http://www.zakzak.co.jp/sports/soccer/news/20141119/soc1411191550001-n1.htm
ブラジルサッカー界にも師弟関係はある。ジーコの一番弟子となると、一番に挙げられるのが、鹿島アントラーズに来てくれたレオナルド氏だろう。
ジーコが週2試合というJリーグの過密日程に耐えられなくなってきたある日、当時住んでいた東京・世田谷の自宅でマッサージを受けている最中に電話が鳴った。「私はレオナルドと言います。ジーコにつないでいただけますか」。受話器を取ったのは私だった。
ブラジルでレオナルドという名前は、日本では「太郎」と同じぐらい多い名前である。ジーコに「レオナルドという方から電話です」とつなぐと、その会話が耳に入ってきた。
「オレのあとはオマエしかいない。やっと明るい光が見えてきた日本のサッカーの灯を消すわけにはいかない。ぜひ日本に、アントラーズに来てほしい」との熱弁を聞いて、やっとあのレオナルドの顔が浮かんだ。
日本が出場を逃した1994年W杯米国大会で活躍した現役ブラジル代表のレオナルドが日本に? まさかと思った。後にレオナルドは「前から日本にすごく興味があった。でも最後はやはりジーコからリクエストがあったから」と明かしてくれた。
ジーコとは強い縁があった。レオナルドがまだ16歳で、フラメンゴの下部組織時代のこと。「トップチームのサイドバックが負傷、その控え選手も負傷という事態が起きた。そのときジーコが自分を推薦してくれた。紅白戦では中盤でプレーしていたが、『彼こそサイドバックが適任だ』と」(レオナルド)
その後、世界のサイドバックにのし上がったレオナルドにとって、ジーコはまさに道を切り開いてくれた大恩人だったのだ。
ある日の練習前、ジーコに「今日、あとでつき合ってほしい場所がある」と言われたレオナルドは練習後、行き先を告げられないまま、市内の見知らぬ建物に連れていかれたという。
「建物のらせん階段を降りていくジーコのあとに付いていくと突然、建物中にものすごい絶叫が広がったのには驚かされた」とレオナルド。さらにこう振り返る。
「よく見ると、障害を抱えた多くの人たちがジーコの姿を見て、不自由な身体を必死に動かしながら歓迎していたんだ。一人の人間がこれほどまで人々を魅了するなんて。なぜか涙があふれて止まらなかった。今でもあの時のことをはっきり覚えているよ」
レオナルドがジーコに一生ついていこうと思った瞬間だったという。
鹿島の基礎はこの2人によってつくられた。カシマスタジアムに掲げられる「ZICO SPIRIT」という応援旗を見る度に、2人の絆の強さを感じずにはいられない。
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「PENSAMENTO POSITIVO」(ペンサメント ポジティーボ)はポルトガル語で「ポジティブシンキング」「頑張れ」の意。ジーコがよく色紙に書く言葉の1つ