日刊鹿島アントラーズニュース
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2016年2月6日土曜日
◆【THE REAL】植田直通の潜在能力…リオ経由ロシア行きを描く魅惑の大型センターバック(CYCLE)
http://cyclestyle.net/article/2016/02/05/32331.html
文化も習慣も気候も異なるカタールへ飛び立ったのが1月2日の深夜。魂を削られるようなプレッシャーとも戦いながら、18日間で延長戦を含めて5試合、計480分間にわたってU‐23日本代表の最終ラインを死守し続けた。
肉体的にも精神的にもすり減っているのではないか。心身に蓄積した疲労を気遣う鹿島アントラーズのスタッフに対して、1月31日深夜に羽田空港へ降り立ったDF植田直通はこんな言葉を伝えている。
「オフはいりません」
一夜明けた2月1日。ともにU‐23アジア選手権を戦ったGK櫛引政敏、MF三竿健斗とともに、植田は空路で宮崎へ移動。1月中旬からキャンプを行っていたアントラーズに合流し、翌2日にはロアッソ熊本とのニューイヤーカップで途中出場を果たした。
昨年12月上旬から、中東遠征や石垣島合宿を含めてほぼ無休で突っ走ってきた。疲れがないはずがない。それでも、1994年10月生まれの21歳は自らに言い聞かせるように語気を強めた。
「自分は若いので、休む必要はないと思っています」
5大会連続で出場してきた五輪の歴史が、今回ばかりは途切れるのではないか。芳しくなかった下馬評を劇的な勝利の連続で覆し、23歳以下のアジア王者の肩書とともに獲得したリオデジャネイロ五輪への切符は、植田の存在を抜きには語れない。
難敵・北朝鮮代表と対峙した1月13日のグループリーグ初戦。開始わずか5分にセットプレーから右足ボレーで先制弾を鮮やかに叩き込み、仲間たちをプレッシャーから解き放ったのが植田だった。
「初戦ということでみんな緊張していたし、このままじゃいけない、セットプレーで僕が必ずゴールを奪ってやろうと思っていました。実際にゴールできて、僕自身もびっくりしましたけど」
照れ笑いとともに振り返った殊勲の一撃は、序章にすぎなかった。日本が苦手としてきたロングボールを、大会を通して最終ラインで跳ね返し続ける。186cm、77kgの巨体が、何度もたくましく映った。
■ワニのように相手を仕留めたい
ちょうど3年前。熊本県の強豪・大津高校からアントラーズの門を叩いた植田は、入団発表の席で自らを獰猛なワニにたとえて周囲を驚かせた。
「ワニは獲物を水中に引きずり込んで仕留める。自分も得意とする空中戦や1対1にもち込んで、相手を仕留めたい」
そろってアントラーズに入団したFW豊川雄太(現ファジアーノ岡山)は、大津高校での3年間で植田がワニになった瞬間を何度も目撃してきた。
「アイツが守備で負けたのを見たことがない。大学生でもプロでも、みんな吹っ飛ばしていた」
ともに日の丸を背負い、リオデジャネイロ行きをかけて臨んだカタールでの戦いでも、豊川は何度もデジャブを覚えたはずだ。高さと強さ、そして50mを6秒1で走破する速さを前面に押し出し、相手フォワードを餌食にし続けた植田はしかし、個人的にはまったく満足していなかった。
「(五輪出場権獲得と優勝は)嬉しかったことは嬉しかったですけど、韓国との決勝戦で2失点を許しているので、僕自身はあまり喜べなかったですね」
10チームを超えるJクラブが争奪戦を繰り広げた逸材が、待望のJ1デビューを果たしたのは2014年4月26日。出場停止だった青木剛に代わってセンターバックに入り、王者サンフレッチェ広島から奪った3-0の完封勝利に貢献した。
■1対1では誰にも負けたくない
2014年シーズンは最終的に20試合、1542分間にわたってピッチに立った。しかし、さらなる飛躍が期待された昨シーズンは12試合、839分間に終わる。サンフレッチェから加入した元韓国代表のファン・ソッコにポジションを奪われ、セカンドステージに至ってはわずか2試合の出場にとどまった。
大津高校に入学した直後の2010年5月に、それまでのフォワードからセンターバックに転向。同時に自身のボディに宿る稀有な身体能力に気づいてから、こんなポリシーを貫いてきた。
「1対1では誰にも負けたくないし、負ける気もしない。自分が相手のエースを潰せば、チームも勝てると思っている」
生粋の九州男児は性格も一本気で、ゆえに相手フォワードとの駆け引きや周囲との連携で課題を指摘されてもきた。もっとも、ワールドカップ・ブラジル大会にも出場したファン・ソッコとのレギュラー争いで、後塵を拝してしまった理由はもうひとつある。
野武士をほうふつとさせる風貌からはなかなか想像できないが、試合中に犯したミスをどうしても引きずってしまう。心が不安定な波を刻む時間が長引くあまりに、プレーまでもが袋小路に入ることも珍しくなかった。
世代交代が急務だったチーム事情もあって起用され続けてきたが、常勝軍団再建を託されて昨夏に緊急就任した石井正忠監督のもとでは、何よりも眼前の試合で勝利することが求められる。ゆえにファン・ソッコが選択されてきた。
オフにはサガン鳥栖やヴィッセル神戸から移籍のオファーが届いた。後者との交渉では名将ネルシーニョ監督からテレビ電話越しに熱いラブコールを受けたが、ポジションを失った状況のままで新天地に出場機会を求めることは、これまでの真っすぐな生き様に背くものだった。
2016年もアントラーズでプレーすることを決めてから、不完全燃焼に終わった昨シーズンをあらためて振り返ったのだろう。
「鹿島で試合に出られなければ、(リオデジャネイロ五輪の)代表に選ばれる可能性も低くなる」
危機感を抱きながら探し続けた答えは、カタールでのプレーを通して見つけることができる。たとえば、自身があげた千金のゴールを守り切った北朝鮮戦における守備に、植田はあえてNGを突きつけている。
「ラインがズルズルと下がってしまったので」
ロングボールを多用し、攻撃陣のフィジカルの強さを生かして無骨に攻めてくる相手に対しては、勇気をもって最終ラインを高く保たなければならない。自分たちのゴール前で不測の「事故」が起こる確率を、可能な限り低く抑えるためだ。
植田と同じく186cmの岩波拓也(ヴィッセル)の両センターバックが防波堤となり、試合を通して北朝鮮に主導権を握り続けられながらも何とか白星は手にした。昨シーズンまでの植田ならば勝利の喜びよりも、ラインをコントロールできなかった事実のほうが上回っていたかもしれない。
しかし、カタールにおける植田は違った。北朝鮮戦の映像を何度も見直し、ミーティングで仲間たちと忌憚のない意見をぶつけ合い、スタッフにも助言を求めながら、同じ過ちを絶対に繰り返さないと自らに言い聞かせた。
「中東勢と戦うときには、ああいう(北朝鮮のような)相手が多くなるので。毎試合のように課題が出たけど、それを克服しながら戦うことができた。試合を重ねるごとに、成長できたかなと」
韓国との決勝戦では大会6試合目にして初めて先制を許し、後半開始早々には追加点を叩き込まれた。1点目はこぼれ球に対してシュート体勢に入った相手への植田の寄せが遅れ、2点目は岩波とともに左サイドにつり出されて、ゴール前の守りが手薄になった隙を突かれた。
それでもミスの連鎖を瞬時に断ち切り、次の失点を防ぐために自らを鼓舞し続けるメンタルの強さが植田には宿っていた。
「後半になれば相手の運動量が落ちてくることは、スタッフの分析でわかっていたので。僕たち守備陣がしっかりと我慢していけば、絶対に攻撃陣が追いつき、逆転してくれると信じていました」
■言葉よりもプレーで語る
ロシアのプロ格闘家エメリヤーエンコ・ヒョードルを尊敬している。けがを抱えていても黙して語らず、何事もなかったかのように勝利を収め続ける背中に、真の男の強さを覚えていたのだろう。
憧れのヒョードルと同じく、言葉よりもプレーで語ることをモットーとしてきた植田は、決して口数が多いタイプではない。年齢に不釣り合いなストイックさをも漂わせていた21歳はしかし、凱旋した羽田空港では質問者の目をしっかりと見すえ、胸を張りながら自らの思いを熱く、はっきりと伝えていた。
何よりも精悍さを増した表情から放たれるオーラには、自信がみなぎっている。心のなかに巣食っていた「弱い自分」と決別し、五輪切符獲得とアジア制覇という結果を残したカタールでの日々が触媒となって、植田のなかでくすぶっていたポテンシャルが一気に開放されている。
そう感じずにはいられなかったからこそ、植田へ単刀直入に質問をぶつけてみた。出発前と帰国後で大きく変わったのでは――。ちょっとはにかんだ笑顔とともに、今シーズンにかける決意が返ってきた。
「年の初めにアジアのチャンピオンを取れたことはすごく大きなことですし、いいスタートが切れたと思っていますけど、本当に大事なのはこれから。(五輪本番は)オーバーエイジもありますし、再び競争も始まると思うので、スタメンを張れるように鹿島でまずはしっかりと結果を出したい」
■リオからロシア、カタールへ
小学校時代はテコンドーとの二刀流に挑み、3年生にして全国大会の小学生部門で3位に入り、世界大会の舞台にも立った。実は両親から半ば強制されていたテコンドーに嫌悪感を覚えていて、中学校進学を機に「サッカーに専念したい」と晴れて一本に絞り、いま現在に至っている。
もっとも、対人における無類の「強さ」と激しい「闘争心」のルーツとして、いまでは植田のなかでテコンドーはポジティブに位置づけられている。
出場機会こそ訪れなかったものの、ハビエル・アギーレ前監督のもとで臨んだ昨年1月のアジアカップ代表に大抜擢された。バヒド・ハリルホジッチ監督が昨年5月に国内組限定で招集した、日本代表候補合宿にも植田は名前を連ねている。
まだまだ粗削りであることは否定できない。しかし、それらを補って余りある世界規格の魅力が植田の一挙手一投足から伝わってくることは、A代表の指揮官がそろってリストにその名前を書き込んだ事実が物語る。
そして、誰よりも植田自身が、リオデジャネイロ経由で2年後のロシアや6年後のカタールを目指すルートを、サッカー人生の青写真に描き加えている。
「五輪だけじゃなくて、やはりA代表を目指さないといけない。すでにワールドカップ予選も始まっているので、そういう戦いにも自分が関わっていけるように。アジアとJリーグとではまったくレベルが違うと思うので、気持ちを完全に切り替えて、鹿島で試合に出られるようにアピールしていきたい」
カタールで仕留めた獲物はちょっと物足りなかった、とも受け取れる頼もしい言葉。新たな獲物をJ1のストライカーたちに狙い定めながら、日本サッカー界が長く待ち焦がれてきた大型センターバック候補は、無限の可能性をダイナミックなプレーで体現していく。
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