サッカー選手の岩政大樹氏に聞く
予防医学者 石川善樹氏
予防医学者の石川善樹氏がさまざまな分野のエキスパートと対談しながら、脳とうまく付き合う方法を探る連載シリーズ。第16回のお相手は、サッカー選手の岩政大樹氏です。東京学芸大学で数学の教員免許を取得した後、鹿島アントラーズに入団し、センターバックとして日本代表でも活躍。その後、タイやJ2のチームを経て、現在は社会人チームの選手兼コーチを務めるなど多彩な経歴の岩政氏。「うまくない」と自ら認める選手がなぜプロのトップレベルで活躍できたのか、新たな道に挑戦し続ける理由は何か、熱く語っていただきました。
母に学んだ「作り出す」仕事の尊さ
石川 先日、ある会合で岩政さんのお話を聞く機会があり、非常に感銘を受けました。独自の哲学というか信念はどこから生まれたのか、ぜひ詳しくお話をうかがいたいと思い、今回の対談をお願いしました。
岩政 はい、よろしくお願いします。
石川 まず、ルーツからお聞きしたいのですが、たしか山口県の周防大島のご出身ですよね。実は私も瀬戸内海の生口島という島の出身なんですよ。
岩政 ええっ、ほんとですか!? 偶然ですね。
石川 島から出るって、都会の人には想像もつかない大変なことですよね(笑)。
岩政 そうですね。同級生なども大学や就職で出て行くとしても、せいぜい広島くらいまで。東京なんて遠い遠い別世界でした。周りは農家や自営業などでしたが、うちは両親とも小学校の教師をしていたので、仕事というと教師のイメージしかなかったですね。
石川 ご両親はどんな方だったのですか。
岩政 2人とも仕事熱心で、よく教育論を戦わせていましたね。母はみるからに情熱家で、熱く語る人。父は冷静に分析するタイプで、当たり前のことを疑う姿勢を学んだ気がします。母の言葉でよく覚えているのは「教師とは何かを作り直すのではなく、何かを作り出す仕事だ」ということ。自分たちの仕事に誇りを持っていて、子供心にあこがれというか、自分もそういう風になるのかなあと自然に思っていましたね。
石川 サッカーはいつごろから始められたんですか。
自分の持てるものでいかに勝つか
岩政 小学生の頃から兄と2人で、校庭でボールを蹴って遊んでました。実は隣の町にサッカーチームがあったのですが知らずにいて、4年生になって初めてチームに入りました。中学校では部活にサッカーはなく、陸上部で活動しながらクラブチームで土日だけサッカーをやる生活でした。
石川 改めて振り返ると、その頃はどのように考えながら練習されていましたか?
岩政 そうですね。3学年合わせても14人しかいなくて、練習も毎回4~5人しかそろわない。当然弱いんですが、このチームをどうやって勝たせるか、いろいろ自分で考えてましたね。大きな町のクラブに対抗意識を燃やしていたのかもしれません。
石川 なるほど。たとえば、どんな戦略ですか?
岩政 僕たちのチームは練習量が半端ではありませんでした。また、みんな野球部やバスケットボール部など、他の部活との掛け持ちだったので、運動量だけは自信があった。そこで、格上の相手との試合では、後半途中まで粘ることに専念したら「よし、ここから俺たちの試合だー」って走り回るんです(笑)。作戦が見事はまって、県内の大会で優勝したこともありましたよ。
石川 へえー、すごいですね!
岩政 大学やプロに入って周りの選手に聞いても、90分トータルで戦略を考えてる人はあまりいませんでした。僕はそもそもサッカーがうまい方ではなかった。自分の持っているもので、相手にどうやって勝つか。誰でも考えてると思ってましたが、意外とみんなやってないんですね。
石川 自分の強みに関連して、先日の講演で面白いなあと思ったのは、アマとプロでは味方のカバーに対する考え方がまるで違うというお話でした。そこに岩政さんの哲学が凝縮されていると思うので、あらためて聞かせていただけますか。
岩政 はい。プロの世界はチームでの戦いの前に、試合に出るためのチーム内での個人の戦いがあります。だから、監督も個人の責任を明確にしようとします。たとえば、僕はディフェンダー(DF)なので、相手チームのフォワードの選手をマークします。それで、味方のDFが別の相手フォワードのマークを外してしまったとします。そのとき、僕が味方のカバーに行っている間に、本来は僕がマークすべき選手にボールが渡り、ゴールを決められたら誰の責任になるか。
石川 難しいところですよね。
だれを見てサッカーをするのか
岩政 プロの世界でこれは、僕の責任になりがちです。監督には「マークを外されたら、その選手が悪いんだから放っとけ。お前はお前の相手だけ見てればいいんだ」と言われたこともありました。監督の言うことは絶対ですから、そういう判断をする選手の方が大半です。でも僕はその考え方がすごくイヤだった。一体、だれを見てサッカーをやるのかと思ったのです。
石川 たしかに、監督を見る人もいれば、メディアを意識する人もいるでしょうね。
岩政 そうです。僕も最初は悩みました。仲間を助けたいと思う半面、監督によく思われないと試合に出られない。それでは意味がない。でもある時、こう考えて割り切ることにしたんです。僕はやはりチームメートを見てサッカーをしよう。味方の選手がそれで気持ちよくプレーできて、僕のことを信頼してくれれば、それがサポーターや監督にも理解されて、自然と試合に出られるようになるだろうって。
石川 すごく深いお話ですよね。ビジネスの世界でも今の時代は、顧客目線が強調されているものの、実際には上司の方ばかり見てる人が多い。仲間のために働くという視点は欠落しているんじゃないでしょうか。仲間が困っていたら助けるんじゃなくて、むしろ「近づかないようにしよう」と保身を考える人も多い。
岩政 試合後のインタビューを見てるとわかりますよ。誰を見てしゃべってるか。サポーターの評判を気にして、言い訳めいたことを言う選手もいます。僕はチームメートを意識して話すし、他の選手のインタビュー記事もよく読みます。こいつは今、何を考えてるのか、コンディションはどうなのか。チームメートの目が気になるし、みんなのことを何とかしたいと思うのです。
石川 そこまで仲間のことを考える人ってあまりいないですよね。
岩政 そうかもしれません。チームの中には1年間まったく試合に出られない若手選手もいます。たいてい、先輩はそういう選手には目もくれないで、試合に出られそうな選手をかわいがるんです。でも僕はそういうのが嫌いで、目立たない選手を何とかしたい、引っ張り上げてやりたいと考えてしまうんです。だから若い選手が僕のことをいろんなところで話してくれるんだと思います。
石川 そういえば、後輩の選手や他のチームの選手が岩政さんを評するとき、「賢い」という言葉を使われることが多いと思うんです。人から「賢い」と言われる人って、実はなかなかいないと思います。
試合中、すべての選手の心情を考える
岩政 うーん、僕自身はそう思ってないんですけどね。考える量は多いと思います。細かいところまで。試合中も控えを含めてすべての選手の立ち位置や表情、心情とかをざーっと考えてる。そんなことをやってる人はいませんから(笑)。あるいは、若手に声を掛ける時、ただ単に「がんばれ」とか「思い切ってやれ」じゃなくて、そいつがプロの世界で生き残るには何が必要か、相手の立場になって考えて声を掛ける。それがピタッとはまると「賢い」となるのかなあ。
石川 ビジネスのシーンで上司が「もっと考えてこい」と指示することがあります。これって、サッカーで言うと「ちゃんと点を取ってこい」というのと同じで、指示になってないですよね(笑)。
岩政 「もうちょい考えろよ」で通用する選手もいるし、その方がいい選手もいます。よくベテラン選手が若手に吠えることがあるんですが、たいていは自分がイライラしてるだけ。それは若手にも伝わります。吠えること自体が悪いのでなく、誰の視点で言ってるのかが大事だと思うんです。僕は相手をこっち側に引き込みたい、感情をもっと引き出してやりたいと思ってやっている。相手も時間がたつと理解できて、「あの時はありがとうございました」と言ってくれる。それはうれしいですよね。
石川 そこまでいくと、もはや教師ですね(笑)。
岩政 そうですね、ルーツはそうですから(笑)。
石川 先ほど、自分はうまくないとおっしゃっていましたが、もともとプロになる気はなくて、教師になるつもりで学芸大に進学されたんですか。
岩政 はい。誰も僕がプロ選手になるとは思ってなかったし、僕自身もそう自覚してました。東京に出たのは全国レベルを知りたかっただけなんです。ただ、僕がいた4年間、たまたま学芸大はタレントがそろっていて強かった。そこで学生選抜に呼ばれて、初めてプロを目指していいのかなと考え始めたのです。
石川 最初から目標が見えていれば、それに向かって人は成長していきやすいかもしれませんが、目標を持てない場合にどうやって自分を伸ばしていけるか。この春、就職した新入社員の方は、自分が何をしたいかなんてわからないし、夢や目標も持ちにくいと思うんですね。そういうとき、与えられた場所でちゃんと考えてやる岩政さんのような生き方が参考になると思います。
岩政 小さな町で育ったのがよかったのかもしれません。地域活動が盛んだったし、生徒が少なかったので、部活も生徒会も何でもやりました。両親が厳しかったので、勉強も手伝いもサボると怒られましたし。とにかくいろんなことを一生懸命やった。それが何につながるのかなんて考えずに。今考えると、一生懸命やる習慣が身に付いていることが、僕にとってすごく貴重だったと思いますね。
得意に逃げると実力はつかない
石川 なるほど。僕はよく、「得意に逃げない」という言葉を使うんです。好きなことはみんな一生懸命やるけど、嫌いなことや苦手なことを避けてばかりいると、本物の実力はつかない。研究の世界でも、ビジネスの世界でも、スポーツでも同じですね。
岩政 サッカー選手は引退した後、クラブのコーチに就いたり、解説者になったりしますが、やっぱりその仕事に真摯に向き合い、一生懸命やる人がうまくいきますね。その習慣が付いてないと、こなすだけになる。子どもを教えるのにどれだけ準備しているか、解説するのにどれだけ調べているか。仕事のレベルの差は如実に表れます。
石川 先日の講演でもう一つ、なるほどなあと思ったのが、トレーニングのお話です。成果が出るまで、かなりロングスパンで考えていますよね。
岩政 何でもそうだと思うんですが、1年目はパッと変化が表れて、2年目からは停滞期が続くことが多い。この我慢の時期はつらいのですが、僕の経験上、何年かかっても耐えていれば必ず花開く日が来ます。誰にでも。僕も若いうちは信じられませんでしたが、今はもう法則だと思っています。
石川 そこまで確信するに至ったのは、どんな経験からなんでしょう。
岩政 僕は鹿島に入るとき、プロのスピードに早く慣れて試合に出ることを目標にしていました。それが1年目の後半から出られるようになり、2年目にはレギュラーに定着することができて、そこから何をプラスしていけばよいか見えなくなってしまったのです。それでいろんな方に相談したり、本を読んだりした結果、体の動かし方を根本から変えることにしました。
石川 具体的に言うと、どういうことですか。
岩政 一言でいうと、体の動かし方をスムーズにするということです。どの競技でもトップアスリートの動きはみな美しいじゃないですか。それは適正な順番で、適正な筋肉を動かしているからです。ところがサッカーは動きが多様すぎて、何をどうトレーニングすればよいかが難しい。結局、パスやヘディングといった一つ一つのプレーでなく、根本から変えれば、枝葉の動きも変わる。そこにたどり着いたのです。
石川 その成果が出るまでに時間がかかったというわけですね。
岩政 ええ。24歳くらいからいろいろ試してみて、ようやく鹿島を退団する32歳くらいになってから、いろんなことがつながったなと実感しました。僕の場合、サッカーがへたというよりも、生まれつき体の動かし方が悪かっただけだと。逆に天才と言われる選手は生まれつき体の動かし方がうまいだけであり、僕は後天的に体に覚え込ませればいいだけだとわかったんです。これをやってなかったら、この年までサッカーを続けられなかったでしょうね。
石川 面白いですね。研究者も最初のうちは問題を解く力を鍛えるのですが、ある段階から問題そのものを作ることが求められるようになります。解くときにはロジカルに考えるのですが、問題を作るためにはロジックが邪魔になる。だからロジックをどれだけ捨てて、大局的に物事を見られるかが問われるのです。普通の人が疑問に思わないことを疑問に思う、ある意味でバカになる必要があるんですね。
岩政 へえー、それも面白い話ですね。
石川 僕もそこの切り替えにかなり苦しみました。同じ研究者でも、根本から考えることができる人とできない人がいます。岩政さんはそれができる人なんだと思いますね。
自分だからできることをやりたい
岩政 いや、僕も30歳を過ぎて体の根本はできたと思うのですが、頭の根本が固まってしまっていました。このまま引退したら、まずいんじゃないかと思い始めて、引退までに鹿島を出ていろんな経験をしよう、結論は同じかも知れないけど、鹿島とは違う見方で考えられるようになろうと決めました。それがプロの第2章です。
石川 ビジネスパーソンもセカンドキャリアを真剣に考えなきゃいけない時代になっています。岩政さんが一つの環境にずっと身を置くのは危ないと思った感覚は参考になると思うのですが、もう少し詳しく教えてもらえますか。
岩政 鹿島にいようと思えばいられたとは思いますが、一番は自分だからできることをしたい、という思いでしょうか。言い換えると、岩政大樹というオリジナルを作っていきたいということです。この世界では色がないと誰も仕事をくれません。僕自身も与えられた仕事に対して返せるものがなさすぎるのはイヤでした。何を聞かれても「それは鹿島のことでしょ」となりますから。
石川 鹿島だからできたのか、岩政だからできたのか、ということですか。
岩政 まさにその通りです。僕自身、鹿島だからできたことがあると思っていて、外でどれだけできるか不安でした。それが意外にできたんですね。鹿島でやったことが役立っている。でもそれは外に出ないとわからないことでした。
石川 外に出る選択肢はいろいろあったと思うのですが、どう考えたのですか。
岩政 一番の基準は、鹿島の10年とは全く違う経験をすることでした。思い付いたのは、海外で外国人とプレーすることと、国内で鹿島のようにできあがったチームでなく、僕が参加して作っていくチームでプレーすることの2つ。普通の選手はJ1→J2→海外の順で考えますが、僕は逆から行こうと。さらに、海外の中でもみんなが行きたがる欧州でなく、南米かアジアを考えて、結局タイのチームに移ることになりました。
タイでも厳しく接して信頼得る
石川 タイはどうでしたか?
岩政 生活は心地よかったのですが(笑)。サッカーはプロフェッショナルとは言えなくて、イライラは募りました。練習もふわーっと来て、ふわーっと楽しんで終わる。そもそも遅刻する選手が多くて、日本とは全く違いました。
石川 タイってゆったりしたイメージがありますよね。
岩政 僕にはプロとはこうだという思いがありますが、向こうは頭ごなしに否定してもついてこれません。タイに行く前にも「叱ってはダメ、現地に順応しろ」と言われました。ただ、僕はここでも、あえて逆をやろうと考えたんです。自分の基準を下げずに、彼らの方を引き上げていこうと。1年間やってみて、最初は衝突もありましたが、最後はサポーターもチームメートも認めてくれました。これはすごい自信になりましたね。
石川 その経験が次につながったわけですね。J2のファジアーノ岡山に移って2年間プレーされましたが、これはどういう経緯だったんですか。
岩政 岡山は2009年にJリーグ入りをしたばかりの新しいクラブで、僕が移る時はJ2で中位くらいの成績でした。クラブの編成をしている方から、J1を目指すには突き抜ける力がいる、岩政さんにはDNAを作ってほしい、単にセンターバックがほしいのではなく、岩政大樹というプレーヤーがほしい、とまで言っていただき、ありがたくお受けしました。実際、一選手ではやれないようなことまでやらせてもらえました。普通は監督がすべてを仕切るのですが、監督から「お前に託すから」と言われて、ミーティングを選手だけで開いたり、色々な形の発信をさせていただいたりしました。
石川 すごく信頼されていたんですね。単に助っ人として行くのと、DNAまで変えるのとでは、どこが違いますか。
岩政 助っ人の場合は、自分の立ち位置は変えずにチームに貢献しようとする。指針を示し、ついて来られる人だけついて来ればいい、自分がいる間だけ強ければいい、という感じですね。一方、DNAを変えるというのは、自分が去ってもチームが受け継いでいくべきものを植え付ける。そのためには、選手の性格や心情、人間性にまで深く入り込んで、自分が伝えたいことを理解してもらうことが必要だと思います。僕の場合は勝負の厳しさとか、機微といったものを伝えようと努力しました。
石川 2年目にはJ1に上がれそうなところまで行ったそうですね。
岩政 はい。プレーオフに進出してあと1勝のところまで行きました。結局、J1には上がれませんでしたが、それよりも将来のチームのために大切なことを伝えられたのではないかと思っています。
石川 転職というと、以前の会社でのポジションを振りかざす人が多いですが、岩政さんはゼロから相手にぶつかっていくタイプですよね。でもそれって面倒じゃないですか。
相手のことを考えていれば必ず通じる
岩政 その方が相手に深く入り込めるんです。最初はうるさいなあとか、暑苦しいなあとか思われるんですが(笑)、最後は感謝される。それが僕のやり方なんだなと最近わかってきました。相手のことを考えて接していれば必ず通じる、それって一番豊かなことじゃないかなと思いますね。
石川 今もまた、新しいことに挑戦していますよね。東京ユナイテッドFCというチームは全員が社会人チームだそうですね。
岩政 はい、プロは僕だけです。練習は平日の夜と土日ですが、ほとんど集まらない。それでもどうやって勝たせるか。「お前らプロだろ」とは言えないし(笑)。鹿島やタイ、岡山での経験が全く通じない初めての経験です。
石川 そのチームの人もビックリですよね。例えて言うと、ノーベル賞学者が高校の理科クラブに来たような(笑)。
岩政 小さな島の出身で、もともとは新しいことや誰かに会うことは怖かったし、面倒でした。でも結局、大切なことはどこへ行っても変わらないんですね。将来のことは見えないけれど、自分の仕事に対する姿勢を維持して、与えられたものに取り組んでいけば、何かにつながっていく。そういう確信があります。
石川 やっぱり、違う世界にどれだけ飛び込んでいったかが、自信につながるんですね。
岩政 つながるのを楽しみにしている面もあります。選手のほか、今年からはコーチングも始めました。しゃべる仕事や執筆、解説なども広げていきたい。どのレベルで仕事に取り組んでいるかだけ気を付けて、できるだけ新しい経験を選んでいけば、自分にふさわしいものが必ずついてくると思っています。
石川 ゆくゆくは監督のオファーもありそうですが。
岩政 選択肢の1つではあります。でも今は監督だけをずっとやっていこうとは思っていません。あえて言えば、監督は僕じゃなくてもできることです。僕はやはり、僕にしかできない道を歩いて行きたい。ただ、日本のサッカー界を大きくするために何かやれればとは思っています。つまり日本サッカーの未来につながるような仕事です。そのためにいろんな経験をしておきたい。僕は変に哲学的なことを考えるのが好きで、長い歴史を考えたとき、僕の狭い時間の中だけでセコセコ生きてるのはダサいなと思っているんです。
石川 ビジネスの世界もプロ化して、個の重要性ばかり指摘されますが、やはり最後はどれだけ仲間を助けられるかどうかが、プロの条件かもしれませんね。今日はどうもありがとうございました。
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