日刊鹿島アントラーズニュース

Ads by Google

ラベル 鈴木国弘 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 鈴木国弘 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年12月2日土曜日

◆「日本に恥をかかせるわけにいかない」 ジーコが“世界”に示し続けた愛情とプライド(THE ANSWER)




W杯抽選会、「あとにしてくれ」とプラティニを待たせ、日本の記者団を最優先したジーコ

「あとにしてくれ。私は今、彼らに話している」――ジーコ(元日本代表監督)

2005年末に行われた06年ドイツ・ワールドカップ(W杯)の組み合わせ抽選会でのことだった。

 日本代表を率いていたジーコに「あとにしてくれ」と、待ちぼうけを食らったのは、当時FIFA(国際サッカー連盟)の理事を務めていたミシェル・プラティニである。

 1980年代は天才的なMFが百花繚乱だったが、ブラジル代表のジーコとフランス代表のプラティニは、南米と欧州の両大陸を代表するスーパースターだった。当然2人は旧知の間柄で、両者が灼熱のグアダラハラで激闘を演じた1986年メキシコW杯準々決勝の一戦は、大会史の中でも屈指の名勝負として語り継がれている。最終的にはPK戦の末にプラティニのフランスが勝利を飾るのだが、敗れたジーコに真っ先に寄り添い、慰めたのがプラティニだった。

 しかし2005年には立場が変わり、ジーコは日本代表監督になっていた。鹿島アントラーズでもそうだったが、ジーコは自分のチームに人一倍の愛情を注ぎ、プライドを持つ。この時、ジーコの魂は日本人になっていた。

 抽選会を終えたジーコは、日本の記者に囲まれ質問を受けていた。プラティニが歩み寄って来たのは、そんな時だった。つまりジーコは、日本の記者団に対応することを最優先し、プラティニを待たせたわけだ。

ドイツ代表監督に「つまみ出せ!」と激怒…ジーコが愛された理由とは

 長くジーコと一緒に過ごしてきた鈴木圀弘通訳が、「日本に恥をかかせるわけにはいかない」が口癖になっていたと教えてくれた。

 2004年12月に横浜国際総合競技場で行われた親善試合のドイツ戦(0-3)後の会見中には、勝ったユルゲン・クリンスマン監督が「バスの都合があるので、先にやらせてくれないか」と顔を出した。しかしジーコは血相を変えて、「つまみ出せ!」と怒鳴りつけていたという。当初から会見の順番は、日本が先と決まっていた。

 ウクライナやハンガリー遠征の際にも、不可解なジャッジには日本のために激昂し、食ってかかった。それはJリーグ元年の1993年チャンピオンシップで、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)へのPKの判定に抗議を込めて、ボールに唾をかけた気概と通じるものがある。

 すべてが誉められることではないかもしれない。しかしこうしてジーコは、とことんチームを愛し、全力を傾注し、どんなことをしてでも勝利に導こうとしてきた。

 それは常勝鹿島の原点でもあり、ジーコが愛される理由でもある。

【了】

加部究●文 text by Kiwamu Kabe

「日本に恥をかかせるわけにいかない」 ジーコが“世界”に示し続けた愛情とプライド

2017年1月13日金曜日

◆長友佑都が成功した秘訣とは?サッカー海外組に求められる、語学力より大事なこと(AZRena)




サッカー日本代表の元監督であり、世界的な名プレーヤーであったジーコ氏の通訳を長年に渡って務めてきたのが、鈴木國弘さんです。前回の記事では鈴木さんがブラジルへ渡った経緯やジーコ氏からの教えについて話していただきました。

今回も引き続き、ポルトガル語の通訳をしている中でぶつかったトラブルやブラジルでの出来事について語ってもらいます。そして、サッカー日本代表・長友佑都選手の移籍にまつわる裏話、そして彼が海外で成功した理由についても言及されています。

同じ言語でも地域で全く音が違う

かつて鹿島に所属したレオナルドから言われたのは、『お前はジーコと同じしゃべり方をしているな』と。1日何時間も一緒にいると、自然にジーコの言葉をコピーする形になっていくんですよね。彼によってプロのサッカーの言葉を習得していったみたいな。そうすると、ボキャブラリーが増えていくという流れができていきました。

ポルトガル語でも地区によって発音が少し違うところがあるんですよね。僕が聞いていたのはリオの言葉で、ジーコはきれいな発音をする。ですから、ものすごく聞き取りやすい。ですがサンパウロの田舎から出てきた選手だと『英語をしゃべっているんじゃないか!?』というような感覚でしか聞こえない。ポルトガル本国の言葉もぜんぜん違う。

昔、フラメンゴとポルトとアントラーズで試合をした時があって、全部ポルトガル語が通じるので「全部俺が(通訳を)やりますよ」と言ったんです。キリンカップの出だしの頃ですね。ポルトとフラメンゴの会長と監督がいて、ジーコが鹿島の代表として出ていました。最初、ポルトの会長から話が始まったのですが、本当に言葉が入ってこない。聞きにくい音でそれまで聞いたことなかったから、これはまずいと思った。

そこで、ジーコのところにいって「本国のポルトガル語を俺にブラジルでの発音に訳してくれ」と言いました。本人は『ええっ』と驚いた顔をして、記者は大笑いしているわけです。『こいつ、何やってんだ』みたいな。日本の青森弁と、沖縄の言葉くらい違う感じです。とにかく言葉が入ってこなかったですね。

ブラジル人は頭の回転が早い

自分がブラジルに行った当時、ジーコはもう大スターでしたから。その人と十数年後に仕事するなんて考えられなかったですよ。ジーコと一緒にブラジルへ仕事にいくと、公園に連れて行かれて、『こいつは俺の大ファンでフラメンゴのシャツ着て俺のこと応援していたんだ』と周りの人に話すんです。どこが面白いか分からないんですけど、ブラジル人にはツボみたいで、彼らは大笑いするんです。

ブラジル人からすると通訳ってよくわからない存在みたいなんです。『なんかジーコの横に日本人がいて、ジーコと同じような格好しながら日本語で話しているやつがいる』ということでブラジルで一度、話題になったんですよ。向こうのバラエティ番組か何かで私の真似をする企画みたいなのをやっていて、ジーコの奥さんがそれを見て面白いと思って、録画して送ってくれたことがありました。ブラジルに行ったらインタビューもされちゃって。結構よくしてもらえましたね、向こうでは(笑)  

よくジーコがなんでこれだけ日本にいて日本語ができないのか、と茶化されるんですけど、彼は『俺が日本語喋ったらあいつ(鈴木氏のこと)の仕事がなくなっちゃうじゃん』とよく言っていました。実は、ヒアリングはほとんどできるんですよ。 昔の話をすると、ヒデ(中田英寿)とジーコはイタリア語で話すんです。ジーコもイタリア語ペラペラだから。

でもミーティングの場とか公のところになると、ヒデもジーコも絶対にイタリア語を使わない。すべて通訳を介して、会話します。日本人のスタッフとバーへ言って日本語で話すこともあったのですが、公の場では一切日本語は使わない。

ジーコは英語は上手くないですが、フランス語、ポルトガル語、スペイン語、イタリア語と、頭を切り替えてその場でインタビューできるくらいのレベルまで話せるんです。 ブラジルって雑多な国だから違う民族同士が隣だったりするので、コミュニケーション能力はすごく高いんですよ。陽気なだけに見えるのですが、頭の回転がすごく速い人が多いし、その場の雰囲気を作るのがうまかった。そういう面白い国民です。

長友佑都のインテル移籍の裏側で…

海外でプレーして成功できる選手は、溶け込むのが早い。言葉がわかるとなおそうです。でも、基本的には人間性です。特に長友(佑都)。彼がFC東京からインテル・ミラノへいく前に、夜中に新聞社から電話がかかってきて、『インテルが長友を獲るんですか?』と聞かれたことがあって。私は「そんなわけないじゃん」と伝えました。ただ、その10分後くらいにレオナルドから電話が来たんです。当時、彼はインテルの監督だった。

『ごめん、寝てた?』と。「寝ているに決まってるじゃん、こんな時間!」という会話から始まりました。深夜の1時、2時でしたから。 要件を聞いたら、実はインテルが長友を取ると言っているから、協力してくれと。

当時まだFC東京が長友の保有権を20〜30%持っていたんですよ。だから、FC東京の社長のサインがないといけない。インテルとチェゼーナ間だけでは成り立たないと。あと数時間しか(移籍市場の)期限がないから、FC東京の社長に電話してOKとってくれないかと言われたんですよ。夜中2時に。

「それなら長友本人に電話すれば、イタリア語ができるし良いじゃないか」と言ったのですが、長友はまだ全然喋れないと。それで自分が頼まれたのですが、長友とは代表で被っていないから面識がない。でもとにかくやってくれと言われたからまずは彼に何度も電話したんです。そしたらなんとか電話に出てくれた。「鈴木と申しますけど…」と経緯を伝えて、今の状況を聞いたら、『チェゼーナで練習をしていたら、いきなり役員がきて、練習中に車で連れて行かれました』と。

そこで「インテルがあなたを獲りたがっているからミラノに行くみたいだけど、行きたい?」と聞いたら『行きたいです!』と。なら、今からFC東京の社長に電話する必要があるという旨を伝えました。そしてその流れでマネージャーがいるかどうかを聞きました。するとどうやら岡崎(慎司)と同じマネージャーだったのですが、ちょうど同じ時間に岡崎の入団会見に行っていて不在でした。

『すぐに呼び戻しますから』と長友は言っていたのだけど、数時間しかないから間に合わないと思いました。でもマネージャーがすべてのサイン権を持っているから、間に合えば成立すると。そしてなんとか移籍市場が閉まる3分前くらいに間に合いました。
その後、新聞を見たら『長友、インテル!』みたいに紙面が盛り上がっているわけです。普通は代理人業務って20%くらい入るものだと思うのですが、私は『ありがとう、ミラノに来たらまた会おう』とレオナルドに言われて終わりでした(笑)

長友はイタリア語が話せないけど、明るさや人間性が大きかったのだと思います。要するに言葉は二の次で、人間性ですよ。これはよく言うんですけど、まず通訳をするには、通訳をする対象の人との人間関係が重要だと。ジーコが私をクビにしなかったのも、相性が良かったからだと思うんです。それがないと絶対にビジネスは成り立たない。言葉が出来る人はどうしても語学のスキルに頼りがちになってしまう。ペラペラになったらそれでOK、みたいな。でも、そうじゃないんです。よくサッカーチームでそういう光景を見てきましたから。

海外で成功するために必要なのは「必死の覚悟と明るさ」  

通訳は、言ってしまえば本当にわけのわからないときにだけ出ていけばいいんじゃないかと。私はそういう考えを持っていました。アントラーズは誰も通訳を頼らないんですよね。自分でコミュニケーションを取ろうとする。だから余計ブラジル人と日本人の関係が上手くいくんですよ。

例えば本田泰人とジョルジーニョは当時最高のダブルボランチだったと思います。でも彼らは全然言葉が通じません。本田はポルトガル語できないし、ジョルジも日本語ができない。でも、動きやカバーリングのタイミングとかはベストなんです。  

また、印象的だったのは代表へ行ったとき。(中村)俊輔とか高原(直泰)とかそうそうたるメンバーがいた中で、彼らはまじめだから監督の言うルールのもとにきっちりと練習したいんです。ただ、私なんかは流れで育ってきた通訳だから、いちいち『こういうときだったらどうなんですか』と聞いてくる彼らに対して最初は説明したのですが、途中から自分で考えろ、というようなことを言いました。そしたら小野伸二に『あなたは何のためにいるんですか!』と言われて。「普通はそのための通訳なんだ」と思いましたね。  

あくまでも選手が主役というのがジーコの考え方で、こっちは裏方。だから選手が困ってから初めて現れるべきで、あとは彼らがやりたいようにやればいいんだと。そういった自由な雰囲気の中で自分も育ってきたんです。普通のチームは通訳が監督の言葉を100%訳して、それを選手が聞いていますけど、当時の鹿島はみんな通訳のことなんか無視していましたよ。『だいたいわかるよ』みたいな。

でもそういうところがアントラーズの異常な強さというか、度胸の強さというか、そういうものに繋がっているんじゃないですかね。『監督のために勝つサッカーをやっているんじゃない』みたいな雰囲気はジーコが全て作りましたから。難しい形かもしれないですけどね。

プレーをしていて、『こいつは良い奴だな』と思うと情が湧くじゃないですか。日本人でもすごく良い人はそういうオーラを出している。どうしてもなんとかしてやりたいみたいな。そういう人はすごく上手くいきますよね。ですから、長友が逆にイタリア語がペラペラだったらあそこまでいってなかったかもしれない。

言葉がわからない中でもとにかくやっていかないといけないという必死の覚悟と、持ち前の明るさが功を奏したのだと思います。インテルの強者の中で日本人選手が人気者になるなんて考えられないですよね。レオナルドも『最初はどうかな、と思っていたけど、長友の明るさには脱帽だよ』、そんなことを言っていました。

https://azrena.com/post/6334/

2016年5月12日木曜日

◆【ジーコの想い】ジーコスピリットが生まれた日(ZAKZAK)


http://www.zakzak.co.jp/sports/soccer/news/20160511/soc1605111550002-n1.htm

鹿島のユニホームの左胸裏には「TRABALHO」(献身)、「LEALDADE」(誠実)、「RESPEITO」(尊重)の文字が入っている ((C)ZICONAREDE)

 Jリーグ開幕1カ月前の1993年4月、鹿島アントラーズは3週間に及ぶイタリア遠征を行った。その時、ジーコから「かけがえのない人生の宝物をどうやってゲットするか知りたいか」と聞かれた。答えは「苦汁だよ。たっぷりと苦汁をなめることだ。楽して得た宝物なんて大した価値などありゃしない」だった。

 苦渋を味わったのは遠征2戦目。鹿島は日本代表クラスに加え、ルーキーのDF秋田豊、ブレーク直前のFWアルシンドら当時のベストメンバーをそろえた。とはいってもアマチュアリーグでは名門だった本田技研出身選手と住友金属蹴球団の混合チーム。そんなチームがイタリアの強豪、インテルとクロアチア代表のベストメンバーと練習試合を組めたのはジーコのコネによるものだった。

 2戦目はアルシンドがチームデビューしたクロアチア代表戦で、1-8で惨敗した。この試合について、ジーコは「忘れるわけがない試合のひとつだ」という。「試合は3点差で負けることもできた。でも世界のトップクラスとの実力差をアントラーズの選手、スタッフ全員にわかってもらいたかった。だからあえて何も指示せずにガチンコでやったんだ」と振り返る。

 当時のクロアチア代表は才能のある選手の宝庫だったが、母国は内戦状態にあり、代表戦は国際サッカー連盟(FIFA)から禁じられていた。FWにはシューケル、トップ下にMFボバンがいた。雨でピッチコンディションは最悪だったにもかかわらず、きちんとボールを止めて、しっかりゴールを決めるプレーに、「これが世界だ」といやというほどみせつけられた。前半4失点、後半も全く手を抜かず、90分で8ゴールを奪われた。

 これを機にジーコが本気になった。3週間に及ぶイタリア合宿はオフなし。セリエAの試合を観戦した日も練習した。ジーコ主導でチーム作りが行われ、合宿終盤のインテルとの練習試合は1-1で引き分けた。インテルには後にジュビロ磐田に加入したFWスキラッチがいた。奇跡を見た思いがした。

 ジーコが何度も言っていたのは「チームに献身であれ」、「自分に誠実であれ」、そして「仲間をファミリーと思い尊重せよ」という言葉。ジーコスピリットはこの時、生まれた。

 この言葉は今でも鹿島のクラブハウスに飾ってある。20年以上前、クロアチア代表に負けた日に「目には見えないが確実に存在する伝統という重みが、いつかわかる日がくるよ」とジーコは言った。鹿島がタイトルを獲る度にそれを実感している。 (元日本代表通訳・鈴木國弘)

 ◇

「PENSAMENTO POSITIVO」(ペンサメント ポジティーボ)はポルトガル語で「ポジティブシンキング」「頑張れ」の意。ジーコがよく色紙に書く言葉の1つ

2015年11月12日木曜日

◆【ジーコの想い】「強い鹿島」の基礎つくり次世代へ(ZAKZAK)


http://www.zakzak.co.jp/sports/soccer/news/20151111/soc1511111550001-n1.htm



 今年のナビスコ杯決勝(10月30日)でG大阪を下した鹿島。強いアントラーズを思い出させてくれる一戦だった。

 ジーコが来日した時、鹿島アントラーズはまだ存在せず、住友金属工業蹴球団だった。「オレは口で百のことを彼らに言うより、行動でプロとは何かを示す。そう判断した」と言い、こう続けた。「日本サッカーがプロリーグになる。そこで現役復帰することがこれからの自分の人生にも役立つと考えたから、日本に来た」

 1990年2月6日、現役引退試合となったフラメンゴ対世界選抜で花道を飾ったジーコは当時、メロ大統領の要請で大統領府体育局長の任に付いていた。今の日本でいうスポーツ庁長官の役職である。91年4月、住金のオファーを受けると同職を辞任。5月20日にサンドラ夫人とともに来日した。38歳の時だ。

 まだアマチュアのクラブに、まず「基本は楽しく」と植え付けた。日本サッカーリーグ(JSL)2部が始まる前の3カ月間は一切ボールに触らせず、フィジカルトレーニングのみ。約10メートルのパスでも「30センチずれている」と指導するなどして、今のアントラーズの基礎をつくった。

 鹿島については、先月来日したOBのレオナルドもよく話題にする。「勝負事は負けることもある。でもアントラーズらしい負け方というのがある。伝統的な魂がまったく感じられない試合など1試合も見たいと思わない」

 レオナルドはイタリア、セリエAのACミラン副会長当時、「今の(不振の)アントラーズは見ていられない。だから真剣に短期間の現役復帰を考えようかと思っている。ミランのフィジカル・コーチに個人的に頼めばなんとかなるかもしれない」と本気で鹿島での現役復帰を考えたことがあった。

 さすがに実現しなかったが、鹿島の若手たちにアントラーズ・スピリットを注入したいと本気で思ったレオナルドの情熱には頭の下がる思いだった。

 今回のナビスコ杯優勝で小笠原主将は「ジーコも40歳までやっていた。まだまだ若い選手には負けない」とコメントしたという。ジーコの思いがレオナルドを経由して小笠原に受け継がれていることを確信した。 (元日本代表通訳・鈴木國弘)

 ◇

「PENSAMENTO POSITIVO」(ペンサメント ポジティーボ)はポルトガル語で「ポジティブシンキング」「頑張れ」の意。ジーコがよく色紙に書く言葉の1つ

2014年11月20日木曜日

◆【ジーコの想い】“一番弟子”レオナルドとの固い絆(zakzak)


http://www.zakzak.co.jp/sports/soccer/news/20141119/soc1411191550001-n1.htm



 ブラジルサッカー界にも師弟関係はある。ジーコの一番弟子となると、一番に挙げられるのが、鹿島アントラーズに来てくれたレオナルド氏だろう。

 ジーコが週2試合というJリーグの過密日程に耐えられなくなってきたある日、当時住んでいた東京・世田谷の自宅でマッサージを受けている最中に電話が鳴った。「私はレオナルドと言います。ジーコにつないでいただけますか」。受話器を取ったのは私だった。

 ブラジルでレオナルドという名前は、日本では「太郎」と同じぐらい多い名前である。ジーコに「レオナルドという方から電話です」とつなぐと、その会話が耳に入ってきた。

 「オレのあとはオマエしかいない。やっと明るい光が見えてきた日本のサッカーの灯を消すわけにはいかない。ぜひ日本に、アントラーズに来てほしい」との熱弁を聞いて、やっとあのレオナルドの顔が浮かんだ。

 日本が出場を逃した1994年W杯米国大会で活躍した現役ブラジル代表のレオナルドが日本に? まさかと思った。後にレオナルドは「前から日本にすごく興味があった。でも最後はやはりジーコからリクエストがあったから」と明かしてくれた。

 ジーコとは強い縁があった。レオナルドがまだ16歳で、フラメンゴの下部組織時代のこと。「トップチームのサイドバックが負傷、その控え選手も負傷という事態が起きた。そのときジーコが自分を推薦してくれた。紅白戦では中盤でプレーしていたが、『彼こそサイドバックが適任だ』と」(レオナルド)

 その後、世界のサイドバックにのし上がったレオナルドにとって、ジーコはまさに道を切り開いてくれた大恩人だったのだ。

 ある日の練習前、ジーコに「今日、あとでつき合ってほしい場所がある」と言われたレオナルドは練習後、行き先を告げられないまま、市内の見知らぬ建物に連れていかれたという。

 「建物のらせん階段を降りていくジーコのあとに付いていくと突然、建物中にものすごい絶叫が広がったのには驚かされた」とレオナルド。さらにこう振り返る。

 「よく見ると、障害を抱えた多くの人たちがジーコの姿を見て、不自由な身体を必死に動かしながら歓迎していたんだ。一人の人間がこれほどまで人々を魅了するなんて。なぜか涙があふれて止まらなかった。今でもあの時のことをはっきり覚えているよ」

 レオナルドがジーコに一生ついていこうと思った瞬間だったという。

 鹿島の基礎はこの2人によってつくられた。カシマスタジアムに掲げられる「ZICO SPIRIT」という応援旗を見る度に、2人の絆の強さを感じずにはいられない。

                  ◇

「PENSAMENTO POSITIVO」(ペンサメント ポジティーボ)はポルトガル語で「ポジティブシンキング」「頑張れ」の意。ジーコがよく色紙に書く言葉の1つ

2014年7月30日水曜日

◆ジーコの「相棒」鈴木氏が復活通訳(ニッカン)


http://www.nikkansports.com/soccer/japan/news/p-sc-tp2-20140729-1342229.html



元日本代表監督で「神様」と称されるジーコ氏(61)が、アギレジャパンにメッセージを送った。先の来日時に日刊スポーツのインタビューに応じ、W杯ブラジル大会を振り返り、世界のサッカーの潮流、日本代表への思いを率直に語った。

 ジーコ氏のインタビューは、長年の「相棒」である鈴木国弘氏(58)が通訳を務めた。昨年12月に急性骨髄性白血病を発症。厳しい闘病生活を経て、通訳できるほど回復した。

 「死のふちから戻ってきました(笑い)」。今では、そんな冗談も飛び出るが、闘病生活は厳しかった。化学療法が効かず、2月に臍帯血(さいたいけつ)移植を実施。無菌室に入って抗がん剤治療を続け、2カ月で体重が20キロ落ちた。「地獄でした」と振り返る。

 その間、ジーコ氏からはメールで何度もエールが届いた。「『お前ならやれる!』というものでした。でも、返事を返す気力もなかった」。今も主に自宅療養中だが「サッカー界のみなさんにも励まされたので、お返ししていきたい」と笑顔で話した。

Ads by Google

日刊鹿島

過去の記事