日刊鹿島アントラーズニュース

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2019年8月9日金曜日

◇Jリーグが「鳥の会」を通じて環境問題への取り組みへ(デイリー)






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 Jリーグは8日、都内で環境保護団体「バード・ライフインターナショナル東京」との協働活動宣言を行った。同団体は絶滅危惧種など重要な鳥類や、その生息地の保全などに取り組んでおり、今後はJクラブの中で、鳥をモチーフとした全18クラブのマスコットたちで結成された「Jリーグ鳥の会」を通じ、環境問題への取り組みを行っていく。

 協働活動宣言の調印式には、国際環境NGOであるバードライフ・インターナショナルの名誉総裁である高円宮妃久子さまも立ち合われた。妃殿下は集まったJクラブのマスコットたちに「いよいよ、これで卵が生まれました。皆さんは地元で活躍してこられましたが、これからは発信力を使って、環境を守っていこうというメッセージを送りましょう」と言葉をかけられた。

 Jリーグの村井チェアマンは「Jリーグをスタートに環境問題への取り組みをしていきたい。多くの環境問題に対しての知見をお持ちの団体なので、これからJクラブを通じて環境問題への啓発活動などを行っていきたい」。バードライフ・インターナショナル東京の鈴江恵子代表は「サッカーが大好きな子供たちにも、環境問題のことを知ってもらい、考えていくきっかけとなれば」と期待を寄せていた。


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◇Jリーグが「鳥の会」を通じて環境問題への取り組みへ(デイリー)


◆谷間の世代・初代主将、羽田憲司。 今も残る悔恨と鹿島コーチでの野心。(Number)



羽田憲司 Kenji.Haneda


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 サッカー界で「谷間の世代」と言えば、アテネ五輪に22、23歳で出場した、1981年(及び1982年)生まれを指す。
 10代のころから「黄金世代」と比較され、あまり評価をされてこなかった世代だ。だが、そんな評判を覆すように、彼らのなかからはJ1リーグの得点王や、クラブのレジェンド的存在が生まれている。
 当事者である彼らは世間の評価をどう受け止め、どう成長していったのか。今年38歳となり、現役を続ける者が少なくなってきたいま、彼らの証言から「谷間の世代の真実」を探る。今回は代表チームでキャプテンを務め、鹿島アントラーズなどにも在籍した羽田憲司に訊いた。


 天気のよい平日の昼下がり。鹿島アントラーズのクラブハウス内にある一室で待っていると、ほどなく、練習を終えた羽田憲司がジャージ姿のままやってきた。

「インタビューされるのなんて、久しぶりだな」

 2012年シーズンを最後に、ヴィッセル神戸で現役を引退した羽田は、セレッソ大阪のアカデミーとトップチームで3年間コーチを務めた後、2016年シーズンから、自身がプロ選手としてのキャリアをスタートさせた、古巣・鹿島にトップチームのコーチとして復帰。以来、指揮官の右腕となり、クラブ通算20冠を達成した常勝軍団を支えている。


最初は“谷間”を意識してなかった。


 今回の取材テーマは、「谷間の世代」。もちろん、事前に伝えてある。

「もうかなり前のことだし、ちゃんと思い出せるかな」

 日焼けした顔にはしわも目立つようになってきたが、軽口とともに見せる人懐っこい笑顔は、約20年前から変わっていない。

 2000年1月、18歳の羽田は至福の瞬間を味わっていた。

 第78回全国高校サッカー選手権大会。千葉県代表の市立船橋は、松井大輔らを擁する鹿児島県代表の鹿児島実業を決勝で2-0と下し、3度目の優勝を成し遂げた。しかも1回戦から決勝まで、相手に1ゴールも許さない無失点優勝。そんなスキのないチームのキャプテンを務め、鉄壁を誇るディフェンスの中心にいたのが羽田だった。

 世代屈指のセンターバックは高校卒業後、鹿島入り。一方で、同世代の選手が集まるU-20日本代表にもチーム立ち上げ当初から選ばれ、そこでもキャプテンを務めた。当時のU-20代表とは、すなわち、谷間の世代と呼ばれた選手たちである。

「そう言われていたのは知っていました。ふざけて『オレたち、谷間だからさ』とか言い合っていたこともあったと思います(笑)。でも、いい選手はたくさんいたので、(実力的には)谷間ではなかったと思うし、当時はそれほど意識していませんでした」


経験値は他の世代よりもなかった。


 とはいえ、同世代の選手のなかに、所属クラブでコンスタントに出場機会を得ていたのは数人程度。加えて国際経験という点でも、U-17世界選手権(現U-17ワールドカップ)はおろか、そのアジア予選を経験している選手すらほとんどいなかった。

「経験値としては、他の世代よりもなかったんじゃないかな。たぶん、それはみんな感じていたと思います。だから、海外遠征にすごくたくさん行きましたよね。今の時代なら、アントラーズでも育成年代はどのカテゴリーでも海外へ行くし、珍しくはないけれど、当時はそうではなかった。

 僕らは経験がないから、厳しい環境を経験させるためにやってくれているんだな、と。当時もそう思っていましたが、自分が指導者になってみて、それをより強く感じます」


今でもずっと、自分のせいだと。


 ところが、彼らは、自分たちが谷間などではないことを証明するはずだった舞台――2001年6月、アルゼンチンで行われたワールドユース選手権(現U-20ワールドカップ)で、グループリーグ敗退に終わる。





「自分のせいだって思いました。グループリーグを突破できなかったのは自分のせいだって。ずっと思っていたし、それは今でも思っています」

 今もなお、羽田の心のなかに深く根を張り、生き続ける悔恨である。

 ワールドユース開幕をおよそ1カ月半後に控えた2001年5月、羽田はJリーグでの試合中に腰椎横突起骨折のケガを負った。当初の診断結果は、全治1カ月から1カ月半。ワールドユース出場は、もはや絶望かと思われていた。

 しかし、2週間の安静の後、リハビリを始めた羽田を、U-20代表監督の西村昭宏は「本番では戦力になると判断した。初戦が大事なので、グループリーグから使いたい」と、登録メンバーに加えることを決断。出発直前の国内キャンプにも参加せず合流する、異例の扱いだった。

 当時のU-20代表の主戦システムは、3-4-2-1。フィリップ・トルシエが率いるA代表の影響もあり、最終ラインは「フラット3」が採用されていた。3人のDFの中央を務め、しかもキャプテンである羽田は、このチームに不可欠な存在だったのである。


初戦でまさかのオウンゴール。


 急仕上げで、どうにか間に合わせた大舞台。だが、およそ1カ月間ピッチから離れていた影響は、決して小さなものではなかった。

 グループリーグ初戦の相手は、オーストラリア。日本は初戦の緊張から硬さが見られたが、ボールポゼッションでは上回り、優勢に試合を進めていた。

 羽田を欠いて以降、不安定さを見せていた守備も、DFラインの要が復帰したことで、明らかに落ち着きを取り戻していた。当時の羽田も試合後、「前半のDFラインはパーフェクト。行けるぞ、っていう感じがみんなにあった」と、コメントしている。

 ところが59分、思わぬ落とし穴が待っていた。

 左サイドから入ってきた低く速いクロスに、ゴール前の羽田が体勢を崩しながら懸命に足を伸ばす。しかし、左足に当たり損ねたボールは自陣ゴール方向へ跳ねると、不運にも絶妙なループシュートとなってGK藤ヶ谷陽介の頭上を越えた。

「試合の入りもよくて、どこかで点が入れば(勝てる)っていう感じだったんですけど、まさかのオウンゴールで……。そこから、自分たちの経験のなさだったのか、チーム全体がバタバタしてしまいました」


「なぜここで?」って感じでした。


 そして羽田は、再び自責の念を口にする。

「あのオウンゴールがすべてだった。自分はずっとそう思っています。そのインパクトが強すぎて、自分がどういう気持ちであの大会に臨んでいたのか、そういうことを覚えていないというか、オウンゴール以外の記憶が薄れています。

 この世代の中心でやってきた自負もあったし、キャプテンもやらせてもらっていたから、チームを引っ張っていこうっていう意識でやっていました。だから、余計に責任を感じた。流れがよかったのに、『あそこでキャプテンがオウンゴールするか?』って。自分でも、『なぜここで?』って感じでした」

 大事な初戦を落とした日本は、続く第2戦でもアンゴラに1-2で敗れて2連敗。最後のチェコ戦でようやく本来の力を発揮し、3-0で快勝したものの、時すでに遅し、だった。

 1勝2敗のグループ最下位。日本がこの大会でグループリーグ敗退に終わるのは、開催国枠で出場した1979年大会を除けば、初めてのことだった。


3年後にはアテネ五輪がある。


「最後の試合では、自分たちが今までやってきたサッカーを出して、ああいう結果になったから余計に悔しかったし、複雑な気持ちでした。みんなも『なんでこれをもっと早くできなかったんだろう』って思いながらプレーしていたと思います。あれを最初からやれていれば、間違いなく決勝トーナメントにも行けただろうし……」

 羽田は18年前の記憶をたどりながら、ゆっくりと言葉をつなぐ。

「そこらへんが、結局は経験のない谷間の世代だったのかなって。初戦はやっぱり、みんな緊張していましたよね。そこに経験のなさが出たというか、プレッシャーのかかる経験をしたことがないっていうのが出たんじゃないかと思います」

 2年前の前回大会で準優勝という偉業を成し遂げた、小野伸二ら、いわゆる「黄金世代」との比較も手伝い、この結果が谷間の世代なるネガティブなイメージをさらに強く印象づけたのは間違いない。

「やっちまったと思いました」


 それが羽田の本心だった。

 敗戦の責任をひとりで背負い込んだ羽田は、しかし、キャプテンとして「このままでは終われない」とも考えていた。そこで羽田は、日本へ発つ前に選手だけをホテルのミーティングルームに集め、ひとりひとりが思っていることを言い合う時間を作った。

 3年後にはアテネ五輪がある。その先にはA代表もある。このメンバーが全員オリンピックへ行けるわけじゃないけど、それぞれがクラブで活躍して、できるだけ多くオリンピックに出て、この借りを返そう。そんなことをそれぞれが口にした。


帰国してから足首痛に襲われた。


 当然、羽田自身もそのつもりだった。

「アントラーズでレギュラーを取って、A代表に選ばれるんだ。自分ではそう思って、ギラギラしていたというか、若かったし、変な自信もありました」

 だが、羽田の夢がかなえられることはなかった。というより、羽田はその後、満足にプレーすることさえできなくなる。

 アルゼンチンから帰国して、およそ2カ月後の2001年8月。羽田はJリーグの試合を終えた翌週の練習中、ふいに足首に違和感を覚えた。

「その後も練習を続けていたんですけど、とうとう我慢できなくなって……」


3年11カ月ぶりの公式戦出場。





 足首は「腫れが引かなくて、歩くのも痛かった」が、痛みの原因は不明。検査と手術を繰り返しても一向によくなる気配がなかった。ジーコのつてをたどってブラジルへ渡り、ようやく現地のドクターによって原因が特定されたときには、最初の違和感から1年以上が経過していた。

 一緒にワールドユースを戦った仲間が、アジア予選の死闘を経て、アテネ五輪を戦っていたころは、ほぼ丸2年を要したリハビリの真っただ中だった。

「長く休んでいる間にみんなが成長していくのを見ていたら、同年代なのに、すごく遠くへ行ってしまった感じがしました」

 対照的に自分自身は、ボールを蹴るどころか、走ることもできず、「精神的に大変だった。意識的にサッカーから離れていたというか、先の見えない日々に病んでいました」。

 ようやく、練習に復帰できたのは2004年のシーズン後半戦。翌2005年7月のJリーグ復帰戦は、ヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)を除けば、実に3年11カ月ぶりの公式戦出場だった。


31歳での引退に未練はなくとも。


 だが、ケガとの戦いは、これで終わったわけではなかった。痛みから完全に解放されることはなく、加えて、およそ4年のブランクは想像していた以上に大きかった。

「復帰してから、自分のプレースタイルが変わったというか、変わらざるをえない状況になったときに、『もう上は目指せない。A代表は無理だな』と思いました。そこからは、同世代の選手たちのこともライバルではなく、頑張れっていう気持ちで見ていました。もちろん、Jリーグで対戦したときには勝ちたいけど、誰かがA代表に選ばれても、うらやましいとか、そういう感情はなかったです」

 結局、羽田は思うようなプレーができないまま、セレッソ大阪、神戸へと移籍した後、31歳でスパイクを脱いだ。将来を嘱望され、世代の先頭を走っていた頃を思えば、あまりに短い現役生活だった。

「僕の場合、引退を決断するのは簡単でした。復帰した後も、ずっと足の痛みを我慢しながら、毎日薬を飲んでいる状態でしたから。だから、未練はなかったです。逆に、この足でよくここまでやったなって思います」

 ただ、と言って、羽田が続ける。

「不本意でしたけどね、自分のプロサッカー人生は」




◆谷間の世代・初代主将、羽田憲司。 今も残る悔恨と鹿島コーチでの野心。(Number)





◆大迫勇也インタビュー、「考える力」を養ったバス通学(サッカーキング)



大迫勇也 Yuya.Osako


Jリーグサッカーキング 2019年 3月号


 大迫勇也は日本代表に欠かせない存在だ。前線でボールを収めて味方に時間とスペースを与えることもできるし、ボールキープからターンをして自ら前に運ぶことだってできる。フィジカルで負けない大迫のプレーは頼もしい。けれど、彼の武器はそれだけではない。

 インタビュールームに入ると、大迫が笑顔で迎えてくれた。まずは簡単に昨シーズンの振り返りをしてもらい、アイスブレイクも兼ねてサッカーのことからプライベートな質問までランダムにぶつけていく。大迫の表情が緩んだのは、学生時代の話を聞いたときだった。

「中学、高校とバスで1時間かけて通っていたんです。その1時間って、すごくもったいない気がするじゃないですか?」

 する。1時間もあれば体のケアや睡眠時間に当てられる。しかし彼に言わせれば、頭を使う貴重な時間だったという。「一人だから、ずっとサッカーのことを考えられる。友達といたら考えないでしょう? だから良かったんだと思います。今振り返ると、その時間は僕にとってとても大きなものだった。あの頃、考えるクセがつきました」

 当時はまだ、今のようにスマホで手軽に動画を見られる環境ではない。だから大迫は頭の中にプレーシーンを思い浮かべて、ああでもないこうでもないとシミュレーションを繰り返した。家に帰ると答え合わせをするように、祖父が撮影してくれていた試合の映像をチェックする。バスに揺られながら描いた理想像と実際のプレーにギャップがあることもしばしばで、その差を埋める作業がまた難しい。

「まずは自分を冷静に客観的に見ることができないといけない。特に相手との距離感は実際に、ピッチで体感しないと分からないですから。時間をかけてプレーに落とし込んでいくしかない」。往復2時間のバス通学で養った「考える力」は、大迫の成長を促した。今も試合後は一人でボーッとしていることが多いですね、と言う。





こちらからの質問に表情が緩んだ場面がもう一つある。「育児のマイルールは?」と聞いたときだ。「ルールはないです。僕もオムツは替えるし、抱っこもするし、寝かしつける。まあ、なかなか寝てくれないですけどね。上の子は4歳なので、公園で一緒に遊べるようになりました」。マイブームは滑り台かな、と言って楽しそうに笑う。「砂場で遊んだり、滑り台で遊んだり。子供が喜んでくれると、こっちもうれしくなります」と話す大迫は、すっかり父親の顔に戻っていた。放っておいたら何時間でもサッカーのことを考えてしまう彼にとって、家族との触れ合いはほっと一息つける時間なのだろう。

 大迫はここまで順風満帆なサッカー人生を歩んできたように見える。しかし、2007年のU-17ワールドカップ、2012年のロンドンオリンピックは最後の最後でメンバー落ち。2014年のブラジル・ワールドカップでは初出場するも無得点と涙をのんだ。大迫は、そのすべてがターニングポイントだったと語る。

「僕は失敗をたくさんしているし、失敗はやっぱり悔しい。でもだから成長できる。ここで頑張れば、と切り替えられる力は、他の誰よりもあると思っています。やっぱり考えることが大事なんですよ。それをずっとやってきたから、今につながっている」。自分を客観視して、何をすべきか考えて、行動に移す。そうやって挫折を力に変えることができることもまた彼の強みだ。

協力・写真=ナイキジャパン
取材・文=高尾太恵子


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◆鹿島アントラーズvs横浜F・マリノス 第22節(サンスポ)






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 ・鹿島対横浜FMの通算59試合では、鹿島が29勝8分22敗と勝ち越している。鹿島にとって横浜FM戦は清水戦、名古屋戦に次いで3番目に総失点数の多い対戦カード(清水戦:80失点、名古屋戦:79失点、横浜FM戦:77失点)。

 ・鹿島は横浜FM戦直近4試合で3敗している(1勝)。今カードでのそれ以前の21試合で喫した敗戦数と等しい(12勝6分3敗)。

 ・鹿島はホームでの横浜FM戦で現在、5試合連続無失点であり6連勝中。現在進行中の本拠地での連勝としては、東京V戦(2001年11月~2008年8月)と並び、チームベストを記録している相手。

 ・鹿島はホーム戦で現在9試合連続無敗(8勝1分)。また、本拠地での直近17試合でもわずか1敗しかしていない(12勝4分)。

 ・横浜FMはアウェイ戦で現在、4試合連続で複数得点を挙げている(2勝2敗)。敵地での同一シーズン内では、2004年5月~8月以来のこと(当時5試合連続)。

 ・鹿島と横浜FMは今季、先制点を挙げた試合での勝利数がリーグ最多タイ(10勝:川崎、FC東京と並び)。また、鹿島は先制点を挙げた試合数が今季リーグ最多タイ(13試合:川崎と並び)。

 ・鹿島は今季得点数がリーグ最多であり(37点)、対する横浜FMは同リーグ2位(35点)。また、横浜FMは複数得点を挙げた試合数が今季リーグ最多(12試合)。

 ・伊藤翔は現在2試合連続得点中であり、直近5本のシュートで2得点。それ以前に放った24本のシュートで挙げた得点数と等しい。

※ファクト内の数字はJ1での成績


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