6月のロシアW杯に向けた随時企画「アレ・ル・ニッポン!(いくぞ ニッポン)」、今回は日本代表DF昌子源(25)。鹿島のキャンプ地・宮崎のチーム宿舎でスポーツ報知が独占インタビューした。W杯アジア最終予選の終盤には代表主力センターバックを務めるなど、バヒド・ハリルホジッチ監督(65)にも実力が評価され、W杯メンバー入りは濃厚だ。鹿島でのタイトル獲得を念頭に置きながら、W杯出場がかなった時には、父・力(ちから)さん(54)への「恩返し」にすると語った。(構成・内田 知宏)
「あの時の言葉があるからこそ、今がある」
昌子は切り出した。10年ほど前、生まれ育った神戸から鳥取・米子北高に進学したばかりの頃。初めての寮暮らしになじめなかった。
「めっちゃホームシックになったんですよね。言っちゃ悪いんですけど、寮生活はつまらんかった。友達はできて、サッカー部のみんなも良くしてくれたんですけどね。ただ、生活環境がガラッと変わって、地元の友達が恋しくなった。変化についていけなかったんです。それで、帰りたくなって」
サッカーでもくじけかけていた時期だ。米子北高進学前はG大阪の下部組織に所属。同期にはFW宇佐美貴史(25)=デュッセルドルフ=ら才能あふれる選手が多くいた。中学3年の時、昌子は実力差に嫌気が差し、サッカーから離れた。友人とバスケをして練習の時間をつぶした。米子北高への進学は父・力さんがサッカーを続けさせるために打った最後の一手だったが、頓挫しそうだった。昌子は我慢していた「すぐ帰りたい」という思いを口にする寸前だったが、そんな時に、力さんが母・直美さんとともに、電話で冒頭の「言葉」をかけてくれた。
「『無理やったら帰っておいで』『自分のできるところまで、とりあえずやっておいで』と言ってくれた。今思えば本当にありがたい言葉で、偉大だった。その言葉があったから、(気持ちが楽になり)結果的には3年間、頑張れた。親だから『今はまだ限界じゃない』と見えたんじゃないかな。高校2、3年になる頃は、帰省した時、逆に実家から米子に『帰るわ』と言うようになっていたくらい」
初めて見たW杯も、父と一緒だった。02年日韓大会、神戸で行われたロシア―チュニジア戦。当日、父にビッグスクーターに乗せられスタジアムに向かった。
「小学5、6年の時かな。そこでW杯という存在を知った。チュニジア側の席で、その国の人が巻いていたマフラーと国旗をくれて、応援してくれよ、と。日本という国で、外国人が母国のために『ウワー』ってなっているのを見て、これがW杯かと。親父(おやじ)に初めて教えてもらった。体感させてもらって。鮮明に覚えていますね。『あ、すげえ』と」
日韓大会から16年、昌子は日本代表の一員として、W杯に臨める位置にいる。
「思えば、高校1年の時に帰らなかったのが正解やった。あの言葉がなかったら、すぐ実家に帰っていたかもしれないし、3年間やってなかったらプロにもなってないし、今の位置にはいない。ほんまにあの言葉には救われた。あの言葉だけで限界まで挑めた。俺はここが限界と勝手に決めとっただけやから。ここまで来られた」
今では、最も我慢が必要といわれるポジション、センターバックで日本屈指の選手になった。W杯イヤーといえども、鹿島の「タイトル獲得が最優先」という信念は揺るぎないが、一方で両親への思いもある。
「(W杯出場で)恩返しというのは、ありますね。もし選ばれたらという話ですが(姫路独協大サッカー部監督の)親父は仕事があまりにも忙しいけど、ロシアには来てほしいんですよね。親父は昔のサッカーのビデオテープをめっちゃ持ってるんですよ。ベルカンプとかセレーゾとか。白黒時代も。昔は一緒に見てたりしていた。そういう人の子供がW杯に出るとなると、めっちゃうれしいやろなぁと。選ばれて国を背負ってピッチに立っている姿を見せたいと思うし、恩はそうやって返していきたいなと思いますよね」
◆昌子 源(しょうじ・げん)1992年12月11日、神戸市生まれ。25歳。地元チームのフレスカ神戸でサッカーを始め、G大阪ジュニアユースを経て米子北高へ進学。2011年、鹿島入り。12年3月24日に広島戦でJ1デビュー。対人守備、スピード、フィード力を備えたセンターバック。父・力さんは姫路独協大サッカー部監督で、日本協会公認で最上位の指導者S級ライセンスを持つ。J1通算141試合7得点。国際Aマッチ10試合1得点。180センチ、73キロ。
昌子源、両親の言葉で救われた 限界に挑めた…W杯での恩返し誓う 独占インタ