日刊鹿島アントラーズニュース

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2025年7月3日木曜日

◆世界的スターが広島に集結!ジーコ主催のチャリティーマッチ、出場全36選手が決定(Qoly)






▼ワールドレジェンズ
アルシンド(ブラジル人、元鹿島アントラーズ)
ジョルジーニョ(元ブラジル代表、元鹿島アントラーズ)
ジーコ(元ブラジル代表、元鹿島アントラーズ)
リカルド(ブラジル人、元鹿島アントラーズなど)
サントス(ブラジル人、元鹿島アントラーズなど)

▼ジャパン・レジェンズ
内田篤人
曾ヶ端準
柳沢敦
中田浩二
本山雅志
秋田豊
長谷川祥之
本田泰人


全文はこちらから
◆世界的スターが広島に集結!ジーコ主催のチャリティーマッチ、出場全36選手が決定(Qoly)







2022年9月17日土曜日

◆元ブラジル代表が見た鹿島“ナンバー10”荒木遼太郎 「将来有望」と絶賛も、海外移籍を推さない訳とは?(FOOTBALLZONE)






【特別分析#3】元ブラジル代表DFジョルジーニョが荒木の実力を評価


 ブラジル代表やドイツのバイエルン・ミュンヘン、レバークーゼンなど、世界のトップレベルでプレーし、さらに、鹿島アントラーズで日本サッカーを知り尽くしたジョルジーニョ氏。現在は監督としてブラジルのビッグクラブから中堅までを指揮し、ブラジル代表アシスタントコーチを務めたこともある。

 日本では鹿島で2度のJリーグ優勝も果たし、日本サッカー界で実力の高さを示した名手が、日本期待の若きミッドフィールダー、鹿島のMF荒木遼太郎のプレー映像を見て、特徴と期待感を語ってくれた。

   ◇   ◇   ◇

 荒木は2020年に鹿島に入団。昨年は10代選手としては史上2人目となる2桁得点を達成し、クラブ4人目のベストヤングプレーヤー賞を受賞。今季は20歳にして、鹿島の背番号10としてプレーしている。そんな若きホープの印象について、ジョルジーニョ氏はこう語る。

「彼はすごく良い攻撃的MFだね。ラストパスを出せて、かつ、ゴールを決めるためにペナルティーエリアにも入っていける。フィルターの役割も果たせる。ドリブルやフェイントもいい。そういう選手がチームにいるのは、非常に大事なことだ。というのも、典型的な攻撃的MFは多くの場合、ラストパスは出すけど、ペナルティーエリアでのプレーもできるとは限らない。それに、彼は非常によく動ける選手だし、インテリジェンスがある。試合での視野も広く、何が起こっているのかをちゃんと分かっている。鹿島におめでとうを言いたいほどだ」

 昨シーズン終了後、スコットランドのセルティックが獲得を目指しているとも報道されていたが、鹿島に留まった。ただ、いつまた海外からオファーが来てもおかしくないと噂されている。

「ブラジルやアルゼンチンでも、選手たちが非常に早い段階で外国に行くようになっている。日本でも、才能ある選手たちにそういう機会が訪れるのは、自然な流れなんだろう。ただ、僕が思うに、荒木にとっては今、日本サッカーの中で成長することが、非常に重要なことになると思う。日本にいても、多くの良い外国人選手や監督たちもいるなかで、さまざまなことが得られる。チームによって違った試合のシステムがあり、違った守備の仕方に対し、彼が崩すべきラインにもさまざまな形があるから、その経験は大事なものになるからね。

 というのも、どの国に行くにしても、日本のサッカーとは非常に違うから、適応期間が必要になるんだ。例えば23歳で海外に行くならば、彼はプレーの面でも、意識の面でも、もっと成熟した状態で行くはずだから、それが必ずや、適応の手助けになるだろう。さらに、サッカーのスタイルの上でも、やはり意識の面でも、日本人選手としてのアイデンティティーを確立するのは大事なことだよ。今後、日本代表で活躍すべき逸材だということを考えても、鹿島でプレーするのは、彼にとって重要な期間になると思う。将来有望だし、成功を祈っているよ」

 今季途中、腰椎椎間板ヘルニアを発症するアクシデントにより戦線離脱を余儀なくされたものの、9月3日のJ1リーグ第28節浦和レッズ戦で実戦復帰を果たした。ジョルジーニョ氏はそんな荒木に対し、まずは心身両面でより成熟することを望むとともに、近い将来の成功を願っていた。

[プロフィール]
ジョルジーニョ/1964年8月17日生まれ、ブラジル出身。アメリカRJ―フラメンゴ―レバークーゼン(ドイツ)―バイエルン(ドイツ)―鹿島―サンパウロ―ヴァスコ・ダ・ガマ―フルミネンセ。右サイドバック、ボランチとこなし、攻守でチームを支えたユーティリティーで、ブラジル代表としてワールドカップ優勝も経験。鹿島在籍4年間でJ1リーグ通算103試合17得点。リーグ優勝を果たした1996年にはMVPとベストイレブンに輝いた。2022年9月に母国ブラジル2部ヴァスコ・ダ・ガマの監督に就任。

(藤原清美 / Kiyomi Fujiwara)





◆元ブラジル代表が見た鹿島“ナンバー10”荒木遼太郎 「将来有望」と絶賛も、海外移籍を推さない訳とは?(FOOTBALLZONE)


2022年7月23日土曜日

◆鹿島ジョルジーニョ元監督にJリーグ勢オファーか。本人の意思に変化も(FOOTBALL TRIBE)






 明治安田生命J1リーグ・鹿島アントラーズ元監督であるジョルジーニョ氏は、Jリーグクラブから監督就任のオファーを受けていたようだ。22日、ブラジルメディア『sagres』が伝えている。

 ジョルジーニョ氏は昨年4月にブラジル1部アトレチコ・ゴイアニエンセの指揮官に就任したものの、わずか1カ月で解任。昨年7月からおよそ6か月間クイアバECを率いると、5カ月以上の無所属期間をへて今年5月にアトレチコ・ゴイアニエンセ監督に復帰している。

 そんなジョルジーニョ氏については今年2月、Jリーグ復帰を望んでいることを理由にECジュベントゥージからのオファーを断ったと、ブラジルのラジオ局『Radio Caxias』が伝えていた。

 『sagres』の報道によると、同氏のもとにJリーグクラブからオファーが届いていたとのこと。金銭面でアトレチコ・ゴイアニエンセよりも好条件だったが、本人は引き続きアトレチコ・ゴイアニエンセで指揮を執ることを望んでいるという。

 なおジョルジーニョ氏はブンデスリーガ(ドイツ1部)のバイエル・レバークーゼンやバイエルン・ミュンヘンでプレーした後、1995年から4シーズンにわたり鹿島アントラーズでプレー。1996のJリーグや1997年のナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)など複数のタイトル獲得に大きく貢献していた。

 また、2012年には監督として鹿島アントラーズに復帰。J1リーグでは11位という成績に終わったものの、ナビスコカップとスルガ銀行チャンピオンシップで優勝。ただ、鹿島アントラーズ指揮官を1年で退任すると、その後は母国ブラジルの複数クラブを渡り歩いている。





◆鹿島ジョルジーニョ元監督にJリーグ勢オファーか。本人の意思に変化も(FOOTBALL TRIBE)


2020年9月14日月曜日

◆ジョルジーニョ、コリチーバ監督復帰で熱いスタートを切る(footballista)






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 8月8日にブラジル全国選手権が開幕してから、約1カ月が経った。ただでさえ年間スケジュールが過密なブラジルサッカーだが、今年はさらにパンデミックによる遅れのため、週末と週半ばに試合をする急ピッチの進行となっている。

 州選手権やコパ・ド・ブラジルとの兼ね合いや、新型コロナウイルスのクラスター発生によって急遽延期された試合もある中、クラブによってまちまちではあるが、9月11日の時点で全38節中第7節から第9節までを消化している。


1カ月で7チームが監督解任


 そして「ブラジルサッカーの文化」とまで言われる監督交代も、急ピッチで起こっている。全国選手権1部を戦う全20クラブの中では、開幕から約1カ月でゴイアス、コリチーバ、アトレチコ・パラナエンセ、スポルチ・レシフェ、ブラガンチーノ、バイーア、コリンチャンスの7チームで監督が解任された。

 コリチーバでは、今年就任したエドゥアルド・バホッカがパラナ州選手権決勝で宿敵アトレチコ・パラナエンセに敗れ、さらに全国選手権で開幕から4連敗を喫したことで解任となった。その後、8月25日に就任したのがジョルジーニョだ。

 ジョルジーニョは、鹿島アントラーズや、ドゥンガのアシスタントコーチを務めたブラジル代表以外にも、2005年からブラジルの9つのクラブの監督を歴任している。

 鹿島で2012年のナビスコカップとスルガ銀行チャンピオンシップ、バスコダガマでは2016年リオ州選手権を制するなど、指導者としてタイトルも獲得している。

 一方で、2011年のフィゲイレンセのように、全国選手権1部に昇格したばかりのクラブを指揮した時には、「1年で降格しないこと」が目標だったチームを“ダークホース”と呼ばれる存在に成長させ、20チーム中7位でフィニッシュさせている。

 今年は1月からフリーだったため、地元リオデジャネイロに住み、彼自身が運営する、経済的に恵まれない子供たちのための施設の仕事など、慈善活動を盛んに行うと同時に、週に1、2度はチームを組むアシスタントコーチやフィジカルコーチ、プレー分析担当者などの技術スタッフとのオンラインミーティングを続けていた。



3月にはジーコ(右)主催のチャリティーイベントにも出席していた(Photo: Kiyomi Fujiwara)


選手目線の指導


 今回のコリチーバは自身2度目の指揮となる。前回は昨季。当時、全国選手権2部だったチームをリーグ戦残り15節の時点で引き受け、9勝5分1敗の快進撃で、目標だった1部昇格を達成した。

 その手腕としては、守備のシステムを徹底し、ミスを減らすことで試合のイニシアチブを取れるようになっていったこと、適材適所の起用で選手のクオリティを引き出したことが挙げられる。そして、選手の精神面のコントロールについても高く評価されていた。

 ジョルジーニョが様々なレベルのクラブを指揮してきた中で、インタビューのたびに尋ねた質問がある。それは「代表とクラブにかかわらず、またクラブのランクにかかわらず、あなたが指揮する際に持ち続けている監督哲学とは?」というものだ。

 彼の答えは一貫している。

 「僕は選手だったから、勇気を持つこと、自分のポテンシャルを信じること、ポジティブでいることが、選手にとってどれだけ大事なことかを理解している。それを伝えることだ」

 「ただ、苦しい時もあるし、自分で自分を盛り上げるのが難しい選手もいる。だから、例えばこのように話すんだ。『僕らは勝てる。でも、自分自身を信じなかったら勝つことなんて絶対にできない。だから、誰が信じてくれなくても、僕らは信じよう。勝てるんだ。そのために戦おう』とね」


「クオリティの高いチームを作れる」


 コリチーバの1部昇格を決めた後、クラブからは続投を求められたものの、技術スタッフの構成など、クラブとの間に考え方の相違が生じたことによって退任することになった。

 そのコリチーバ監督に復帰し、最初の1週間は、試合日程の過密な中でも午前午後の2部練習を行うなど、ハードに取り組んだ。

 それについて「対戦相手によって戦略は変わるとは言え、残りのシーズンを戦い抜くための、1つのプレースタイル、チームとしての1つの姿勢を作りたかった」と説明していた。

 そして、4連敗していたコリチーバは、ジョルジーニョの初陣となったスポルチ・レシフェ戦で勝利。

 試合後、彼は「勝つことに慣れるために、この勝利はとても重要なものになった」とし、「ただ、守備、中盤、攻撃のすべてにおいて、もっと強くならなければならないし、バランスも必要だ。この後は『今日以上にやれるんだ』ということを、チームに理解させるようにやっていく」と語っていた。





 その後、敗れたアトレチコ・ミネイロ戦後もこう言っていた。

 「チームには降格圏を脱するためのあらゆるポテンシャルを備えている。簡単ではないが、これまでの戦いでその力があることがわかったし、監督である僕にとっての選択肢もわかった。クオリティの高いチームを作れると確信している」

 ジョルジーニョの就任後、ここまで4試合で1勝2分1敗。コリチーバはじわじわと上昇しつつある。



◆ジョルジーニョ、コリチーバ監督復帰で熱いスタートを切る(footballista)




2020年4月27日月曜日

◆元鹿島のジョルジーニョはいま、 430人の貧しい子供を育てている(Sportiva)






ジュニアのためのスポーツ食事学 みんなで一緒に強くなろう [ 柴田麗 ]


あのブラジル人Jリーガーはいま
第1回ジョルジーニョ(後編)


 1994年アメリカW杯でブラジルの優勝に貢献。ドイツの名門バイエルンでキャプテンを務めていたジョルジーニョは、1995年、ジーコの兄エドゥの求めに応じて来日。すぐに鹿島アントラーズの中心選手となった。彼の加入にあまり積極的でなかったというジーコも、その移籍が成功だったことを認めざるを得なかった。

 キャプテンとして多くの若き日本人プレーヤーの指南役を務め、チームにタイトルをもたらした。すでに30歳を超えていたジョルジーニョを、ギャリアの終わった選手だとみなす者も多かったが、彼はこれに自分のやり方で反論した。1996年にJリーグの年間最優秀選手に選ばれたのだ。

 1999年、鹿島を退団してブラジルに戻ったジョルジーニョは、サンパウロ、ヴァスコ・ダ・ガマでプレーしたあと、2002年のフルミネンセを最後に引退し、指導者としての勉強を始めた。ドイツに渡り、そこで多くの優秀な監督から学び、かつて在籍したバイエルンで修業を積んだ。

 2005年には、選手のキャリアをスタートしたのと同じアメリカRJで監督を始める。温厚な性格のおかげで、どこにでも友人がいたため、彼にはさまざまな声がかかった。ブラジル代表のアシスタントコーチもそのひとつ。5年間にわたり、ドゥンガの右腕となって代表に尽くしたあとは、いろいろなチームで経験を積み、2012年には、鹿島アントラーズの監督として日本に舞い戻っている。

 1年半、鹿島を率いたあと、彼はまたブラジルへと戻ったが、それは日本での成績が悪かったからではない、ブラジルのビッグクラブ、フラメンゴが彼を招聘したからだ。ブラジル人監督ならば誰もが憧れるポストである。その後もポンチ・プレッタ、アラブ首長国連邦のアル・ワスル、ヴァスコ・ダ・ガマなどで監督を務め、昨シーズンにはコリチーバを率いていた。

 監督としてのジョルジーニョは、選手としての彼ほどは成功していないと言っていいだろう。2012年、鹿島アントラーズでナビスコカップに優勝し、2016年にヴァスコ・ダ・ガマでカンピオナート・カリオカ(リオ州選手権)優勝を勝ち取ったのが目立つ程度だ。

 一方、ジョルジーニョほど多くのスターとともにプレーした選手はそういない。ジーコとはフラメンゴでともにプレーし、フランツ・ベッケンバウアーはバイエルン時代の監督だ。

 もちろん、ブラジル代表ではロマーリオ、ベベット、ジーニョ、ドゥンガ、カレッカ、クラウディオ・タファレル、レオナルドをチームメイトに持ち、偉大な監督マリオ・ザガロとパレイラのもとでプレーしている。代表ではまずライトバック、その後はセンターバックを務め、11年間で71試合に出場、1990年と1994年のW杯に出場した。個人タイトルも多く取っているが、なかでも彼らしいのか1991年に受賞したFIFAフェアプレーアワードだ。

 ジョルジーニョは言う。

「私の人生における一番大きなプレミアムは、私の家族と、そして私の作ったスクールだ」

 スクールの名前は「インスティトゥート・ボラ・プラ・フレンテ」。「ボールを前へ」という意味だ。自分が生まれ育ったリオ近郊の貧しい地区の子供たちを助けるため、彼はこの学校を作った。2000年に設立して以来、ほぼ独力で、何万人という人々を助けてきた。現在は6歳から17歳まで430人の子供たちが学んでいる。みな家が貧しく、学校など行けない者たちだ。彼らはここで基礎的な教育を受け、食事をし、望めばスポーツや芸術などを学ぶこともできる。

 もうひとつの彼の宝である家族は、妻のクリスティーナと4人の子供、そして3匹の犬である。

 55歳になるジョルジーニョは現在、ほかのブラジル人と同じように家で過ごしている。英語を学びながらこの危機が去るのを待ち、その後は新たなチームを探すつもりだ。2019年の終わりにコリチーバを辞めてから、まだオファーはない。

「しかし、こんなことはブラジルでは当たり前だよ。監督は就任するのも、クビが飛ぶのも一瞬だ。自分としてはまだ数年は監督を続けたいと思っている。外国のチーム、もちろん日本のチームも大歓迎だよ。日本は私の中ではいつも特別な国なんだ」




◆元鹿島のジョルジーニョはいま、 430人の貧しい子供を育てている(Sportiva)





◆ジョルジーニョの告白。鹿島移籍時 「ジーコは私をほしくはなかった」(Sportiva)






サッカーラボ 1カ月でプレーがどんどん進化する! [ サッカーラボ編集部 ]


あのブラジル人Jリーガーはいま
第1回ジョルジーニョ(前編)


 1994年アメリカW杯。ブラジルは決勝でPK戦の末にイタリアを下し、24年ぶりに世界チャンピオンのタイトルを手に入れた。その立役者はロマーリオだった。彼は大会中チーム内最多の5ゴールを決め、大会最優秀選手にも選ばれた。しかし、その優勝を陰で支えたもうひとりの功労者がいた。それがジョルジーニョだ。

 本大会を前にブラジルは危機に陥っていた。南米予選の最終戦で、ブラジルはウルグアイに勝たなければならなかった。そうでなければ、史上初めてW杯出場を逃す可能性さえあった。しかしこの時、セレソン(ブラジル代表)の雰囲気は最低だった。ロマーリオがその少し前の親善試合出場を拒否したことで、カルロス・アルベルト・パレイラ監督との仲が決裂しかけていたのだ。

 そこで立ち上がったのがジョルジーニョだった。彼はロマーリオにチームに戻るように説得し、モチベーションを上げさせると同時に、パレイラ監督を落ち着かせた。その結果、ロマーリオはこの試合で2ゴールを決め、ブラジルは無事W杯出場を決めた。ジョルジーニョ自身も1ゴール目をアシストなど活躍。ロマーリオはゴールを決めると。真っ先に彼のもとにかけつけた。

 温厚で常に礼儀正しく、他人をリスペクトするジョルジーニョは、いわばロマーリオと正反対の性格であったが、それがよかったのかもしれない。セレソンの合宿でふたりはいつも同室で、ジョルジーニョは多くの伝説を持つ悪童に忠告ができる、数少ない人間でもあった。いまでも彼らは仲のいい友人である。

 彼がサポートしたのはロマーリオだけではない。ドゥンガも一筋縄ではいかない性格をしているが、彼の代表監督就任中、ジョルジーニョはそのアシスタントを務めている。チームメイトのみならず、対戦相手やサポーターなど、誰からも愛される存在であった。ブラジルサッカーの歴史の中でも、最も紳士的で謙虚な選手といっても過言ではないだろう。

 ジョルジーニョは1964年、リオデジャネイロの郊外の貧しい地区で生まれた。父親のことをジョルジーニョはこう語っている。

「彼はポルトガルからの移民だったが、とにかく酒が好きだった。家に帰るといつも暴力をふるった。今でいうDVだ。母はあまり何度も殴られたため耳が聞こえなくなってしまった。私も手加減なしに殴られた。本当にひどい子供時代だった」

 その父親も早くに亡くなり、一家は貧しかった。ジョルジーニョ少年にとって、サッカーはそんな現実から逃れる唯一の手段だった。

「サッカー人生で最も栄光に輝いていた時でさえ、かつての家での風景がフラッシュバックのように脳裏に蘇る。母が泣き、自分は殴られないようにどこかに隠れ震えている。そんなシーンがまるで映画のように見えてくるんだ」

 彼の持つ優しさは、そうした生い立ちからくるのかもしれない。選手時代、彼は毎日一番に練習場に現れ、翌日のために誰よりも早く就寝した。そんなジョルジーニョをフラメンゴでともにプレーしたジーコはこう評している。

「ジョルジーニョはサッカー選手のお手本のような生活態度だった。彼が頑張っているから、自分も頑張る。そう思う選手も少なくなかったろう。彼はチームのエネルギーの源であり、無くてはならない存在だった」

 ブラジルからヨーロッパに渡っても仕事に対する真摯な態度は変わらなかった。レバークーゼンで多くの勝利を得て、名門バイエルンでは外国人選手ながらキャプテンを務めるまでになったのは、彼の人柄と仕事熱心な態度からだろう。

 1995年、シーズン途中に突如ドイツを離れ、日本へと渡った。当時のいきさつをジョルジーニョ自身が教えてくれた。

「実は日本に行くなんていう考えは自分の頭にはまるでなく、イタリアかスペインに行きたいと思っていたんだ。しかし、バイエルンがヨーロッパのライバルチームに私を渡すのを嫌がっていて、そんな時に日本からのオファーが来た。

 私を鹿島アントラーズに呼んだのはジーコということになっているが、それは真実ではない。私を呼んだのはジーコの兄のエドゥだった。あまり知られていないことだが、ジーコは私をほしがってはいなかった。彼らには、アルシンドの代わりになるような前線の選手が必要だったからだ。でもエドゥの口調は断固としていた。『ジーコと喧嘩をしても僕は君がほしい。このチームには真のリーダーが必要だ。経験があってチーム全体を動かせるようなね』と。その言葉が私を決心させたんだ」

(つづく)




◆ジョルジーニョの告白。鹿島移籍時 「ジーコは私をほしくはなかった」(Sportiva)





2020年4月24日金曜日

◆「家族も感染していて…」元鹿島・ジョルジーニョからの力強いメッセージにファン感激(サッカーダイジェスト)






鹿島の“レジェンド”がブラジルの現状を語った





 過去に在籍した名手たちのゴール集などをYoutube公式チャンネルで公開している鹿島アントラーズは4月23日、かつて選手としてプレーし、監督も務めた元ブラジル代表ジョルジーニョの動画を公開した。

 現在ブラジルにいるジョルジーニョは冒頭、「親愛なるアントラーズサポーターのみなさん。ブラジルの現状をお伝えできたらと思います」と呼びかけた。

 そして「ブラジルは(新型コロナウイルスの)パンデミックの初期段階ではないかと思う。家族もかかっていて、妻と子どもふたりは症状が現われ、熱、倦怠感、頭痛、咳、味覚・嗅覚の欠如があります」と、家族が感染していることを明かした。

 ジョルジーニョ自身と末っ子には症状が出ていないという。だが、「75歳になる義理の父親は陽性となり、呼吸器をつけて入院中です。回復を願っているところです」とその身近で感染者が出ていることを伝えている。

 ブラジルでは日々感染が拡大しており、22日時点で感染者は4万5000人、死者は2000人を超えた。貧困層で蔓延が大きな問題となり、深刻な状況が続いている。

 そんななか、元セレソン戦士は最後に日本のファンへ力強いメッセージを送った。

「神のご加護でブラジル、日本そして世界を護ってくれることを願っています。リスクの高い60歳以上の方、持病をお持ちの方などを重点的にケアして、このパンデミックに勝利しましょう。みなさんが恋しいです。心からのキスを」 

 この言葉に、鹿島サポーターは「ご家族が罹患されているのに。本当にありがとう」、「心はいつもそばにいます。あなたが恋しいよ」、「ジョルジの家族が回復されますように」、「ご自身の辛い状況の中で暖かいのメッセージを頂き、本当にありがとうございます」といったコメントを寄せている。

構成●サッカーダイジェストWeb編集部




◆「家族も感染していて…」元鹿島・ジョルジーニョからの力強いメッセージにファン感激(サッカーダイジェスト)





2020年4月22日水曜日

◆鹿島アントラーズ、歴代最強外国籍選手5人。神様ジーコに続く、常勝軍団を作り上げたブラジル人たち(フットボールチャンネル)






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1993年に開幕したJリーグは、今年で28年目を迎えた。その間、世界的なスター選手や素晴らしい素質を持った外国籍選手たちが活躍している。今回、フットボールチャンネルでは、鹿島アントラーズで活躍した外国籍選手を5人紹介する。




優勝請負人





ビスマルク(ブラジル代表)
生年月日:1969年9月17日
在籍期間:1997年~2001年
J1通算成績:137試合出場/33得点


 ヴェルディ川崎では1993年のリーグ初年度から連覇に導き、2年連続のベストイレブンに選出。3年半で5つのタイトルをクラブにもたらしたビスマルクは、97年に鹿島にやってきた。

 ジーコがつけていた10番を受け継いだビスマルクは、1年目から自身3度目のベストイレブンに輝き、チームは2冠を獲得した。98年のジュビロ磐田とのチャンピオンシップ第2戦では先制ゴールをアシストすると、直接FKを決めてリードを2点に広げた。これを守った鹿島は2年ぶり2度目の年間王者に輝いている。

 敬虔なクリスチャンであるビスマルクが行うゴールセレブレーションは、当時の子どもたちの間で大流行。右足から繰り出される正確無比なキックで幾度となくチームを勝利に導いた。2000年にはJリーグ初の国内3冠を達成。5年間で7つのタイトル獲得に貢献したビスマルクは優勝請負人と呼ばれた。

●1998年の基本先発メンバー

▽GK
28高桑大二朗

▽DF
22名良橋晃
3秋田豊
5内藤就行
7相馬直樹

▽MF
8マジーニョ
4奥野僚右
6本田泰人
10ビスマルク

▽FW
13柳沢敦
11長谷川祥之




友達なら当たり前





アルシンド(ブラジル代表)
生年月日:1967年10月21日
在籍期間:1993年~94年
Jリーグ通算成績:71試合出場/50得点


 フラメンゴでチームメイトだったジーコに乞われる形で、Jリーグ開幕を控える1993年に鹿島にやってきた。

 スピードとパワーを兼ね備えたストライカーはゴールを量産し、サントリー(第1)シリーズ優勝の原動力となった。頭のトップが薄く、襟足を肩まで伸ばした独特のヘアースタイルも注目を集め、当時のテレビコマーシャルに出演してお茶の間の人気者となった。

 93年は22得点、94年は28得点を挙げたが、2年で鹿島を退団。その後はヴェルディ川崎でもプレーしている。2012年には息子のイゴールが鹿島に加入し、親子2代での鹿島所属が実現したが、2試合の出場に終わった息子は1年で退団した。

●1993年の基本先発メンバー

▽GK
古川昌明

▽DF
秋田豊
杉山誠
大野俊三
賀谷英司

▽MF
本田泰人
サントス
ジーコ
黒崎比差支

▽FW
アルシンド
長谷川祥之




最強ストライカー





マルキーニョス(ブラジル出身)
生年月日:1976年3月23日
在籍期間:2007年~2010年
J1通算成績:119試合出場/59得点


 東京ヴェルディ、清水エスパルスなどを渡り歩いたマルキーニョスは、2007年に鹿島に加入した。オズワルド・オリベイラが監督に就任したチームは開幕から出遅れたが、9連勝フィニッシュで奇跡の逆転優勝を達成。2トップの一角を務めたマルキーニョスは、自己最多の14得点をマークした。

 08年、チームは開幕から白星を重ねてリーグ連覇を達成した。マルキーニョスは21ゴールを挙げ、得点王、ベストイレブン、最優秀選手賞の個人3冠に輝いている。前人未到の3連覇を成し遂げた09年は13得点を挙げ、11得点を挙げた10年限りで鹿島を退団。その後は横浜F・マリノス、ヴィッセル神戸でもプレーしている。

 外国籍選手としては歴代最多、全体でも5位となるJリーグ通算152得点、9度の2ケタ得点をマークしたマルキーニョス。鹿島では田代有三や興梠慎三、高校を卒業したばかりの大迫勇也ともコンビを組み、自ら得点を狙うだけでなく周りを活かす献身的なプレーが印象的だった。

●2008年の基本先発メンバー

▽GK
21曽ヶ端準

▽DF
2内田篤人
3岩政大樹
4大岩剛
7新井場徹

▽MF
15青木剛
40小笠原満
8野沢拓也
10本山雅志

▽FW
18マルキーニョス
13興梠慎三



貴公子





レオナルド(ブラジル代表)
生年月日:1969年9月5日
在籍期間: 1994年夏~1996年夏
J1通算成績:49試合出場/30得点


 レオナルドはサンパウロでクラブ世界一、ブラジル代表でも1994年のアメリカワールドカップで頂点に立っている。ジーコとフラメンゴでチームメイトだった縁もあり、1994年夏に鹿島に加入した。

 リフティングゴールはJリーグ史に語り継がれるゴールになるだろう。最初のタッチからシュートまで一度も地面に落とさずに相手DFをかわし、5回目のタッチで鮮やかにボレーシュートをゴールに突き刺した。

 96年夏、パリ・サンジェルマンからオファーを受けて移籍を決断。鹿島の在籍は2年間だったが、華麗なプレーに加えて端正なルックスは、サポーターの記憶に深く刻まれている。

●1995年の基本先発メンバー

▽GK
佐藤洋平

▽DF
奥野僚右
秋田豊
内藤就行
相馬直樹

▽MF
本田泰人
ジョルジーニョ
サントス
レオナルド

▽FW
長谷川祥之
黒崎比差支




世界一の右SB





ジョルジーニョ(ブラジル代表)
生年月日:1964年8月17日
在籍期間:1995年夏~1998年
J1通算成績:103試合出場/17得点


 フラメンゴからドイツに渡り、レバークーゼンとバイエルン・ミュンヘンでプレー。ワールドカップにはイタリア大会から2大会連続で出場し、94年のアメリカ大会ではブラジル代表の優勝に貢献している。

 鹿島に加入したのは95年、現役バリバリのブラジル代表がJリーグにやってきた。ブラジル代表では右サイドバックでプレーすることが多かったが、鹿島ではボランチが定位置だった。キックの精度が高く、クロスやロングフィードからチャンスを生み出した。

 所属した4年間で4つのタイトル獲得に貢献。初のリーグ優勝を成し遂げた96年には、年間最優秀選手賞とベストイレブンに選ばれた。12年には監督として鹿島に戻ってきたが、リーグ戦は11位に終わり、1年で退任している。

●1996年の基本先発メンバー

▽GK
古川昌明

▽DF
奥野僚右
秋田豊
内藤就行
相馬直樹

▽MF
本田泰人
ジョルジーニョ
サントス
増田忠俊

▽FW
長谷川祥之
マジーニョ

【了】




◆鹿島アントラーズ、歴代最強外国籍選手5人。神様ジーコに続く、常勝軍団を作り上げたブラジル人たち(フットボールチャンネル)


2019年12月30日月曜日

◆<2019ベストヒット!>番記者が選ぶ、平成の鹿島アントラーズベスト11! “常勝軍団”を象徴する11人はこのメンバーだ!(サッカーダイジェスト)






鹿島アントラーズ365 エル・ゴラッソ総集編2019 (サンエイムック)


“ジーコイズム”が血となり、肉となって


 2019年の名場面を『サッカーダイジェストWeb』のヒット記事で振り返る当企画。今回は、平成から令和に切り替わるタイミングで『サッカーダイジェスト』誌が5月9日号(4月25日発売)で行なった『番記者が選んだ平成ベストイレブン』をお届けする。果たして、番記者が選んだ常勝軍団のベストイレブンとは?

記事初掲載:2019年4月30日

――◆――◆――

【ベスト11選出理由】
 常勝を志向してきた鹿島ゆえ、タイトルを獲得したチームにいかに貢献したか、その功績を重視しながらベスト11を導き出した。監督は在任5年で6冠を手にしたオリヴェイラを推す。

【鹿島アントラーズの平成史】
 住友金属工業蹴球団を母体とする鹿島のクラブ創立は平成3年、つまり91年の10月だ。Jリーグ創設時の「オリジナル10」では唯一JSL(日本サッカーリーグ)2部からの参加で、チーム力がもっとも不安視されていた。そんなクラブを牽引したのが世界的なスーパースターのジーコだった。
 徹底的に勝負にこだわり、クラブの結束力を重視するジーコイズムが血となり、肉となり、的確な戦力補強も相まってJリーグ初年度はファーストステージの王者に輝く。96年にJリーグ初優勝を果たすと、18年のACL初制覇まで他の追随を許さない通算20冠を数えてきた。

 これまでに成し遂げてきたのは、いくつもの“史上初”だ。00年に国内3大タイトルを総なめ、07年からはJ1で3連覇の偉業を果たし、16年にはクラブワールドカップで準優勝と、歴史の扉を開いてきた。
 それでも選手を含めた関係者が一向に満足した様子を見せないのが、このクラブの伝統だ。時代の流れとともに監督や選手が入れ替わっても、掲げる目標は「全てのタイトルを獲りにいく」。脈々と受け継がれてきたジーコイズムは、今もしっかりクラブに息づいている。
取材・文●小室 功(オフィスプリマベーラ)


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◆<2019ベストヒット!>番記者が選ぶ、平成の鹿島アントラーズベスト11! “常勝軍団”を象徴する11人はこのメンバーだ!(サッカーダイジェスト)





2019年8月3日土曜日

◆元鹿島DFジョルジーニョ、ブンデス公式の「背番号2のスーパー弾TOP10」に堂々選出(FOOTBALLZONE)



ジョルジーニョ Jorginho


鹿島アントラーズシーズンレビュー2012【動画配信】


バイエルン時代の94-95シーズンにシャルケ戦で決めた技ありループが5位にランクイン


 サッカー界でゴールを奪う選手と言えば、たいていは「9番、10番、11番」といったアタッカーの選手たちだ。ただ、数字が小さいディフェンダーの選手が決めるスーパーゴールも数多く、ブンデスリーガの公式ツイッター日本語版では、「背番号2のスーパーゴール」トップ10を配信している。そこには鹿島アントラーズのレジェンドで、ブラジル代表でも長年にわたっていぶし銀の働きをした名サイドバックも名を連ねている。

 動画では、1974年西ドイツ・ワールドカップ(W杯)でオランダ代表のFWヨハン・クライフを徹底マークして名を挙げた、DFベルティ・フォクツの右足グラウンダーでの痛烈なミドルシュートが9位に、現バイエルン監督ニコ・コバチの弟であるロベルト・コバチ(当時レバークーゼン)が3位にランクイン。そのなかで5位に食い込んでいるのが、元ブラジル代表DFジョルジーニョだ。

 バイエルンに所属していた1994-95シーズンのシャルケ戦、相手陣内の深い位置でシャルケのDFが一度ゴールキーパーにバックパスしてビルドアップし直そうとした。しかしそのGKのパスコースを完全に読み切ったジョルジーニョが高い位置でボールを奪うと、切り返しでカバーリングに入った相手DFを交わしつつ、棒立ち状態になった相手GKの体勢を冷静に見極める。

 右45度、ペナルティエリアやや外という難しい位置からジョルジーニョが選択したのはループシュートだった。フワリとした軌道を描いたボールは、必死に追いかける相手DFもあざ笑うかのようにネットを揺らし、2-0の勝利を決定づけるゴールとなった。

 鹿島時代にはサイドバックだけでなくボランチとしてもいぶし銀の活躍を見せたジョルジーニョ。その足元のテクニック、冷静さは当時のブンデスリーガでも群を抜いていたことを証明している。


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◆元鹿島DFジョルジーニョ、ブンデス公式の「背番号2のスーパー弾TOP10」に堂々選出(FOOTBALLZONE)





2019年6月7日金曜日

◆名前の由来は年間MVP受賞の元Jリーガー CL制覇のリバプール主力MFの意外な事実発覚(FOOTBALLZONE)



ジョルジーニョ Jorginho


鹿島アントラーズシーズンレビュー2012【動画配信】


鹿島で活躍したDFジョルジーニョがルーツ 「両親が良い響きだと考えた」


 リバプールは現地時間1日のUEFAチャンピオンズリーグ(CL)決勝でトットナムに2-0と勝利し、14シーズンぶり6度目の欧州制覇を成し遂げた。オランダ代表MFジョルジニオ・ワイナルドゥムは攻守のリンクマンとなり、シーズンを通して主力として活躍したなか、その名前の由来がかつてJリーグで活躍したブラジル人助っ人であったとオランダ紙が報じている。

 2016年にリバプールに加入したワイナルドゥムは、昨季こそ元イングランド代表MFジェームズ・ミルナー、MFアレックス・オックスレイド=チェンバレンに出場機会を奪われベンチを温める日が増えていたものの、今季は序盤からチームにとって不可欠な攻守のリンクマンとして存在感を放ち、インサイドハーフで確固たる地位を築いた。

 なかでも一際輝きを放った試合がCL準決勝で対戦したバルセロナとの第2戦だ。敵地での第1戦を0-3で落とし、ホームで迎えた第2戦もエジプト代表FWモハメド・サラー、ブラジル代表FWロベルト・フィルミーノを欠く“飛車角落ち”の絶望的な状況下にあったが、チームの救世主に名乗りを上げたのがワイナルドゥムだった。2ゴールを挙げる活躍で4-0と大勝し、2戦合計4-3の大逆転突破の立役者となった。

 トットナムとの決勝でも先発でピッチに立ったワイナルドゥムにとって、今季は文字通り飛躍のシーズンとなったが、オランダ紙「AD」はワイナルドゥムが“ジョルジニオ”と名付けられた理由について言及。「1990年にワールドカップ(W杯)が行われたが、彼はこの年に生まれた。ファーストネームは、彼の両親が良い響きだと考えたブラジル代表のライトバック“ジョルジーニョ ”が由来となった」と伝えている。

 ジョルジーニョ氏は、1990年に開催されたイタリアW杯に参加したブラジル代表の右サイドバックだが、1995年から3年間にわたり鹿島アントラーズに在籍し、1996年には年間最優秀選手にも輝いたキャリアを持つ。トップクラスの中盤選手へ着実な飛躍を見せているワイナルドゥムだが、名前のルーツは意外なところにあったようだ。


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◆名前の由来は年間MVP受賞の元Jリーガー CL制覇のリバプール主力MFの意外な事実発覚(FOOTBALLZONE)





2018年5月20日日曜日

◆Jリーグ「歴代ワールドクラス10人」をスペイン紙選出 “神様”ジーコら名手が勢揃い(Football Zone)





「マルカ」紙がイニエスタの移籍報道に合わせてクイズ形式で紹介

 今季限りでバルセロナを退団するスペイン代表MFアンドレス・イニエスタの去就について、Jリーグのヴィッセル神戸入りが有力な選択肢になっているとスペインメディアでも報じられている。そうしたなかでスペイン紙「マルカ」は、「Jリーグでプレーした名手10人」としてクイズ形式でかつての名プレーヤーたちを紹介している。

「マルカ」紙は電子版で、その選手の名前を出さずに簡単な説明をし、その部分をクリックすると正解の選手の写真になるという遊び心のある記事を公開している。

 例えば、1人目はこんな感じだ。

「ブラジルサッカー界のスター。鹿島アントラーズで1991年から94年までプレーした。その後、日本代表の監督も務めた」

 これは日本で「サッカーの神様」と称され、Jリーグ創成期を支えた元ブラジル代表の10番ジーコだ。こうした形で、Jリーグに所属経験のある世界的な名手たちが紹介されている。このような説明文だけを並べた時、どれくらいの選手の名前が頭に思い浮かぶだろうか。

W杯優勝メンバーや「イングランドのベストFW」も来日

「ブラジル代表の右サイドバックで1994年ワールドカップ(W杯)を優勝。バイエルン・ミュンヘンでプレーしたこともあり、鹿島アントラーズで4シーズンプレーした」

「長い間、ブラジル代表でキャプテンを務め、代表監督も務めた。1994年のW杯で優勝」

「ポルトガルのストライカーで、ポルトでは伝説的な存在。アトレチコ・マドリードでもプレー。日本では横浜フリューゲルスでプレーした」

「イングランドのベストFWの一人。キャリアの最後を名古屋グランパスでプレーした」

「ブラジル代表の左サイドバックで、日本の前はバレンシアでプレー。鹿島アントラーズでプレーした後、パリ・サンジェルマンやACミランでプレーした」

 この5人だと、順にジョルジーニョ、ドゥンガとスムーズに答えは分かりそうだ。そして、4人目のギャリー・リネカーと最後のレオナルドもまたピンとくるファンが多いのではないだろうか。少し知名度が低そうなのが、3人目のパウロ・フットレだろうか。フリューゲルスに来たのは1998年で、リーグ戦13試合3ゴールの成績でそのシーズン限りで現役を引退している。

Jリーグで異彩を放ったストライカーの名前も…

「他の同胞たちの後を追うように鹿島アントラーズでプレーし、現役生活はサウジアラビアで終えた。デポルティボ・ラ・コルーニャの神話」

「ブルガリアのストライカーで、バロンドール受賞者。バルセロナのレジェンドで、柏レイソルでプレーした」

「ブラジル人ストライカーで『アニマル』のニックネームで知られた。東京ヴェルディでプレーし、浦和レッズと契約したがほとんどプレーしなかった」

「世界のサッカー界で、最もフィジカル的なストライカーの一人。川崎フロンターレ、コンサドーレ札幌、東京ヴェルディでプレーし、欧州ではポルトとゼニトでプレーした」

 この4人の中で、1人目はヒントが少なかったのかもしれない。正解はドゥンガやレオナルド、ジョルジーニョとともに1994年W杯優勝時の元ブラジル代表FWベベットだ。そして、続くのはフリスト・ストイチコフ。左足から放たれる強烈なシュートはJリーグでも異彩を放った。そして、3人目は卓越したテクニックと狂気の両者を見せたエジムンドで、最後の一人は現在中国の上海上港でプレーしているフッキだ。

フォルラン、ポドルスキに続きイニエスタ参戦となるか

 こうして見ていくと、やはりJリーグにやってきた世界的な名手はブラジル人が多く、さらに言えば1994年アメリカ・ワールドカップ優勝メンバーが多い。その次の世代では、このリストに含まれなかった選手でも、横浜フリューゲルスや柏レイソル、サンフレッチェ広島でプレーしたMFサンパイオなど、世界トップクラスの選手もいた。しかし近年は、そうした実績を誇る選手がJリーグに減っている。

 ここ5年ほどで言えば、セレッソ大阪でプレーした元ウルグアイ代表FWフォルランと、現ヴィッセル神戸の元ドイツ代表FWルーカス・ポドルスキがビッグネームと言える。イニエスタが神戸にやってくれば、その世界トップクラスのプレーを見られることはもちろんのこと、Jリーグ初期にサポーターをワクワクさせたような存在として、再びスタジアムに多くの人が集まる起爆剤になってくれるのではないかと、期待は高まるばかりだ。





2017年12月29日金曜日

◆【編集局から】ジョルジーニョ氏も舌をまいた貴乃花親方のサッカー情熱 「素顔」伝えられていない現状が至極残念(zakzak)




 スポーツ界は「まさか」続きの一年でした。元横綱日馬富士の暴行事件もそのひとつです。

 渦中の人になってしまった貴乃花親方ですが、ほんとうの「素顔」が伝えられていないのが至極残念。もちろん意見は十人十色、個人差があるのは当然です。貴乃花親方に対しても異論反論はあるでしょう。

 しかし、親方のスポーツに対する愛情は並大抵でありません。実は相撲より先にサッカーのとりこになりました。「僕はキャプテン翼世代です」と話したことがあります。「FWだったんですよ。でも小さい頃から体が大きくて…GKばっかりやらせれて…あはは」と苦笑いしていた、あの日が懐かしい。

 貴乃花親方は鹿島アントラーズのOBで監督もつとめたブラジル代表DFジョルジーニョと「サッカー対談」をしたことがあります。1994年W杯米国大会で優勝歴もあるばりばりのセレソンが「あのスモウチャンピオンのサッカーに対する情熱は本物だ」と舌をまいていました。2018年にはW杯ロシア大会があります。この騒動が一刻も早く落ち着き、不振が続くサッカー日本代表に貴乃花親方から“喝”を入れてほしい。そんな思いの師走です。(K)


2017年3月4日土曜日

◆リネカーは3億円/主な大物外国人選手年俸一覧(ニッカン)




 ヴィッセル神戸は2日、元ドイツ代表FWルーカス・ポドルスキ(31=トルコ1部ガラタサライ)を完全移籍で獲得したと発表した。


 契約期間は19年シーズン終了までの見込みで、推定で移籍金260万ユーロ(約3億1200万円)、年俸500万ユーロ(約6億円)プラス出来高。年俸はセレッソ大阪に在籍したウルグアイ代表FWフォルランに並ぶJリーグ最高額になった。過去の主な大物外国人選手の1年目の年俸は以下の通り。

◆Jリーグに在籍した主な大物外国人選手の1年目年俸◆
【注】成績はJ1通算

ジーコ(ブラジル→鹿島=92〜94年)4100万円(23試合14得点) 
リネカー(イングランド→名古屋=93〜94年)3億円(18試合4得点) 
リトバルスキー(ドイツ→市原=93〜94年)1・5億円(63試合10得点) 
ディアス(アルゼンチン→横浜M=93〜95年)1・2億円(75試合52得点) 
カレカ(ブラジル→柏=93〜96年)1億円(35試合12得点) 
ロナウド(ブラジル→清水=94〜95年)6000万円(46試合3得点)  
レオナルド(ブラジル→鹿島=94〜96年)8000万円(49試合30得点) 
ブッフバルト(ドイツ→浦和=94〜97年)7000万円(127試合11得点) 
バイン(ドイツ→浦和=94〜96年)5000万円(68試合25得点) 
スキラッチ(イタリア→磐田=94〜97年)6000万円(78試合56得点) 
ストイコビッチ(ユーゴスラビア→名古屋=94〜01年)5000万円(184試合57得点) 
マッサーロ(イタリア→清水=95〜96年)1億円(20試合10得点) 
ドゥンガ(ブラジル→磐田=95〜98年)1億円(99試合16得点) 
ジョルジーニョ(ブラジル→鹿島=95〜98年)9000万円(103試合17得点) 
サンパイオ(ブラジル→横浜F=95〜98年、柏=02年、広島=03〜04年)8000万円(156試合16得点) 
ジーニョ(ブラジル→横浜F=95〜97年)1億円(83試合21得点) 
ラウドルップ(デンマーク→神戸=96〜97年)7000万円(3試合0得点) 
エジウソン(ブラジル→柏=96〜97、02年)6000万円(70試合51得点)  
エムボマ(カメルーン→G大阪=97〜98年、東京V=03〜04年、神戸04〜05年)7000万円(79試合48得点) 
ストイチコフ(ブルガリア→柏=98〜99年)1・5億円(27試合12得点) 
ベベット(ブラジル→鹿島=0年)1・5億円(8試合1得点) 
ルイゾン(ブラジル→名古屋=5年)1・2億円(6試合4得点) 
イルハン(トルコ→神戸=4年)2・1億円(3試合0得点) 
ユングベリ(スウェーデン→清水=11年)6000万円(8試合0得点) 
フォルラン(ウルグアイ→C大阪=14〜15年)6億円(26試合7得点) 
ポドルスキ(ドイツ→神戸=17年〜)6億円(?試合?得点) 

http://www.nikkansports.com/soccer/news/1786707.html

2016年12月27日火曜日

◆憧れの選手、一番人気は“怪物FW”に…ブラジル国内選手が投票、結果は?(サッカーキング)


https://www.soccer-king.jp/news/world/southamerica/20161226/531442.html?cx_cat=page1

ロマーリオ、ロナウド、ペレ

 ブラジルメディア『UOL』が、ブラジルリーグの1部と2部でプレーする118人の選手を対象にアンケート調査を実施。「ブラジルで最も素晴らしいスタジアムは?」など、22の質問に関する集計結果を紹介している。

 1位に選ばれたスタジアムは、約33パーセントと圧倒的な票を集めたマラカナン・スタジアム。1950年ワールドカップで起きた“マラカナンの悲劇”など多くの歴史的瞬間の舞台となってきた同スタジアムだが、現役選手たちからも高い人気を得ているようだ。2位で続いたのは、パルメイラスの本拠地であるアリアンツ・パルケ(約11パーセント)だった。

 また、「今年のブラジル人最優秀監督は?」という質問では、今年6月からブラジル代表を率いるチッチ監督が約40パーセントの票を集めて1位に輝いた。2位に入ったのは、今年のブラジル1部リーグ(ブラジル全国選手権)を制したパルメイラスのクッカ監督(約24パーセント)。また5位には、鹿島アントラーズで選手や監督として活躍し、今年はヴァスコ・ダ・ガマを率いてチームを1部復帰に導いたジョルジーニョ氏(約4パーセント)が選ばれている。

 一方、憧れの選手について答える質問では、約21パーセントの票を集めた元ブラジル代表FWロナウド氏がトップに。フェノメノ(怪物)との愛称を持つ名FWが“一番人気”となった。そして、1994年のアメリカ・ワールドカップでMVP(最優秀選手賞)に輝いた元ブラジル代表FWロマーリオ氏(約13パーセント)が2位となり、ブラジルサッカー界の英雄ペレ氏(約8パーセント)は3位だった。

(記事/Footmedia)

2016年6月3日金曜日

◆バンビーノ・石山大輔さんが語る、サッカー大国ブラジルと鹿島、ジーコと大野俊三【INTERVIEW】(フットボールチャンネル)


http://www.footballchannel.jp/2016/06/02/post155864/

ウェブ番組『FChan TV』とのコラボ企画。かつてブラジルに留学し、サッカー三昧の日々を送った経験のあるバンビーノの石山さんが、ブラジルサッカーと鹿島アントラーズについて語った!(取材・文:中山佑輔)

バンビーノの石山大輔さん

高校のサッカー部ではスパルタ指導を経験した

―――サッカーがお好きになったきっかけから教えていただけますか?

 お兄ちゃんが小学校3年生になったときにサッカークラブに入ったんですけど、3年生から入れないはずなのに、僕もついて行ってたら入れてくれた。高校はサッカーが強い学校に行って、1年と3年の県大会で優勝したかな。そのときの先生が愛媛では有名なスパルタの人で、なかなか……(笑)。

―――どんな練習をされるんですか?

 もともと田んぼやったところがグラウンドになってるみたいな感じで、水はけがめっちゃ悪かったんです。そこで、タイヤに綱をつけて走っていくみたいな(笑)。あとはトンボひくんですけど、ぬかるむからって、そのトンボの上に先輩や後輩が乗って、それをひく(笑)。グラウンド整備兼練習みたいな。朝トンボ、昼トンボ、夜は先輩乗せてトンボ(笑)。しんどかった思い出しかないな。

―――大学のときもプレーされていたんですか?

 もうケガがあったんで、部活とかじゃなくて趣味程度ですね。大学では第二外国語でポルトガル語を選んで、ブラジルで日本語の先生をやろうと思ってた。

 そのうち就活とか、教員免許とるのに大事な時期になって、親にも相談せずに勝手にブラジルへ留学に行っちゃった。そしたら大学の教務部から「石山さん、今どこにいるんですか?」って電話がかかってきて。「ブラジルです!」って言ったら滅茶苦茶怒られた。

 で、帰って来たらみんな就職決まり出していて。専門学校で一番安いところを探したらNSC(吉本興業の養成所)があった。辻調とか、大原とか、いろんな専門学校を見たんですけど、40万が一番安かった。本当は東京に行きたかったんですけど、当時は東京だけ60万だったんで、40万の大阪を選んだんです。

 サッカーもそうだと思うですけど、センスってすぐわかるじゃないですか。だからセンスなかったらすぐお笑いは辞めようと思ってた。でもブームにうまく乗れて仕事もらえたから、いけそうだなと思って、こんなところまで来てしまった(笑)。

―――どんな経緯で実際にブラジルに行くことになったんでしょうか?

 大学の先生がホームステイ先を紹介してくれて「行ってみる?」って。「1ヶ月くらいなら」って言っていたのに、ずるずる半年くらいおることになった(笑)。それで結局勉強もせずにサッカーばっかりやってた。

山瀬選手のおかげでブラジルでサッカーができた

―――どこでサッカーをされたんですか?

 サンパウロ大学に勉強しに行ってて、そこでサッカーチームがあったんです。そこでサッカーしてたら、いま京都でプレーしてる山瀬選手を教えてたって人が声かけてきて。「俺、山瀬知ってるけど、お前知ってるか?」って。

「もちろん知ってます」って言ったら、「お前うまいから明日練習に来い」って街クラブに誘ってくれて。そこから勉強はしなくなった。山瀬選手のおかげでサッカーができた(笑)。

―――ブラジルに行って想像していたこととの違いはありましたか?

 ブラジルって、結局ロナウジーニョがモテるみたいにサッカーうまいやつがモテるんすよ、絶対的に。どんだけ話がうまいやつ、どんだけ陽気なやつよりも、サッカーうまいやつがプレーを見せたら一瞬でかわいい子にいけちゃう。ブラジルでサッカーしててそれがわかった(笑)。あんまかっこよくないけどってやつが、サッカーうまければ……。モテの秘訣はそこにあった(笑)。

―――サンパウロにいたときにはサッカースタジアムにも行かれたんですか?

 行きましたよ! フーリガンめっちゃおるから、サンパウロ応援したいけど、サンパウロのユニフォームを家から着ていったら襲われるから、サンパウロのユニフォーム着て、普通の服着て、コリンチャンスとかのサポーターの横をタクシーで通って、スタジアムに行く(笑)

 そしてチケット買うときがすごいんですよ。パチンコの換金所みたいな感じなんですけど、そこが石壁なんすよ、マラカナンは。手が出せるだけの穴があいてて、その真実の口みたいな場所にお金出すと、ヒュッって手だけ出てきて、お金が回収されてチケットが出される。強盗が拳銃をつきつけたりっていうのが昔あったんじゃないかな。

 それでホームスタジアム側のスタンドに行ってようやくサンパウロのユニフォームになって応援できる(笑)。それぐらいせな、襲われるって。あとね、爆竹がすごいんすよ。

―――それはスタジアムの中ですか?

 中も外も。もうずっとボォンッって。1回それにびっくりしてよろけたカメラマンが高いところから落ちたんすよ。それを目の当たりにしてしもうたから、もう恐くなってしもうて。結局2回しか行ってない(笑)。マラカナン2回(笑)。

サッカーが入り込んでいるブラジルのスラング

―――マラカナンに2回行かれたんですね。マラカナンってどのような雰囲気でしたか?

 ブーイングがすごかったです。シュート打たへんかったり、パスしてしまうともうすぐブーイング。これだけ言われてたら決めなアカンってなるな、これは日本にないなって思った。

 シュート打てへんとか、ドリブルの勝負をせんとかにめっちゃ厳しい。そういう人たちやから、トリッキーなプレーするやつがめっちゃ好かれる。

―――そういう雰囲気が選手を育てる面はありますよね。ブーイングとは違いますが、ブラジルで聞いた言葉で印象的なものはありますか?

 スラングが多いんですよ。「めちゃくちゃピンチや」っていうのを「コーナーキックに逃げる」って言うんですよ。で、「頑固者」を「ゴレイロ(GK)」っていうんすよ。そして「俺の人生終わったな」っていうのを「ペレが死んだ」って言う(笑)。サッカーが日常の会話のなかに入って来てる。

―――それはわからないですよね。スラングって教室で勉強するようなものでもないですし。

 いっつも「ハッ?」ってなってた。日常会話も2ヶ月目くらいから聞こえてきたんですけど、スラングは難しかったですね。「お前GKやな」とか言われてもね(笑)。そういうふうに日常にサッカーが入って来てるんですよね。あと女の子の気を惹くことを「パスを出す」って言うんすよ(笑)。「お前あいつにパス出したらしいな」って。俺は恥ずかしくて使えなかったけどね、「話しかける」って言っちゃう(笑)。恥ずかしくて使えないじゃん、「ペレが死んだ」とか(笑)。

―――「ペレが死んだ」はハードル高いですね(笑)。もともとブラジルが好きだったんですよね。何かきっかけがあるのでしょうか?

 もともとは鹿島アントラーズがめっちゃ好きで、ジーコがずっと好きだったんです。コップとかは全部Jリーグでしたよ。小学校の文集には「絶対ブラジルに行く」って書いてた。

―――カズさんみたいですね。

 カズ好きやったなー。今も好きやけど。今でもブラジルではカズを知ってる人がいるんですよ。ほんとすごいと思う。

 ブラジル行って思ったんですけど、こんなところに15歳で単身で来てプロテスト受けて本当にプロになっちゃう人なんているんだって。その辺でサッカーやってるやつだってめっちゃうまいんすよ、速いし。このレベルの奴がプロになってないところでプロになってるっていうのは本当すごいなって。

秋田豊よりも大野俊三、井原正巳よりも大野俊三

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―――Jリーグだと鹿島アントラーズがお好きなんですね。

 そうなんすよ。僕は小学校のときセンターバックだったんですけど、Jリーグが開幕したときは大野俊三がめっちゃ好きだったんです。ファイトし過ぎてもう失神しかけたり(笑)。なんかあの感じが好きやった。秋田豊より大野俊三。井原正巳より大野俊三。

―――大野さんが出てくるとは想像してなかったです(笑)。男らしい感じですね。気高いというか。

 そうなんすよ。それがずっと好きやった。リティ(リトバルスキー)か誰かのシュートを顔面にくらってよろけるんだけど、倒れんかった。ロべカル(ロベルト・カルロス)のシュートとかくらっても大野俊三なら大丈夫そう(笑)。

―――大野さんはドーハの時のことを回想して、「(ベンチにいた)俺を試合に出していれば勝てた」って言いきってましたね。そのくらい強気で男らしい。

 いや、ほんとに結局すごいんすよ、根性(笑)。このご時世に根性論なんて(笑)。その当時本田泰人さんとか「うまいな」ってプレーをする人よりも、僕にとっては魅力的だったんですよ。うまい人もすごいけど、かっこいいとは思わなかった。激しいプレーヤー好きやから、ガットゥーゾとか(笑)。

―――今もアントラーズの試合はご覧になるんですか?

 今はたまにですかね。90分見る時間がなかなか取れなくて。ダイジェストとかは見ますけど、通して見るのはなかなかできないですね。

スパイクはオールドファッションが良い

鹿島アントラーズでプレーしたジーコ

―――アントラーズはジーコの影響でブラジルの流れがありますね。

 そうですね。レオナルド、ジョルジーニョとか。あの2人が来たのは大きかったですよね。W杯優勝したときの両サイドバックおるんやから(笑)。ポジション変わってるけど(笑)。

 レオナルドはサイドバックの選手やと思ってたから、最初はめっちゃなめてた。アントラーズで10番つけて、「前のほうおるけど、ディフェンダーやん」って思った。でもすぐ「めちゃうまいやん」ってなった(笑)。「あれ? ジーコの時より目立つなぁ」みたいな(笑)。

 ビスマルクもいましたね。で、ビスマルク真似てみんなスパイクを黒墨で真っ黒にして。でも俺だけペナルティのスパイク履いてた。あとエネーレ着てね(笑)。あの当時ペナルティとか履いていると「何それ」って言われてた。

―――何そのブラジル通な感じ、みたいな(笑)

 そうそうそう(笑)。でも俺は断固エネーレと、断固ペナルティ(笑)。かたちから入るから。

―――スパイクは黒に白線っていう昔ながらの感じがいいですか? 最近はだいぶカラフルになってますけど。

 そうです。余計なのはいいんすよ。いきなり白がめっちゃ流行った時期あったじゃないすか。その後オレンジとか出てきて。やめてよって、そういうのじゃないじゃん(笑)。

 やっぱりオールドファッションがいいな。シャツもインしてほしい。シャツ出していいのは西澤(明訓)だけ(笑)。他はみんなイン。ソックスも全部上げていいのは(ティエリ・)アンリだけ(笑)。紳士のスポーツやから(笑)。

(取材・文:中山佑輔)

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