をせざるを得なかった。新潟への愛情は横へ置いています。
そして、鹿島の人たちも僕を歓迎してくれて、面倒をみてもらっています。だから、アルビレックスと同じように、鹿島にも強い愛情を抱いています」
――新潟時代に鹿島とも対戦していますが、そのときの印象は?
「正直、難しい試合が多かったですね。とにかく強かった。勝った覚えがなくて、ほとんど引き分けか負けだったように記憶しています。でも、そのとき対戦した経験があるので、鹿島の選手たちについての情報も持っていました。だから、鹿島の選手になったとき、スムーズに溶け込むことができたんだと思っています」
(つづく)
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◆名良橋晃がジョルジーニョから継ぎ、 内田篤人に渡した「2」への思い(Sportiva)
4月14日、Jリーグ第8節・鹿島アントラーズ対名古屋グランパス。負傷で離脱していた内田篤人と昌子源が先発に名を連ね、勝利を飾った鹿島。リーグ戦2連敗、相次ぐ負傷者で苦しんでいたチームに光が差した。
「篤人の復帰は大きい。チームに自信と安心をもたらしてくれた」と小笠原満男。「プレーでチームを引っ張っていきたい」と今季移籍加入した内田だったが、リーグ開幕戦以降、筋肉系のトラブルで離脱せざるを得なかった。
この試合では、試合開始早々に攻撃参加や前線へのパスを配球している。「前半、試合の入り方が悪く、苦しんでいたから、前への意識をチームにもたらしたかった」と内田は話している。身体を張った泥臭い守備でも闘争心を示した。2枚目のイエローカードを危惧し、自ら申し出て途中交代したあともベンチで、途中出場するチームメイトにアドバイスした。内田は自身の立場を自覚して、その任務を果たし、移籍後初めての公式戦勝利を味わった。
しかし、4月17日のACLグループリーグ第6節、1位突破には引き分け以上の結果が必要だった水原三星(韓国)との上位対決は0-1で敗れ、グループ2位となってしまう。ケガ人は8人を数え、出場機会の少ない選手を先発起用したものの、連係面でのミスや個人的なミスが目立ち、試合後、昌子が若いチームメイトへ苦言を呈した。いつも、選手間での厳しい要求が必要と語る昌子らしいコメントだった。
「仲間を非難するつもりはないけれど、『レギュラーを奪ってやる』というようにミスを恐れないプレーがなかった」
サブ組という立場を自覚し、やるべきことをやり抜かなければならない。訪れたチャンスを掴むためには、奮起一番のプレーが求められる。もちろん、チャンスを得た選手たちのモチベーションは高かったはず。だが、それをピッチで表現できなかった。重要な一戦だからこそ、まずは自身が担うプレッシャーに勝たなければ、仕事はできない。ホームでの敗戦という結果は、起用された選手たちに競争の厳しさを改めて突きつけることになった。
Jリーグで唯一、ACL決勝トーナメント進出を果たした鹿島。しかし、過去に決勝トーナメント1回戦を突破したことはない。昨年はACL敗退後に監督が交代している。過密日程で勝利を飾り、乗り切るためにもサブ組の躍進は必要不可欠だ。
リーグ戦連敗ストップの喜びもACLの敗戦でリセットされた。チームとしても、また新たな気持ちで、4月21日、強敵・川崎フロンターレとの一戦へ向かう。
* * *
鹿島アントラーズのDNAのなかに、「ブラジル」があることは間違いがない。ならば、ブラジル人選手にとって、鹿島アントラーズとはどんな存在なのか? アルビレックス新潟から移籍加入したレオシルバに訊いた。

取材をしたのは3月上旬のことだ。ACL初戦、そしてリーグ開幕戦と2試合続けて、レオシルバは相手にPKを与えてしまう。それをGKのクォン・スンテが好セーブで得点を阻止した。
「スンテ選手にコーヒーをおごったり、しなかったのですか?」
そんなこちらの軽口を耳にするなり、レオシルバはまくしたてるように言う。
「シュートを止めるのはスンテの仕事でしょう? 僕があそこでシュートブロックしなければ、失点していたかもしれない。僕は他のチームメイト同様にスンテのことを信頼しているから。(PKを)止めてくれたからといって、特別なことはしないよ。僕がボール奪取するたびに、ボールロストした選手に『コーヒーをごちそうして』なんて言わないから……」
そんな話を聞きながら思い出したのは、海外でプレーする日本人選手から何度も聞かされてきた外国人選手の「負けず嫌い」ぶりだった。そして、目の前にいるレオシルバからは、非を認めない傲慢さではなく、悔しさも不甲斐なさもすべてをひっくるめても「負けを認めたくはない」という負けず嫌いなスピリッツが伝わってきた。
――鹿島アントラーズのことは、いつ頃から知っていましたか?
「ずいぶん、昔から知っています。ジーコが住友金属でプレーしたこともブラジルでは誰もが知っているし、そのチームが鹿島アントラーズになったことも。『鹿島アントラーズ? ああジーコがプレーしたクラブだろう』という感じです」
――ご自身が日本でプレーすることになると、10代の頃、考えたりはしましたか?
「今思えばという感じですが、実は僕が初めてブラジル代表に選ばれたのが、U-20代表でした。2004年の夏に、日本で行なわれる大会に出場することになったんです。本当に嬉しくて、やる気満々で日本へ来ました。にもかかわらず。大会が始まる直前にヒザを痛めてしまったんです。だから大会中はずっとベンチで試合を見ていました。観光に来たようなものです。本当に落胆しました。
日本代表とも対戦したと思うけれど、当時はまだ若く、初めて代表でケガをしてしまって。異国の地にいて、相手チームのことを見る余裕もなかったです。覚えているのは、とても暑くて、帰りたくてしょうがなかったこと。人生のなかで一番の暑さを日本で経験しました。だけど、そんな日本でこうやって暮らすようになるとは、不思議な縁を感じています」
――Jリーグでプレーしていた知人などからの日本の情報はどんなものでしたか?
「柏にいたマルシオ・アラウージョなど、日本に行った選手たちは、非常にたくさん日本の話をしてくれました。しかも、ただ『いいところだよ』というのではなく、『非常にいいところだ』って言ってくれた。だから、実際のオファーを受ける前から、日本の国、リーグ、クラブのオーガニゼーションや治安の良さなど、日本に対しては好意的な印象を持っていたんです。
ユース代表で行ったときも、とにかく接する人たち、ホテルや町の人たちが、僕らをとても歓迎してくれたことは印象強く残っていました。言葉はたしかにわからないけれど、教育や道徳がしっかりしている国民なんだという強い印象がありました」

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――今では、レオシルバさんが、ブラジルの選手たちに「日本はどうだ?」と訊かれるのでは。
「そうですよ。『日本は非常によい』という情報を与える立場になっています」
――新潟でプレーしていたとき、いつか鹿島でという気持ちはありましたか?
「私はいつも、常に高い目標を置いてやってきました。なので、いつか、日本の大きなクラブでタイトルを獲りたいという気持ちはありました。その目標を達成できた自分を誇りに思っています。
でも、新潟が小さいクラブだとか、今は2部だということじゃなくて、新潟への敬意や愛情は今も変わらずあります。私がここへ来るまでの過程において、重要なクラブだったという事実は変わりませんから。たくさん面倒をみてもらいました。
だから、新潟を離れるのは心苦しいし、心が痛みました。でも、『アントラーズで優勝したい、タイトルを獲りたい』という新たな目標があったし、鹿島で結果を残したいという強い気持ちがあったので、気持ちの整理をせざるを得なかった。新潟への愛情は横へ置いています。
そして、鹿島の人たちも僕を歓迎してくれて、面倒をみてもらっています。だから、アルビレックスと同じように、鹿島にも強い愛情を抱いています」
――新潟時代に鹿島とも対戦していますが、そのときの印象は?
「正直、難しい試合が多かったですね。とにかく強かった。勝った覚えがなくて、ほとんど引き分けか負けだったように記憶しています。でも、そのとき対戦した経験があるので、鹿島の選手たちについての情報も持っていました。だから、鹿島の選手になったとき、スムーズに溶け込むことができたんだと思っています」
(つづく)
◆真野恵里菜と結婚報道の柴崎岳、スペインで激やせしていた(Asa-Jo)

一部スポーツ紙の報道によると、サッカー・スペイン1部リーグのヘタフェ所属のMF柴崎岳が、女優でタレントの真野恵里菜と結婚することが、4月18日にわかった。夏頃までには婚姻届を提出すると見られている。
2016年秋、柴崎と真野は共通の知人の紹介で出会い、交際に発展。複数の関係者によると、約1年半の遠距離交際期間を経た2人は結婚の意思が固く、早ければサッカーW杯後の今夏にゴールインする予定だという。
イケメン選手としても有名な柴崎は、J1鹿島から2017年1月31日にスペイン2部のテネリフェに移籍。同年7月、1部昇格を果たしたヘタフェに移籍し、9月には名門バルセロナから強烈なボレーシュートを決めて世界からも注目された。しかし同試合中に左足甲を亀裂骨折し、一時帰国。このとき、真野が得意のロールキャベツなど手料理を振る舞い、献身的にサポート。そのかいあってか12月に柴崎は復活し、18年3月の欧州遠征で日本代表にも復帰した。
真野との結婚報道を聞いたスポーツ紙記者は、真っ先にスペイン移籍直後の柴崎のことを思い出したという。
「柴崎はテネリフェへの移籍直後、わずか2日間トレーニングしただけで、胃腸炎でダウン。以降の練習を欠席しました。そのため順応障害やホームシックなどと報道されたり、渡欧後2週間で6キロ痩せたとも伝えられ、メディアは不安視していたのです。慣れない環境でのプレーは確かに精神的な負担になったと思いますが、真野と付き合い始めて間もない時期だったため、より寂しく感じたのではないでしょうか。あれほどきれいな彼女が遠い日本にいれば、ホームシックになっても仕方がありません」
結婚後も真野は仕事を続けるというが、なるべく柴崎との時間を多く過ごしてもらいたい。
(石田英明)
真野恵里菜と結婚報道の柴崎岳、スペインで激やせしていた

◆【Jリーグ25周年の群像】内田篤人、自身もチームもコツコツ 再び「2番」背負い復権へ 「常に勝たなければいけないクラブ」(zakzak)

★鹿島DF・内田篤人(3)
「ずっと帰って来たいと思っていたから」
内田篤人(30)は、万感の思いを第一声に込めた。今季へ向けて鹿島アントラーズが始動した1月9日。約7年半ぶりに復帰した男が古巣への深い愛を語った。
「18歳から22歳までここでプレーさせてもらったし、アントラーズのエンブレムや旗を見ると、やらなきゃいけない、という気持ちになるよね」
ブンデスリーガのシャルケへ移籍した2010年7月から、「体が動くうちに戻って来たい」と考えていた。鹿島もまた内田の象徴だった背番号「2」を空き番として、レジェンドの帰還を待ち続けた。1995年から強化の最高責任者を務める鈴木満常務取締役も、欧州がオフに入り、帰国した内田が鹿島を訪れる度に「そろそろどうだ」と声をかけてきた。
昨オフは状況が異なった。内田が所属していた2部ウニオン・ベルリンへ出した正式な完全移籍のオファーを、鈴木常務は「向こうとこっちの状況がちょうどかみ合った」と振り返る。
「(小笠原)満男が試合に出られる機会がだんだん減ってきた中で、伝統などいろいろなものを継承する役割を、満男の次の世代に担ってほしい。それも(内田)篤人を呼び戻した理由」
残り2試合で1勝すればJ1連覇を達成できた昨季。いずれも引き分けた鹿島は、川崎フロンターレに優勝をさらわれた。長く鹿島をけん引してきた精神的支柱、MF小笠原満男は2試合ともベンチを温めた。
「鹿島は常に勝たなければいけないクラブ。ネットで負けたことを知ると、一ファンとして『何をしているんだ』という気持ちになった」
ドイツの地で古巣の動向を注視していた内田にとっても、昨季のV逸&無冠はショックだった。
内田自身、昨夏に移ったベルリンで2試合の出場に甘んじていたこともあり、復帰を決意した。
「鹿島には伝統があるけど、決して派手なクラブとは思っていない。もう一度見つめ直して、鹿島らしくコツコツとね」
3月に30歳になり、選手ミーティングでは39歳の小笠原の次に発言する立場になった。復権を期す鹿島で、まずは目の前の仕事に集中する。(スポーツジャーナリスト・藤江直人)
【Jリーグ25周年の群像】内田篤人、自身もチームもコツコツ 再び「2番」背負い復権へ 「常に勝たなければいけないクラブ」

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