1979年生まれ組が「黄金世代」と称される一方で、「谷間の世代」と呼ばれていた1981年世代。ワールドユース(現U-20W杯)や五輪ではグループステージ敗退を経験したが、2010年の南アフリカW杯では決勝トーナメントに進出した日本代表チームで軸となる世代となり、今なおJクラブで主力を担う選手たちもいる。鹿島アントラーズ、タイのBECテロ・サーサナ、ファジアーノ岡山を経て現在関東1部の東京ユナイテッドFCでプレーする元日本代表DF岩政大樹は、自身のキャリアについてどのような思いを抱いているのだろうか。(取材・文:元川悦子)
大きな壁だった「黄金世代」
「谷間の世代」と称された81年生まれの世代にとって、79年生まれの「黄金世代」はつねに大きな壁として立ちはだかった。
黄金世代の象徴的存在である小野伸二(札幌)が18歳で98年フランスワールドカップ出場を果たし、彼がキャプテンマークを巻いた99年ワールドユース(ナイジェリア)で日本は準優勝の快挙を達成。
この1つ上のユース世代である宮本恒靖(G大阪U-23監督)、柳沢敦(鹿島コーチ)、中村俊輔(磐田)らと黄金世代が融合した2000年シドニー五輪では8強入りと、少し年長の選手たちが日本サッカーの歴史を次々と塗り替えてきたからだ。
それを目の前で見せつけられた81年組は、どこか劣等感に近いものを抱き続けてきたのではないだろうか……。
そういった構図が常勝軍団・鹿島アントラーズの中にも少なからずあった。小笠原満男、曽ケ端準、中田浩二(鹿島CRO)、本山雅志(北九州)、山口武士(エンフレンテ熊本コーチ)、中村祥朗の「V6」と呼ばれた面々が98年に入団。
山口と中村が去った後の2002年には石川竜也(山形コーチ)、2003年には新井場徹(エージェント)が加入するなど、2000年代の鹿島は彼らに支えられていたと言っても過言ではない。それほど絶大な影響力を誇っていた。
となると、黄金世代より少し年下の世代はどうしても難しい立場に置かれる。ユース上がりの野沢拓也(仙台)や根本裕一(鹿島つくばジュニアユース監督)、大卒の深井正樹(千葉普及部コーチ)、ケガを繰り返した羽田憲司(鹿島コーチ)、金古聖司らはどこかやりづらさを覚えていたはずだ。
2001年入団で15年間鹿島で過ごした青木剛(熊本)でさえも「黄金世代の選手たちはつねに前向きで自信に溢れている」と羨望の眼差しで見ていたほど。その壁はやはり高かった。
「僕が鹿島入りした2004年頃は満男さんたち黄金世代がチームを軸を担っていました。フロントもサポーターも彼らへの信頼と期待が大きかったので、僕らすぐ下の世代は『彼らの陰』という位置づけにならざるを得なかった。
(オズワルド・)オリヴェイラ監督時代の2007~2009年にかけてのJリーグ3連覇の時も、タク(野沢)や自分も頑張ったとは思いますけど、やっぱり看板は黄金世代でしたからね」と話すのは、岩政大樹(東京ユナイテッド)。ご存知の通り、2004~2013年まで常勝軍団に在籍し、全19冠のうち7冠獲得に貢献した元日本代表DFである。
「(代表で)心地よくプレーできたことは一度もない」
82年1月生まれの岩政も「谷間の世代」に属する選手だが、自身が「谷間の中の谷間」と自虐的に言うように、年代別代表経験が一度もない。それも鹿島の黄金世代に対する劣等感につながっていたのかもしれない。
「僕らの世代には(田中マルクス)闘莉王(京都)、那須(大亮=神戸)、阿部(勇樹=浦和)ちゃん、茂庭(照幸=C大阪)、羽田のように優れたDFが沢山いた。
その他のポジションを見ても、駒(野友一=福岡)ちゃんや山瀬(功治=福岡)、松井(大輔=横浜FC)、寿人(佐藤=名古屋)や前田(遼一=FC東京)と面白くていい選手が本当に多かった。
黄金世代ほどじゃないかもしれないけど、所属チームや日本サッカー界への貢献度の高い顔ぶれだったと感じます。
年代別代表で活躍してきた彼らとは対照的に、僕は一度もそういう経験をしないまま、プロになりました。ユース年代の頃は岩国高校という無名チームでやっていて、山口県2回戦止まり。
高校選手権優勝とかワールドユースを経験した同世代とは全くの別世界にいた。東京学芸大の時にはユニバーシアードに出ましたけど、それはまた違った経験ですよね。その後、A代表に呼ばれるようになって、一緒のテーブルで食事をすることも増えたけど、昔話に入れなくて困りました(苦笑)。
同じく年代別代表経験のない憲剛(中村=川崎)君といつもそんな話をしてたかな。2010年南アフリカワールドカップで1ヶ月くらいみんなと過ごして、やっと打ち解けましたけど、それでも心地よくプレーできたことは一度もない。
そんな自分ですから、鹿島で黄金世代に特別なオーラを感じるのも当然かもしれないですよね」と岩政は神妙な面持ちで語っていた。
鹿島が世代交代への動きを本格化させた2013年後半、岩政は控えに甘んじることが多くなった。「鹿島は『出て行ってくれ』とは言わないチーム。自分で自分の去り際を決めないといけない」という思いがあって、そのシーズンを最後に移籍を決意。
2014年1年間はタイ・プレミアリーグのBECテロ・サーサナに新天地を見出した。タイのメッシと言われるチャナティップ・ソンクラシン(札幌)ら若い選手に刺激を受けつつ、トヨタ・リーグカップ優勝の原動力となることに成功する。
異国の環境を体感し、選手として十分やれると自信を深めた彼は2015年からj2のファジアーノ岡山へ移籍。「2年でJ1に昇格させる」というタスクを自らに課す。その言葉通り、岡山は尻上がりに調子を上げ、2016年はJ6・6位でフィニッシュ。
J1昇格プレーオフでは3位だった松本山雅を準決勝で撃破し、決勝へと駒を進めた。が、セレッソ大阪とのラストゲームは本人も「完敗だった」と潔く認めるほどの力の差を見せつけられ、J1昇格の夢はついえた。
岡山のサポーターからは「残ってほしい」と強く慰留されたが、岩政は「1つのタスクが終わった」とキッパリ区切りをつけ、2017年から関東リーグ1部(5部相当)の東京ユナイテッドFCへ移籍。そこで選手と指導者を掛け持ちしながら、メディア露出やイベント参加、講演など多彩な活動も手掛けるようになった。
同年9月には「PITCH LEVEL 例えば攻撃がうまくいかないとき改善する方法」(KKベストセラーズ)という初の自著も出版。「ライターの名刺も作ろうかな」と笑うほど、八面六臂の活躍を見せている。
「鹿島を出て、タイや岡山、東京ユナイテッドに行って、他の選手とは違った道を歩んだことで、ようやく自分に自信が生まれたのかなと思います」と本人も語気を強めるように、独創的なキャリアを構築できるのが、「谷間の世代屈指のインテリ選手」の強み。そこはもっと胸を張るべきだ。
とはいえ、もちろん本業はサッカー選手。東京ユナイテッドのJFL昇格を目指して1シーズンを戦ったが、最終的には3位でフィニッシュ。地域リーグ決勝大会には進めなかった。
関東1部にはVONDS市原、ジョイフル本田つくば、東京23など強豪クラブがひしめいているが、地域決勝には1チームしか出られない。「日本サッカー界で最も狭き門」と言っても過言ではないほどの難易度の高さなのだ。
目標達成のために、東京ユナイテッドは岩政を前線のターゲットマンとして起用するなど、さまざまな策を講じてシーズンを戦った。
台風18号襲来で東京都内が豪雨に見舞われた2017年9月17日に小石川運動場で行われた横浜猛蹴とのゲームでも、前半は岩政が1トップで出場。打点の高いヘッドで再三チャンスを作っていた。
後半からは本来のDFに戻って後方からチームを統率。終了間際に退場者が出ても声を枯らして指示を出し続け、後半アディショナルタイムの決勝点を引き寄せる。決めたのは岩政ではなかったが、彼がもたらす安心感と存在感がなければ、悪天候に悪ピッチ、数的不利という苦境を乗り切れなかっただろう。
「関東リーグ1部で1シーズン戦って、日本サッカーのエリートじゃない環境を目の当たりにしましたけど、このレベルが上がれば日本全体ももっともっとレベルアップすると痛感しましたね。
下のカテゴリーの選手に足りないのは『自分で考えてサッカーをする』ということ。日本人はチームとしての約束事や戦術を愚直にやることには長けていますけど、自ら考えてアクションを起こすのは苦手。
今回の試合も0-0で終盤まで行って退場者が出たことで逆にチームにスイッチが入りましたけど、11対11の状況で誰が何をどう変えていくのか。そこを考えるのがサッカーの本質なんです。
技術や戦術よりも、個々の判断や決断といった部分の方が重要。カテゴリーが下がるとその不足がより顕著になってくる。そこを改善していくことが、日本を強くすることにつながると僕は思います」
「人と違う生き方」に強くこだわる岩政があえて違った目線から見たものは、必ずや日本サッカーの未来に活かされる。
2018年も東京ユナイテッドの一員としてプレーしながら下部リーグからの底上げを図っていくつもりだが、日本代表から関東リーグまで幅広くサッカーを見てきたこの男にできることは少なくないはず。岩政らしい独自性を大事にしつつ、異彩を放ち続けてほしいものだ。
(取材・文:元川悦子)
【了】
自分は「谷間の中の谷間」。岩政大樹、独自のキャリアを歩み生まれた自信【谷間の世代と呼ばれて】