日刊鹿島アントラーズニュース

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2019年8月9日金曜日

◆谷間の世代・初代主将、羽田憲司。 今も残る悔恨と鹿島コーチでの野心。(Number)



羽田憲司 Kenji.Haneda


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 サッカー界で「谷間の世代」と言えば、アテネ五輪に22、23歳で出場した、1981年(及び1982年)生まれを指す。
 10代のころから「黄金世代」と比較され、あまり評価をされてこなかった世代だ。だが、そんな評判を覆すように、彼らのなかからはJ1リーグの得点王や、クラブのレジェンド的存在が生まれている。
 当事者である彼らは世間の評価をどう受け止め、どう成長していったのか。今年38歳となり、現役を続ける者が少なくなってきたいま、彼らの証言から「谷間の世代の真実」を探る。今回は代表チームでキャプテンを務め、鹿島アントラーズなどにも在籍した羽田憲司に訊いた。


 天気のよい平日の昼下がり。鹿島アントラーズのクラブハウス内にある一室で待っていると、ほどなく、練習を終えた羽田憲司がジャージ姿のままやってきた。

「インタビューされるのなんて、久しぶりだな」

 2012年シーズンを最後に、ヴィッセル神戸で現役を引退した羽田は、セレッソ大阪のアカデミーとトップチームで3年間コーチを務めた後、2016年シーズンから、自身がプロ選手としてのキャリアをスタートさせた、古巣・鹿島にトップチームのコーチとして復帰。以来、指揮官の右腕となり、クラブ通算20冠を達成した常勝軍団を支えている。


最初は“谷間”を意識してなかった。


 今回の取材テーマは、「谷間の世代」。もちろん、事前に伝えてある。

「もうかなり前のことだし、ちゃんと思い出せるかな」

 日焼けした顔にはしわも目立つようになってきたが、軽口とともに見せる人懐っこい笑顔は、約20年前から変わっていない。

 2000年1月、18歳の羽田は至福の瞬間を味わっていた。

 第78回全国高校サッカー選手権大会。千葉県代表の市立船橋は、松井大輔らを擁する鹿児島県代表の鹿児島実業を決勝で2-0と下し、3度目の優勝を成し遂げた。しかも1回戦から決勝まで、相手に1ゴールも許さない無失点優勝。そんなスキのないチームのキャプテンを務め、鉄壁を誇るディフェンスの中心にいたのが羽田だった。

 世代屈指のセンターバックは高校卒業後、鹿島入り。一方で、同世代の選手が集まるU-20日本代表にもチーム立ち上げ当初から選ばれ、そこでもキャプテンを務めた。当時のU-20代表とは、すなわち、谷間の世代と呼ばれた選手たちである。

「そう言われていたのは知っていました。ふざけて『オレたち、谷間だからさ』とか言い合っていたこともあったと思います(笑)。でも、いい選手はたくさんいたので、(実力的には)谷間ではなかったと思うし、当時はそれほど意識していませんでした」


経験値は他の世代よりもなかった。


 とはいえ、同世代の選手のなかに、所属クラブでコンスタントに出場機会を得ていたのは数人程度。加えて国際経験という点でも、U-17世界選手権(現U-17ワールドカップ)はおろか、そのアジア予選を経験している選手すらほとんどいなかった。

「経験値としては、他の世代よりもなかったんじゃないかな。たぶん、それはみんな感じていたと思います。だから、海外遠征にすごくたくさん行きましたよね。今の時代なら、アントラーズでも育成年代はどのカテゴリーでも海外へ行くし、珍しくはないけれど、当時はそうではなかった。

 僕らは経験がないから、厳しい環境を経験させるためにやってくれているんだな、と。当時もそう思っていましたが、自分が指導者になってみて、それをより強く感じます」


今でもずっと、自分のせいだと。


 ところが、彼らは、自分たちが谷間などではないことを証明するはずだった舞台――2001年6月、アルゼンチンで行われたワールドユース選手権(現U-20ワールドカップ)で、グループリーグ敗退に終わる。





「自分のせいだって思いました。グループリーグを突破できなかったのは自分のせいだって。ずっと思っていたし、それは今でも思っています」

 今もなお、羽田の心のなかに深く根を張り、生き続ける悔恨である。

 ワールドユース開幕をおよそ1カ月半後に控えた2001年5月、羽田はJリーグでの試合中に腰椎横突起骨折のケガを負った。当初の診断結果は、全治1カ月から1カ月半。ワールドユース出場は、もはや絶望かと思われていた。

 しかし、2週間の安静の後、リハビリを始めた羽田を、U-20代表監督の西村昭宏は「本番では戦力になると判断した。初戦が大事なので、グループリーグから使いたい」と、登録メンバーに加えることを決断。出発直前の国内キャンプにも参加せず合流する、異例の扱いだった。

 当時のU-20代表の主戦システムは、3-4-2-1。フィリップ・トルシエが率いるA代表の影響もあり、最終ラインは「フラット3」が採用されていた。3人のDFの中央を務め、しかもキャプテンである羽田は、このチームに不可欠な存在だったのである。


初戦でまさかのオウンゴール。


 急仕上げで、どうにか間に合わせた大舞台。だが、およそ1カ月間ピッチから離れていた影響は、決して小さなものではなかった。

 グループリーグ初戦の相手は、オーストラリア。日本は初戦の緊張から硬さが見られたが、ボールポゼッションでは上回り、優勢に試合を進めていた。

 羽田を欠いて以降、不安定さを見せていた守備も、DFラインの要が復帰したことで、明らかに落ち着きを取り戻していた。当時の羽田も試合後、「前半のDFラインはパーフェクト。行けるぞ、っていう感じがみんなにあった」と、コメントしている。

 ところが59分、思わぬ落とし穴が待っていた。

 左サイドから入ってきた低く速いクロスに、ゴール前の羽田が体勢を崩しながら懸命に足を伸ばす。しかし、左足に当たり損ねたボールは自陣ゴール方向へ跳ねると、不運にも絶妙なループシュートとなってGK藤ヶ谷陽介の頭上を越えた。

「試合の入りもよくて、どこかで点が入れば(勝てる)っていう感じだったんですけど、まさかのオウンゴールで……。そこから、自分たちの経験のなさだったのか、チーム全体がバタバタしてしまいました」


「なぜここで?」って感じでした。


 そして羽田は、再び自責の念を口にする。

「あのオウンゴールがすべてだった。自分はずっとそう思っています。そのインパクトが強すぎて、自分がどういう気持ちであの大会に臨んでいたのか、そういうことを覚えていないというか、オウンゴール以外の記憶が薄れています。

 この世代の中心でやってきた自負もあったし、キャプテンもやらせてもらっていたから、チームを引っ張っていこうっていう意識でやっていました。だから、余計に責任を感じた。流れがよかったのに、『あそこでキャプテンがオウンゴールするか?』って。自分でも、『なぜここで?』って感じでした」

 大事な初戦を落とした日本は、続く第2戦でもアンゴラに1-2で敗れて2連敗。最後のチェコ戦でようやく本来の力を発揮し、3-0で快勝したものの、時すでに遅し、だった。

 1勝2敗のグループ最下位。日本がこの大会でグループリーグ敗退に終わるのは、開催国枠で出場した1979年大会を除けば、初めてのことだった。


3年後にはアテネ五輪がある。


「最後の試合では、自分たちが今までやってきたサッカーを出して、ああいう結果になったから余計に悔しかったし、複雑な気持ちでした。みんなも『なんでこれをもっと早くできなかったんだろう』って思いながらプレーしていたと思います。あれを最初からやれていれば、間違いなく決勝トーナメントにも行けただろうし……」

 羽田は18年前の記憶をたどりながら、ゆっくりと言葉をつなぐ。

「そこらへんが、結局は経験のない谷間の世代だったのかなって。初戦はやっぱり、みんな緊張していましたよね。そこに経験のなさが出たというか、プレッシャーのかかる経験をしたことがないっていうのが出たんじゃないかと思います」

 2年前の前回大会で準優勝という偉業を成し遂げた、小野伸二ら、いわゆる「黄金世代」との比較も手伝い、この結果が谷間の世代なるネガティブなイメージをさらに強く印象づけたのは間違いない。

「やっちまったと思いました」


 それが羽田の本心だった。

 敗戦の責任をひとりで背負い込んだ羽田は、しかし、キャプテンとして「このままでは終われない」とも考えていた。そこで羽田は、日本へ発つ前に選手だけをホテルのミーティングルームに集め、ひとりひとりが思っていることを言い合う時間を作った。

 3年後にはアテネ五輪がある。その先にはA代表もある。このメンバーが全員オリンピックへ行けるわけじゃないけど、それぞれがクラブで活躍して、できるだけ多くオリンピックに出て、この借りを返そう。そんなことをそれぞれが口にした。


帰国してから足首痛に襲われた。


 当然、羽田自身もそのつもりだった。

「アントラーズでレギュラーを取って、A代表に選ばれるんだ。自分ではそう思って、ギラギラしていたというか、若かったし、変な自信もありました」

 だが、羽田の夢がかなえられることはなかった。というより、羽田はその後、満足にプレーすることさえできなくなる。

 アルゼンチンから帰国して、およそ2カ月後の2001年8月。羽田はJリーグの試合を終えた翌週の練習中、ふいに足首に違和感を覚えた。

「その後も練習を続けていたんですけど、とうとう我慢できなくなって……」


3年11カ月ぶりの公式戦出場。





 足首は「腫れが引かなくて、歩くのも痛かった」が、痛みの原因は不明。検査と手術を繰り返しても一向によくなる気配がなかった。ジーコのつてをたどってブラジルへ渡り、ようやく現地のドクターによって原因が特定されたときには、最初の違和感から1年以上が経過していた。

 一緒にワールドユースを戦った仲間が、アジア予選の死闘を経て、アテネ五輪を戦っていたころは、ほぼ丸2年を要したリハビリの真っただ中だった。

「長く休んでいる間にみんなが成長していくのを見ていたら、同年代なのに、すごく遠くへ行ってしまった感じがしました」

 対照的に自分自身は、ボールを蹴るどころか、走ることもできず、「精神的に大変だった。意識的にサッカーから離れていたというか、先の見えない日々に病んでいました」。

 ようやく、練習に復帰できたのは2004年のシーズン後半戦。翌2005年7月のJリーグ復帰戦は、ヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)を除けば、実に3年11カ月ぶりの公式戦出場だった。


31歳での引退に未練はなくとも。


 だが、ケガとの戦いは、これで終わったわけではなかった。痛みから完全に解放されることはなく、加えて、およそ4年のブランクは想像していた以上に大きかった。

「復帰してから、自分のプレースタイルが変わったというか、変わらざるをえない状況になったときに、『もう上は目指せない。A代表は無理だな』と思いました。そこからは、同世代の選手たちのこともライバルではなく、頑張れっていう気持ちで見ていました。もちろん、Jリーグで対戦したときには勝ちたいけど、誰かがA代表に選ばれても、うらやましいとか、そういう感情はなかったです」

 結局、羽田は思うようなプレーができないまま、セレッソ大阪、神戸へと移籍した後、31歳でスパイクを脱いだ。将来を嘱望され、世代の先頭を走っていた頃を思えば、あまりに短い現役生活だった。

「僕の場合、引退を決断するのは簡単でした。復帰した後も、ずっと足の痛みを我慢しながら、毎日薬を飲んでいる状態でしたから。だから、未練はなかったです。逆に、この足でよくここまでやったなって思います」

 ただ、と言って、羽田が続ける。

「不本意でしたけどね、自分のプロサッカー人生は」




◆谷間の世代・初代主将、羽田憲司。 今も残る悔恨と鹿島コーチでの野心。(Number)





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