日刊鹿島アントラーズニュース

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2017年9月16日土曜日

◆鹿島、MF田中稔也が右第5中足骨骨折で離脱へ…練習中に負傷、手術実施(サッカーキング)


田中稔也

 鹿島アントラーズは16日、MF田中稔也が右第5中足骨骨折と診断されたことを発表した。同選手は9月14日の練習で負傷し、手術を受けて約2、3ヶ月程度の加療予定と発表されている。

 田中は1997年生まれの19歳。鹿島アントラーズのユースから2016年にトップチームに昇格した。プロ2年目の今季は天皇杯で1試合に出場している。

 鹿島は明治安田生命J1リーグ第25節を終えて、18勝1分け6敗の勝ち点「55」で1位。次節は16日、アルビレックスとアウェイで対戦する。

鹿島、MF田中稔也が右第5中足骨骨折で離脱へ…練習中に負傷、手術実施

◇優しき脳外科医が描く、壮大な“仕返し計画” 小山記念病院・脳神経外科部長の河合拓也さん(zakzak)


河合拓也医師

★小山記念病院 脳神経外科部長 河合拓也さん(41)

 茨城県のJR鹿島神宮駅のホームから見える小高い丘の上に立つ小山記念病院は、サッカーJリーグ鹿島アントラーズの本拠地、同県鹿嶋市を代表する市の基幹病院。同市を中心に県南東部に広がる「鹿行地域」(鉾田市、神栖市、潮来市、行方市、香取市)のほか、稲敷市や千葉県香取市までを医療圏とし、14の診療科と224の病床でカバーしている。

 ここの脳神経外科部長の河合拓也医師は、中学から大学までラグビーで蓄えた体力を武器に、激務をこなす巨漢ドクター。

 「小学生の頃、かわいがってくれていた父の親友が、交通事故で急死したんです。その時から“生きるって何だろう”と考えるようになり、人の生死に関わる仕事に興味を持つようになりました」

 もう一つ理由がある。当時イジメに遭っていた時に、担任教師から言われた言葉だ。

 「仕返しをすればいい。ただ、“殴る”以外の手段があるんじゃないか?」

 そこで河合少年は考えた。医師になって、イジメた相手がいつか病気になった時に治してあげて、「ありがとう」と礼を言わせてやろう-と。

 壮大な仕返し計画の実現に向けて猛勉強をして医学部を卒業。数ある診療科の中から「忙しそう」という理由で脳神経外科を専門に選んだ。

 「忙しいほうが性に合っているんです」と笑いながら、目の前の仕事を片端から手を抜くことなく片付けていく。あえて専門性を追求せず、“オールマイティーに診療できる脳外科医”を目指してきたことが、今の職場で役立っている。

 救急車で運ばれてくる脳卒中も診れば、めまいや片頭痛も診る。月20件以上の手術もすれば、高齢者施設にも行く。まさに八面六臂(ろっぴ)の活躍ぶりだ。

 「若い頃に思い描いていた仕事ができていると思います」と満足そうに笑う。

 「心掛けているのは“オープンドア”。いつでも扉を開けておいて、出入り自由の診療スタイルがモットー」と語る河合医師。

 いじめられっ子だったからこそ持つ繊細さと優しさを、医療という形で地域に還元する河合医師。市民にとって、これほど頼りになる存在もない。 (長田昭二)

 ■河合拓也(かわい・たくや) 1976年、山梨県山梨市生まれ。2001年、杏林大学医学部卒業。同大医学部脳神経外科入局。同大学病院、公立阿伎留病院(現公立阿伎留医療センター)等に勤務を経て、13年より現職。日本脳神経外科学会、日本神経内視鏡学会専門医。趣味は「『ガチャガチャ』のおもちゃやおまけを集めること」

優しき脳外科医が描く、壮大な“仕返し計画” 小山記念病院・脳神経外科部長の河合拓也さん

◆デザインマンホール人気 全国名所や名産品モチーフ(茨城新聞)


石岡など県内4市 カード発行、納税返礼品も

大勢の人が訪れたデザインマンホールの展示会=県庁

全国の名所や名産品をモチーフにした「デザインマンホール」が人気だ。近年は「マンホーラー」と呼ばれる愛好家などの間で、各地の特徴的なマンホールを訪ね歩いたり、ふたの図柄を由来とともに紹介する「マンホールカード」を収集したりするのが、ひそかなブームとなっている。県内でも地元ならではの“ご当地マンホール”が増え、水戸市など4市がカードを発行。中でも、石岡市はカードの図柄となったマンホールのふた2種類の実物をふるさと納税の返礼品に採用し、注目を集めている。

▽火付け役
ブームの火付け役となったのは、国土交通省や日本下水道協会などでつくる「下水道広報プラットホーム」が昨年4月に配布を始めたマンホールカード。郵送などは行わず、指定の場所でしか無料配布しないのが、「マニア心」をくすぐり、カードを集めるためのツアーも人気となる。

今年8月までに全国191自治体が計222種類のカードを発行。県内でも水戸、石岡のほか、つくば、鹿嶋の4市が計5種類(石岡市のみ2種類)を発行。水戸市の図柄は、中央に市のマスコット「みとちゃん」が描かれ、つくば市は、筑波山と宇宙船などをモチーフとした。鹿嶋市は、Jリーグ1部・鹿島アントラーズのエンブレムを基調にデザインした。

各市とも配布は手渡しのみとしており、カードを手にした人たちが観光名所や飲食店などに足を延ばすことによる「経済効果」にも期待している。

▽予想以上
石岡市のカードは、「石岡のおまつり」を象徴する幌獅子(ほろじし)と、筑波山、市の花「ユリ」、市の木「シイ」の葉と実をモチーフにした2種類。現在、在庫切れか残りが少ないため、ともに増刷を予定している。

6月には、マンホール2種類の実物のほか、実物と同じ製法で造ったミニチュア版の「マンホールコースター」を市ふるさと納税の返礼品に追加。実物は各35万円と高価なため、寄付は実現していないが、「問い合わせも多く、予想以上の反響」(同市)。

一方、コースター(寄付額1万円)は実物と比べると安価なため、これまでの寄付は3件と上々の滑り出し。同市は「納税が集中する年末から年度末にかけて、申し込みが増えるのでは」と期待する。

▽ガルパンも
県庁2階の県民ホールで13日まで開かれたデザインマンホールの展示会。県内35市町村などが設置する計45枚のふたがずらりと並び、熱心な見学者が連日訪れた。

かっぱが描かれた牛久市のマンホールに見入っていた土浦市の主婦、大月瞳さん(32)は「実家のある牛久にマンホールを探しがてら、帰省してみたい」と笑顔を見せた。

デザインマンホールの魅力は徐々に認知されつつあり、大洗町も今月8日、人気アニメ「ガールズ&パンツァー(ガルパン)」にちなんだマンホールを設置。今後も県内各地でデザイン性に富んだマンホールやカードが増えそうだ。(小室雅一)


デザインマンホール人気 全国名所や名産品モチーフ


【参考】

◇骨肉種から復帰した不屈の18歳、その驚異のゴール(ニッカン)


 骨のがん「骨肉腫」という病魔を乗り越え、1年ぶりのピッチに戻ってきた。神奈川・日大藤沢高サッカー部3年、柴田晋太朗君(18)。

 6月23日付の当コラムで「骨肉腫と闘う18歳ファンタジスタ、未来へ紡ぐ言葉」( https://www.nikkansports.com/soccer/column/sakabaka/news/1844233.html )として紹介した。



■「晋太朗、ともに戦おう」

 その柴田君が9月10日、日大藤沢高サッカー場で行われた神奈川県U-18リーグ4部(K4)の日大藤沢高C-湘南高C戦に先発出場した。既に8月の練習試合、前節のリーグ戦で途中出場していたが、今回は「特別だった」と言う最初のホーム公式戦。誰もが待っていた、そのスタンドは活気にあふれていた。

 日大藤沢高だけに限らず、インターハイ予選決勝を戦ったライバル、東海大相模高も情報を聞きつけ、駆けつけた。「晋太朗、ともに戦おう」という横断幕を張り、応援歌を歌う。中学時代に所属したFC厚木ドリームスは、この日のために「威風堂々 柴田晋太朗 NEVER GIVE UP 俺たちは待っているぞ!」の横断幕を作成し、ホーム復帰戦を祝った。

 “サッカーファミリー”たちによる愛にあふれた舞台。試合中も途切れることなく、柴田君の名前を入れたチャントがピッチに響き渡る。そこまで応援されて発奮しないわけがなかった。

 右MFでプレーすると、1-0で迎えた前半35分だった。左サイドからゴール前右サイドへ流れたボールを受ける。中へ少し持ち出すと、ペナルティーエリア外から左足で巻いて、ゴール左上へ狙い澄ましたゴールを決めた。会場が大歓声に包まれる。まるでメッシのゴールを見るような芸術的な軌道だった。

 さらに1分後、ゴール前中央から右へ出たパスを受けると、再びペナルティーエリア外から冷静に左足でゴール右隅にグラウンダーのシュート。勢い余ってゴロリと1回転、ボールがゴールネットに突き刺さるのを見届けると、応援席に向かって笑顔で走った。

 後半2分にはCKのキッカーとして追加点を演出した。その後も動きは止まらない。懸命に走り、ボールを受けては、的確にパスをさばいてリズムをつくる。時には相手ボールをスライディングタックルで奪いにかかる。見ているこちらはヒヤヒヤするが、水を得た魚とはこのことだろう。終わってみれば、予定していなかったフル出場で2得点1アシストの大活躍。試合も5-0と快勝した。

 そんな姿に、佐藤輝勝監督は人知れず男泣きした。「スーパーゴールだよ! すばらしいよ、感動したよオレは。PKとかFKがあればって思っていたけど、フィールドゴールであんなすばらしいゴールはね…。いやぁー。よく頑張った。でも頑張ったってレベルじゃない、ホントにすごいよ」と興奮が収まらない。



■仲間が贈ったシューズ履き

 試合後にマイクを握りあいさつした柴田君は、再び応援歌を歌われると、感情を抑えることはできず涙を流した。昨年8月、神奈川県U-17選抜の韓国遠征から戻って以来、病床に伏した日々。さまざまな記憶が甦った。

 「長かったというよりは、本当にいろんな思い出があるなって。いい思い出もあるし、良くない思い出もあるけど、でも、そういうの全部ひっくるめて、何か帰ってきたんだなぁ…って。ようやくみんなと同じ場所に立てたんだなぁ…っていう、実感がわいていきて、いろんなことが込み上げてきて」

 この日履いていたスパイクは、4月30日の18歳の誕生日に、3年生全員が入院する都内の病院まで足を運んでプレゼントしてくれたものだった。

 「その日は関東(大会予選)の準決勝で(東海大)相模とやって負けちゃったんですけど、僕の病院に3年生全員が集まってくれて、これを持ってきてきれた。僕の誕生日史上、最もうれしい誕生日でした」

 仲間たちからの“待ってるぞ”のエールだった。その約束を果たし、さらにはその靴で復活を印象づけるゴールまで奪ってみせた。

 「ホームグラウンドでの試合で履くって決めていて。前回のK4の途中出場の時は履かなかった。先週からの練習からの頑張りでスタートからの座を奪えたので、今日履いて、このスパイク履いて何かしてやろうと思った。それで2点も決められて、みんなの思いがこもった得点になったのかなって思います」

 昨年12月の手術で、がんに冒された右上腕骨を削って人工骨に置換し、上腕三頭筋も一部を削った。その影響から右腕を上げることができない。そんなハンディもどこ吹く風で、サラリとこう話した。

 「(腕は)別にプレー中も気にしなくなった。逆に去年まではドリブルもできたし、何でもできたので正直、自分の最大の武器がよく分からない状態だった。だけど今日やっててドリブルができないなって。だからワンタッチ、ツータッチではたいて、最後に自分の長所であるキックの質で魅せるという武器が、明確になった」



■目指すは全国選手権のピッチ

 1年前に病気が発覚した時から、高校3年最後の選手権に出ることを目標に大病と闘ってきた。これからはAチームのピッチに戻る、という新たなチャレンジが待っている。今夏のインターハイで全国2位となり、全国制覇を誓う日大藤沢高の選手層は厚い。

 それでも来月からの県予選に向けて「目標は変わらず選手権のメンバーにまず入って。選手権のピッチに立つというのが僕の目標なので。正直、今日のようなプレーじゃあ全然入れないし、全然走力も足りないので、ここから頑張って上げていかないと、あそこの壁は越えられない。今日から、また明日から頑張って何とかあっちに、練習から食い込めるように日々努力していきたい」

 どんな苦境に立たされても、決して弱音を吐かない。その裏には、どんな思いがあったのか。おもむろに、こんなことを口にした。

 「僕は口にした言葉は、その通りになると思っています。もう戻れないとか、もうサッカーができないとか絶対に言わない。うそでもいいから絶対に戻るって、自分にいい聞かせないといけない。人間にはナゾの力があると思います」

 誰もが驚く奇跡的な復活の裏には、周囲の献身的な支えがあってのことだろう。それでも本人がぶれることなく自らの信念を貫き、病気と向き合ったことは大きかった。

 6月に語ってくれた「未来へ紡ぐ言葉」。その言葉を実践すべく、柴田君は自らの道を歩んでいこうとする。どんな未来が待っているのか-。まだまだこの物語には先がある。

【佐藤隆志】(ニッカンスポーツコム/サッカーコラム「サカバカ日誌」)











骨肉種から復帰した不屈の18歳、その驚異のゴール

◆【中溝康隆J連載】キングカズはエスパルス決定? ジーコはジェフ入り? 日本サッカー史を左右したそれぞれの決断(サッカーキング)




◆Jリーグ創世記の意外!?な事実

「中村俊輔と小野伸二がJ1で2325日ぶりに同じピッチに立ちました!」

 先週末、北海道コンサドーレ札幌vsジュビロ磐田の試合でDAZNの実況アナウンサーは興奮気味に紹介していた。以前、中村がJリーグ公式Twitter企画のQ&Aで「Jリーグの中では、こいつはセンスがずばぬけていると思ったのは小野伸二だけです」と答えた天才との再会。そんな彼らも気が付けば39歳と37歳のベテランフットボーラーである。

 思えば、98年フランス・ワールドカップでは21歳の中田英寿がチームの中心に君臨し、まだ10代の小野と中村が代表に呼ばれ、小野がW杯のメンバーに入るなど、当時は彼ら新世代の出現こそ93年に開幕したJリーグ効果と言われたものだった。

 今から24年前、1993年とはどんな時代だったのか? 大相撲では若貴フィーバーに加え、曙が史上初めての外国人横綱に昇進。全日本柔道でまだハッスルポースを決める前の小川直也が5連覇を飾り、4月30日には数年後に大人気となるK-1がひっそり初開催。プロ野球界では巨人のルーキー松井秀喜が5月の大型連休中にプロ初アーチを放った。

 そして、93年5月15日にヴェルディ川崎vs横浜マリノスの一戦でJリーグが開幕したわけだ。その当時に出版されたサッカー関連の書籍は数多いが、中には今読むと非常に際どい内容のものも多い。というわけで、開幕直前の93年3月20日に発行された一冊の本を今回は紹介しようと思う。『Jリーグここまで暴露(バラ)せば殺される』(あっぷる出版社)、著者はJリーグ担当記者で定価880円だ。



◆カズー?の陰にナベツネ!?

まず第1章から凄い。「オール丸ごと“カズー”」である。えっカズー? そう、なんとこの本は三浦知良のことを「カズ」ではなく、一貫して「カズー」と表記している。それが、Jリーグが開幕してどこかの段階で、カズーはカズへとなったのである。

 興味深いのが、Jリーグ開幕前年に読売クラブと母体ゼロから新チームをスタートさせる清水FCエスパルスの間で熾烈な25歳のカズ争奪戦が繰り広げられている事実だ。

 なにせ92年4月22日、東京のホテルニューオータニで催された第27回日本リーグ祝勝会で「三浦君、金ならいくらでも出す。読売の三浦でいてくれ」とどこかで聞いたことあるような発言をしたのは読売新聞の渡邉恒雄社長。あのナベツネさんがここまでどっぷりサッカーにも関わっていたところに時代を感じるが、言葉通りに4月28日にはカズ……じゃなくカズーに年俸1億円が提示される。

 このニュースを耳にした巨人の4番・原辰徳は「まあ…サッカーと野球は比較できないからね。高いとも安いとも言えないよ」と表面上は平静を装ったが、自身より先に9歳下の若者が1億円の大台を突破したことにショックを受けたという。

 だが、清水サイドも一歩も引かずガチンコの争奪戦が勃発。カズーの保有権を50%持つ実父、納谷宣雄氏が清水の相談役を務め、兄・泰年の結婚式後にはホテル客室で宣雄氏とエスパルス関係者も交え交渉(というか説得)するも、読売のサッカーに可能性と手応えを感じていたカズーは一歩も譲らず平行線を辿る。

 日刊スポーツは「カズー 清水移籍へ」と報じ、やがてフジテレビ社長・日枝久氏(清水FCの経営会社であるエスラップコミュニケーションの筆頭株主テレビ静岡はフジの系列局)も巻き込み一大騒動となっていくが、8月に国立競技場で行われる清水とブラジルのサントスFCの試合のチケット広告で、なんと「三浦知 移籍決定。清水 東京初登場」と出てしまう。

 この試合のスポンサーはフジテレビ。まるで「私は既に数十人のレスラーを確保した」なんつってUWFオープニングシリーズのポスターでかました“過激な仕掛人”新間寿(しんまひさし)を彷彿とさせる、あまりに常識はずれのフライングに呆れたカズーは、自らの意志を貫き読売残留を決めたのだった。もしも、この時キングカズが周囲の言葉に従い清水を選ぶような従順な男なら、50歳の今は現役選手ではなく、どこかのクラブで監督にでもなっているはずだ。

◆神様が単身赴任生活!?


 そして、もうひとり。のちの日本サッカー史を大きく変えた移籍劇があった。神様ジーコである。

 引退してブラジルのスポーツ大臣を務めていた男が、91年5月にいきなり住友金属へ。なんでブラジルの元10番がW杯に1度も出たことのないサッカー後進国に行くのか……。世界を唖然とさせた決断だが、最初にジーコの代理人が売り込んだのは東日本JR古河SC(のちのジェフユナイテッド市原)だったという。

 提示された希望金額は総額150万ドル(当時のレートで年俸50万ドル=7000万円、契約金100万ドル=1億4000万円)。しかし、この約2億円をJリーグ開幕時には40歳になっているジーコに払う金額としては妥当ではないと獲得見送り。次に代理人が接触したのが旧日本リーグ2部から唯一、Jリーグに選ばれた住友金属だった。

 来日した奥さんが子どもたちと選んだ住まいは茨城県の鹿島町ではなく、東京世田谷の高級マンション。なんとジーコは鹿島町で単身赴任生活をしたという。

 サッカー界のスーパースター、神様とまで呼ばれた男が地球の裏側までやって来て、住友金属の独身社員寮で過ごした日々。妙に親近感がわくエピソードだが、ジーコ加入の2年後、「ブラジル全土を探してもこんな素晴らしい施設は見つからない」と神様も絶賛する約19億円を投じた豪華クラブハウスと天然芝3面、人工芝1面の練習グラウンドがお披露目。さらに約82億円をかけた日本初の全席屋根付きのカシマサッカースタジアムも完成する。すべてはジーコの単身赴任生活から常勝アントラーズは始まった。

◆日本のサッカー史に名を残す二人の決断

三浦知良とジーコ。Jリーグ創世記の象徴だった二人の動向が現在のサッカー界にもたらした影響は大きい。仮に清水が全盛期のカズーを手に入れたら、圧倒的なフジテレビ資本を引き出して日本を代表するビッグクラブとして長らく君臨していたかもしれない。

 そして、ジーコが鹿島ではなく市原で単身赴任生活をしていたら、その後のJリーグのパワーバランスは大きく変わり、もちろんヴェルディとアントラーズのチャンピオンシップPK唾吐き事件は存在せず、のちに日本代表監督に就任することもなかったのではないだろうか。

 今思えば、二人の決断は日本サッカー界の運命を左右するターニングポイントだったのである。

文=中溝康隆(プロ野球死亡遊戯)

【中溝康隆J連載】キングカズはエスパルス決定? ジーコはジェフ入り? 日本サッカー史を左右したそれぞれの決断

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