日刊鹿島アントラーズニュース

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2018年3月12日月曜日

◆被災地にグラウンドをつくった 小笠原満男が、子どもたちに語ったこと(Sporitiva)





 2018年1月6日、午前8時――。朝の陽射しにキラキラと輝く、まだ真新しい人工芝のピッチ中央に、鹿島アントラーズの小笠原満男の姿はあった。目の前に広がる、完成したばかりのおよそ5000坪のグラウンドをゆっくり見渡すと、彼はつぶやいた。

「すごいよね……。すごいよ、本当に」



 緑色したピッチの上では、すでに子どもたちが元気に走り回ってボールを蹴っていた。その様子を、小笠原は万感の思いで見つめていた。

 被災地に子どもたちが自由に走り回れるグラウンドを作ってあげられないだろうか――。

 東日本大震災後、東北出身のJリーガーたちを募り、『東北人魂』という団体を結成した小笠原は、サッカーを通して被災地の子どもたちの心に寄り添う活動を続けてきた。早7年が経ったが、その間、幾度となく目の当たりにしてきた被災地の現実。活動するイベントが開催できる場所は、もっぱら体育館が多く、そのたびに「もっと外で思い切り走り回れる場所があれば……」という思いが強くなっていった。

 そこで、小笠原は行動を起こすと、グラウンドを作るためのプロジェクトを結成した。自らの出身校があり、学生時代の友人たちの力も借りることができる、被災地・岩手県大船渡市にグラウンドを作ることを決意したのだ。

 それから小笠原は、必要とあれば時間を見つけては大船渡に出向き、多くの人たちにグラウンドの必要性を説いていった。

 現地でサッカー関係者のパーティーがあれば駆けつけ、苦手な人前でも壇上に立ち、声高にグラウンドの必要性を訴えた。時には、大船渡市長へ直談判にも行った。現役サッカー選手である小笠原がフロントマンに立つことで説得力が増すことは、本人が一番理解している。だから、時間が許すかぎり、どんなことでも積極的に行動した。

 周囲の理解と協力を得ていくのと同時に、イチから土地を探していかなければならなかった当プロジェクトは、決して平坦な道のりではなかった。しかし、誰よりも最後まであきらめずに動き続けたのは、小笠原だった。

 グラウンドを作ることができるのなら……その一心だった。

 そしてついに、多くの寄付金や援助、さらには大船渡市の協力のもと、2017年12月26日、大船渡市に全面人工芝の多目的グラウンドがオープンしたのである。

 小笠原が大船渡に人工芝のグラウンドを作ることにこだわったのには、実は理由があった。まずは、大船渡が被災地であるということ。そして、東北地方でも海沿いで比較的暖かく、積雪が少ないということだった。

 被災地に人を呼べるグラウンドができれば、大会などを催(もよお)すことで人の出入りが多くなり、街が活性化する。そこで積雪の少ない大船渡に、天候に左右されにくい人工芝のグラウンドを作ることで、イベント等も滞りなく開催できるのではないか、と考えたからだ。そして、試合やイベントで訪れる人たちに被災地の現状を少しでも目にしてもらうことで、風化を食い止めるとともに、防災の注意喚起もできる――。なかでも、防災意識を促すことに関しては、小笠原はことさら熱心だった。

 冒頭のグラウンドでは、完成を記念して初めてのイベントが行なわれた。東北地方の小学生チームを主体としたサッカー大会を開き、そこには鹿島アントラーズのスクール選抜チームも招待していた。

 前日、小笠原は、そのアントラーズのスクール選抜チームの選手たちに被災地である大船渡に来ることの意味を知ってもらうため、ちょっとした講演を行なった。

 プロジェクターを用いて津波の映像を見せると、さすがに子どもたちも息を飲み、真剣な眼差しを向ける。しばらくして映像を止めた小笠原は、自らの言葉で震災時の状況を説明すると、子どもたちにひとつの質問を投げかけた。

「じゃあ、津波が来ましたって言われたら、どうしたらいい?」

 子どもたちは誰も手を挙げないどころか、下を見てうつむいていた。見かねた小笠原が続けて言葉をかける。

「そんなんじゃ、試合中に自分がボールをほしいときにも呼べないよ?」

 それを聞いた途端、子どもたちの目に輝きが戻り、一斉に手が上がりはじめる。それはまるで、魔法の言葉のようだった。



 小笠原はたとえ同じ答えであったとしても、何人にも回答させると、そのたびに子どもたちを褒めた。そして、次の質問を続けた。

「そうだね、高いところに走っていくんだよね。うん、みんな正しいよ。じゃあ次は、そこまでどうやって走っていく?」

 今度は手こそ上がるものの、遠慮がちに小さな声で答えている子どもたちに、小笠原はまたハッパをかけた。

「ここでちゃんと大きい声を出せなければ、明日の試合中も(声は)出せないぞ!」

 また魔法の言葉である。ハッとした子どもたちは、次々にハキハキとした大きな声で、質問に答えていく。

「そう、後ろを振り返らずに思いっきり走る。そのときは、今みたいな大きい声で、周りの人にも教えてあげるといいね」

 なかなかうまい言葉が出てこない子どもには、「間違えることは恥ずかしいことじゃないぞ。プレーでも、ミスを恐れるよりチャレンジしなさいってコーチに言われてるでしょう」と、何かにつけてサッカーと関連させながら、子どもたちにわかりやすく防災意識を植えつけていった。

 実は、小笠原は東北人魂の活動のほかに、オフの時期は依頼があれば全国各地に講演に出向き、防災意識の大切さを伝えている。こちらが把握しているスケジュールだけでも、毎年、年末年始は気が遠くなるような移動を繰り返している。しかし本人は、「移動中は寝てればいいから」と意に介すことはない。

 現役のプロサッカー選手である今だからこそ、自分にできる最大限の力で、いつ起こるかわからない災害への意識を広められたら、と考えているのだろう。

 だから今回、大船渡に新設されたグラウンドの全景写真を最初に見たときも、小笠原が真っ先に口にしたのは、津波が来た際の避難経路についてだった。

「この階段を上った先に小学校があるんだね。この高さなら大丈夫だね」

 意識の高さに、頭が下がる思いだった。



 しかしながら、先述したような映像を見せながらの講演を大小構わず、小笠原はこの7年間続けてきていたかと思うと、正直、尊敬を通り越して唖然(あぜん)としてしまう。この人のなかでは、震災はまだ何ひとつ終わっていないのだ――。今回それを目の当たりにし、取材しながらわかっていたようで、何もわかっていなかった自分に落胆した。

 ただ、それだけの意識や想いと情熱がなければ、おそらく、東北でもかなり大きい規模となるこのグラウンド施設の建設は実現できなかっただろう。出来上がったグラウンドを見ながら、プロジェクトを支えた地元のスタッフたちは、本当に人工芝のグラウンドが「できちゃったねぇ」と笑い、口を揃えてこう言った。

「最後まで一番あきらめなかったのは満男だね。あいつじゃなきゃできなかった」

 アントラーズのスクールの子どもたちに対して、ひと通り震災についての話を終えると、小笠原は「アントラーズはどういうチームだ?」と聞いた。

 するともう子どもたちは、下を向くこともなければ、消極的な発言をすることもなく、大きな声で言った。

「勝つチーム!」

 それを受けて、小笠原は最後にこう語りかけた。

「明日、みんなが試合をするグラウンドは、いろんな人たちのいろんな想いが詰まって、やっとできたグラウンドです。相手チームには、お父さんやお母さんがいない子もいるかもしれない。でも、みんな真剣にサッカーをやっている子ばかりです。だから、みんなもサッカーができることに感謝して、真剣に試合をしてほしい。いいか、やるからには全力で勝ちにいけ!」

 それは、小笠原の歩んできたキャリアであり、震災から今日までの強い想いが凝縮されたような言葉だった。

 東日本大震災から今日で丸7年を迎えた。この大船渡のグラウンドに関して言えば、マイナスにされたものが、ようやくゼロを超えて「1」になったばかりだ。震災の爪痕は、今では東北地方だけではないが、今一度これを機に、改めて被災地に心を寄せつつ、自らの防災への知識を再確認していきたい。

 そしてこれからも、東北サッカー発展のために、小笠原の、東北人魂の活動は続いていく。


被災地にグラウンドをつくった小笠原満男が、子どもたちに語ったこと

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